第四話 神様は何を食べるのか
神様を作る。
その言葉が、いつまでも頭から離れなかった。
神様というものは、人間が作れるものなのだろうか。神話の中には、人間が神になる話もある。偉業を成し遂げた者が神として祀られたり、死者が祖霊として信仰の対象になったりすることもある。けれど、あの男が言ったのは、そういうことではない気がした。
九番目の歌。
二十三人。
輪の外に立つ女。
そして、帰ってこようとしている何か。
私は机の上に広げた資料を眺めていた。
夜明けから、もう三時間が経っている。昨夜の男は何者だったのか。
本人は、昔この島で神様と呼ばれていたものだと言った。では、どうして神様ではなくなったのか。そもそも、神様でなくなるとは、どういうことなのだろう。
考えても答えは出ない。
私は冷めたコーヒーを飲み干した。
苦かった。
昨夜から何も食べていないことに気づいた。
台所へ行き、冷蔵庫を開ける。宗一が持ってきてくれた煮物が、まだ少し残っていた。
鍋に移して温め直す。湯気が立ち上ったところで、ふと思った。
神様は、何を食べるのだろう。
供物。
御神酒。
米。
果物。
島の拝所にも、昔から食べ物が供えられていた。祖母も、祭祀の日には決まった料理を作っていた。けれど、供えた食べ物が実際になくなるところを見たことはない。
神様は食べない。
人間が食べるものとは違う何かを受け取る。
そう考えるのが普通だろう。
では、何を?
私は箸を止めた。
歌。
祈り。
願い。
もし、それが神様の食べ物だったら?
馬鹿げた考えだ。
そう思いながらも、私は祖母の帳面を開いた。
******
午前十時過ぎ、宗一がやってきた。
今日はきちんと髪を整え、白いシャツを着ていた。
「ハル婆の葬儀、決まったよ」
「いつ?」
「明後日だ」
「そう」
私は少し迷ってから尋ねた。
「お葬式、行ってもいいかな」
「もちろんだ。ハル婆も喜ぶ」
宗一は縁側に腰を下ろした。
その横顔には、疲れが滲んでいた。
「ねえ、宗一おじさん」
「何だ」
「神様って、何を食べるの?」
宗一は私を見た。
しばらくして、笑った。
「何だ、急に」
「ちょっと気になって」
「供え物なら、昔から米や酒だろう」
「そうじゃなくて」
私は首を振った。
「本当に食べるもの」
宗一の笑みが消えた。
「……誰かに聞いたのか」
「何を?」
「神様が食べるもののことだ」
私は答えなかった。
宗一は庭に目を向けた。
「昔、ナツおばあに聞いたことがある」
「おばあに?」
「ああ。俺がまだ子どもの頃だ」
宗一は懐かしそうに目を細めた。
「祭りの日には、家々から料理を持ち寄った。米、芋、魚、酒。普段は食べられないような御馳走もあった」
「うん」
「俺は、それが楽しみでな」
宗一は少し笑った。
「ある日、ナツおばあに聞いたんだ。神様は、こんなにたくさん食べられるのかって」
「おばあ、何て?」
「食べないよ、って」
私は顔を上げた。
「食べない?」
「ああ」
宗一は頷いた。
「神様は、人間が食べるものは食べない。人間が食べるものを欲しがる神様は、神様じゃないってな」
「じゃあ、何を食べるの?」
「俺も同じことを聞いた」
「それで?」
宗一は私を見た。
「ナツおばあは、こう言った」
少し間を置いて、続けた。
「神様は、人間が差し出したものを食べるんだよ」
私は眉をひそめた。
「同じことじゃない?」
「俺もそう思った」
宗一は笑った。
「でも、違うらしい」
「どう違うの?」
「供えたものじゃない。差し出したものだ」
私は黙った。
「人間が何かを願うとき、代わりに何かを差し出す。神様は、その差し出されたものを受け取る」
「お金とか?」
「昔は、そういうものじゃなかったんだろうな」
「じゃあ、命?」
宗一は答えなかった。
その沈黙が、妙に長かった。
「宗一おじさん」
「何だ」
「昔、この島で神様と呼ばれていたものに会った」
宗一の顔が強張った。
「……いつ」
「昨夜」
「どこで」
「庭」
宗一は立ち上がった。
「何を言われた」
「九番目の歌は、神様を作る歌だって」
宗一は目を閉じた。
しばらくして、低い声で言った。
「そうか」
「知ってたの?」
「いや」
「でも、驚かないんだね」
宗一は私を見た。
「澪。この島ではな、知らないことのほうが多いんだ」
私は苛立った。
「それ、説明になってない」
「そうだな」
宗一は頷いた。
「だから、今日は少し話そう」
*****
宗一が連れていったのは、島の南側にある古い拝所だった。
集落の外れから細い道を下り、畑の間を抜ける。
やがて、小さな石垣に囲まれた場所に出た。中央には平たい石が一つ置かれている。
その周囲に、古い香炉が三つ並んでいた。石の表面は風雨に削られ、ところどころ苔が生えている。特別な建物はない。屋根も、門もない。
ただ、石と木と土があるだけだった。
「ここは?」
「昔、神様に食べ物を供えていた場所だ」
「今は?」
「誰も来ん」
宗一は石の前にしゃがんだ。
香炉の一つを指さす。
「これを見ろ」
私は覗き込んだ。
香炉の内側には、古い灰が残っている。
その底に、何かが埋まっていた。小さな白いもの…貝殻だった。
「また、これ……」
宗一は頷いた。
「昔は、祭祀が終わると、ここに貝殻を納めたらしい」
「何のために?」
「約束の証だ」
「約束?」
「神様と人間の」
宗一は立ち上がった。
「この島には、昔から一つの言い伝えがある」
私は黙って聞いた。
「島がまだ小さく、人も少なかった頃、海が荒れて、作物が育たず、病気が流行った。人々は何度も祈ったが、何も変わらなかった」
「それで?」
「ある日、一人の男が現れた」
私は昨夜の男を思い出した。
「その男は、人々に言ったそうだ。おまえたちの願いを叶えてやろう、と」
「神様だったの?」
「最初は、誰もそう思わなかったらしい」
宗一は石の上に手を置いた。
「ただの旅人だったそうだ。海から来たとも、森から来たとも言われている」
「名前は?」
「残っていない」
私は息を呑んだ。
名前のない男。
昨夜の男も、自分には名前がないと言っていた。
「男は、何をしたの?」
「雨を降らせた」
「雨?」
「ああ。長く続いた日照りが終わり、畑に水が戻った。その次の年には、海が穏やかになった。病気も減った」
「それで神様になった?」
「そういうことだ」
宗一は頷いた。
「人々は男に感謝して、食べ物を持っていった。けれど、男は何も食べなかった」
「どうして?」
「食べ物はいらないと言ったそうだ」
「じゃあ、何が欲しかったの?」
宗一は私を見た。
「歌だ」
私は黙った。
「男は、人々に歌を教えた。願いを言葉にして、みんなで歌えと」
「それが、八つの歌?」
「ああ」
「でも、どうして輪になって歌うの?」
「一人の願いでは、足りなかったんだろう」
宗一は遠くの海を見た。
「島の人間が、同じ願いを持つこと。それが大事だったらしい」
私は考え込んだ。
一人の願いでは足りない。
だから、みんなで歌う。
輪になって、声を重ねる。
それは、何となく理解できた。
けれど。
「それなら、いい話じゃない」
私は言った。
「神様が人間を助けて、人間は感謝して歌う。お互いにいいことがある」
「そうだな」
「じゃあ、どうして神様はいなくなったの?」
宗一は黙った。
しばらくして、石の前に腰を下ろした。
「人間が、願いすぎたんだろうな」
*****
宗一の話によれば、最初の頃、歌は年に一度だけだったという。
豊作を願う歌。
海の安全を願う歌。
子どもの成長を願う歌。
それぞれ決まった時期に、決まった場所で歌われていた。
けれど、次第に人々は、もっと多くのことを願うようになった。
病気を治してほしい。
失くしたものを見つけてほしい。
遠くへ行った家族を帰してほしい。
嫌いな人間を遠ざけてほしい。
誰かより豊かになりたい。
誰かより長く生きたい。
願いは増え続けた。
そして、人々は気づいた。
歌えば、願いが叶う。ならば、もっと歌えばいい。
もっと大きな声で。
もっと多くの人間で。
もっと長く。
「それで?」
私は尋ねた。
「神様は、疲れたんだろうな」
宗一は静かに言った。
祖母と同じ言葉だった。
神様も、疲れることがある。
「神様が疲れるって、どういうこと?」
「俺にもわからん」
宗一は首を振った。
「ただ、ある年から、願いが叶わなくなったそうだ」
「何で?」
「神様が、歌を聞かなくなった」
私は石の上に置かれた香炉を見た。
「それで、人々は?」
「もっと歌った」
「……そうなるよね」
「ああ」
宗一は苦笑した。
「願いが叶わなくなれば、祈りが足りないと思う。祈りが足りなければ、もっと祈る」
私は黙った。
「でも、神様は戻ってこなかった」
「だから、九番目の歌を作った?」
宗一は私を見た。
「そうらしい」
「誰が?」
「わからん」
「何のために?」
「神様を帰すためだ」
私は首を傾げた。
「帰すって、島に?」
「いや」
宗一はゆっくりと首を振った。
「神様を、元いた場所へ帰すためだ」
私は息を呑んだ。
「……どういうこと?」
「人々は、神様がいなくなったことを受け入れられなかった。だから、もう一度呼び戻そうとした」
「でも、九番目の歌は、帰ってこないでって歌でしょう?」
「そうだ」
「矛盾してる」
宗一は頷いた。
「だから、失敗したんだろうな」
私は黙った。宗一は続けた。
「神様を呼び戻したい者と、もう帰ってきてほしくない者がいた。同じ歌の中に、二つの願いがあった」
私は祖母の帳面を思い出した。
感謝と拒絶。同じ歌の中にある、相反する言葉。
「それで、何が起こったの?」
宗一はしばらく答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「人が、いなくなり始めた」
*****
帰り道、私は宗一に尋ねた。
「ねえ、神様って、結局何だったんだろう」
「何だと思う」
「わからない」
私は正直に答えた。
「本当に神様だったのかもしれないし、人間だったのかもしれない。でも、もし人間だったなら、雨を降らせたり、病気を治したりなんてできないでしょう」
「そうだな」
「じゃあ、やっぱり神様だったのかな」
宗一は笑った。
「神様ってのは、何でもできるものなのか」
「普通は、そう思うんじゃない?」
「じゃあ、何でもできなくなったら、神様じゃなくなるのか」
私は答えられなかった。宗一は続けた。
「人間が神様と呼べば、神様になるのか。それとも、神様だから人間がそう呼ぶのか」
私は少し考えた。
「……どっちなんだろう」
「俺にもわからん」
宗一は笑った。
「ただ、一つだけ言えることがある」
「何?」
「人間は、神様がいなくなっても、神様を欲しがる」
私は黙った。
「困ったときに助けてくれるもの。願いを聞いてくれるもの。自分たちを守ってくれるもの」
宗一は歩きながら言った。
「そういうものが、どこかにいてほしいんだろうな」
私は昨夜の男を思い出した。
昔、この島で神様と呼ばれていたもの。
けれど、もう神様ではないもの。
あの男は、なぜ島に残っているのだろう。神様でなくなったのなら、どこかへ行けばいいのに。
そう思った。
けれど、すぐに別の考えが浮かんだ。
もしかすると、あの男はどこにも行けないのではないだろうか。
*****
その日の夕方、私は祖母の帳面を読み返していた。
九番目の歌。
墨で塗りつぶされた最後の一行。
その下に、祖母の字で書かれた言葉。
『神様は、もういない』
私はふと、帳面の綴じ目に違和感を覚えた。
九番目の歌のページだけ、少し厚い。
指で触れると、紙が二枚重なっているようだった。
私は慎重にページをめくった。綴じ目の奥に、薄い紙が挟まっている。糊で貼り合わせられていた。古い糊は乾燥し、端が少し浮いている。
私は爪を差し込み、ゆっくりと剥がした。
中から、小さく折り畳まれた紙が出てきた。古い和紙だった。
表面には、細かな文字が書かれている。
私は息を止めた。そこには、九番目の歌についての説明があった。
『九番目の歌は、神を迎えるためのものにあらず』
私はゆっくりと読み進めた。
『人の願いを集め、形なきものに形を与えるための歌なり』
形なきものに、形を与える。
昨夜の男の言葉と同じだった。
神様を作る歌。
私はさらに読み進めた。
『二十三の声をもって、一つの願いとす』
『一つの願いをもって、一つの形とす』
『その形を、人は神と呼ぶ』
私は紙を持つ手に力を込めた。
二十三人。
それは、神様を作るために必要な人数だった。
けれど、なぜ二十三人なのだろう。
紙の最後には、さらに一文があった。
『ただし、形を得たものは、願いを食らう』
私は目を凝らした。
その下に、小さな文字が続いている。
『願い尽きれば、人を食らう』
背筋が冷たくなった。
神様は、人間の願いを食べる。
願いがなくなれば、人間を食べる。
それが、この島の神様だったのだろうか。
私は紙を裏返した。
裏には、別の筆跡で短い文章が書かれていた。祖母の字だった。
『神様は、人を食べたりしない』
私は息を呑んだ。
その下に、さらに続きがある。
『人を食べるのは、神様を欲しがる人間のほうだ』
*****
その夜、島では小さな騒ぎが起こった。
北の森に近い集落で、飼い犬が一斉に吠え始めたのだ。
最初は一軒。
次に二軒。
やがて、集落中の犬が吠え始めた。
けれど、しばらくすると、すべての犬が突然鳴きやんだ。
そして、静寂の中で歌が聞こえ始めた。
女の声だった。
低く、ゆっくりとした旋律。
島のあちこちで、人々が窓を閉めた。
灯りを消した。
布団をかぶった。
誰も外へ出ようとしなかった。
ただ、一人だけ。
集落の外れに住む老人が、家の戸を開けた。
老人は、歌声を聞いていた。
長い間、聞き入っていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……懐かしいな」
その瞬間、歌が止まった。老人は首を傾げた。
「もう一度、聞かせてくれんか」
誰も答えなかった。
けれど、暗闇の中から、小さな女の子が現れた。白い服を着ている。裸足だった。
女の子は老人を見上げた。
「歌、好き?」
老人は笑った。
「ああ。昔はよく聞いたもんだ」
「じゃあ、一緒に歌おうよ」
女の子は手を差し出した。老人は、その手を取った。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
女の子が歌い始める。
老人も、声を重ねた。
不思議なことに、歌詞を覚えていた。
何十年も歌っていなかったはずなのに。
言葉が自然に口から出てきた。
足が動いた。
右へ。
右へ。
同じ方向へ。
老人は笑った。
こんなに体が軽いのは、いつ以来だろう。
膝の痛みもない。
腰も曲がっていない。
女の子は楽しそうに笑った。
「ねえ、おじいちゃん」
「何だい」
「もう、帰らなくていいよ」
老人は首を傾げた。
「何を言ってるんだい」
「だって、ここにいれば、ずっと歌っていられるもの」
老人は笑った。
「そうかい」
そして、また歌い始めた。
女の子の声に重ねて。
何度も。
何度も。
夜が明けるまで。
*****
翌朝。
老人は、自宅の庭で見つかった。
椅子に座り、穏やかな顔で眠っていた。呼吸はなかった。
医師は、老衰の可能性が高いと説明した。
九十四歳だった。
家族は、安らかな最期だったと涙を流した。
けれど、宗一だけは違うものを見ていた。
老人の足元。
そこには、丸く踏み固められた跡があった。
まるで、何人もの人間が輪になって歩いたような跡。
そして、老人の右手には、小さな貝殻が握られていた。
穴は、一つだけだった。
宗一はそれを見つめた。
やがて、静かに呟いた。
「……二人目か」
その声に答えるように、どこからか太鼓の音が響いた。
一つ。
二つ。
三つ。
宗一は北の森を見た。
木々の向こうに、白い服の女が立っていた。
サヨだった。女は宗一に向かって微笑んだ。
そして、指を二本立てた。宗一は目を閉じた。そのとき、背後から声がした。
「宗一坊」
振り向く。そこには、ハル婆が立っていた。
昨日、亡くなったはずのハル婆が。
生前と同じように、白髪を結い、手には針仕事の布を持っていた。
宗一は息を呑んだ。
「ハル婆……」
老婆は笑った。
「返事をしたね」
宗一は凍りついた。
ハル婆は、ゆっくりと近づいてきた。
「困った子だねえ」
その声は、ひどく優しかった。
「昔から、あんたは何でも素直に聞く子だった」
宗一は後ずさった。ハル婆は微笑んだ。
「ねえ、宗一坊」
手に持っていた布を広げる。
そこには、小さな貝殻がいくつも縫いつけられていた。どれも、穴が一つしか開いていない。
ハル婆は言った。
「今度は、あんたが輪の外に立っておくれ」
宗一は首を振った。
「俺には、できん」
「どうして?」
「俺は、歌ったことがない」
ハル婆は笑った。
「だから、いいんだよ」
宗一は動けなかった。
老婆は、もう一度言った。
「歌ったことがない者だけが、外に立てるんだから」
その瞬間、北の森から太鼓の音が響いた。
ハル婆はゆっくりと振り返った。
「さあ」
その声に、別の声が重なった。
サヨの声だった。
「そろそろ、始めようか」
森の奥で、誰かが歌い始めた。
それは、まだ誰も知らないはずの、九番目の歌だった。
第四話 了




