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第三話 誰も知らない九番目の歌

ハル婆が死んだ。

そう聞かされたのは、翌朝のことだった。

知らせに来たのは宗一だった。


午前六時を少し回った頃、玄関を叩く音がした。

昨夜はほとんど眠れなかった。

誰かが呼ぶ声が聞こえるたびに目を覚まし、そのたびに時計を確認した。


午前二時十三分。


三時四十一分。


四時二十六分。


夜が明けるまで、何度も。

だから、玄関を叩く音がしたときも、すぐには返事ができなかった。

「澪。俺だ」

宗一の声だった。

私はようやく布団から起き上がった。

「おはよう。こんな朝早く、どうしたの」

玄関を開けると、宗一はひどく疲れた顔をしていた。髪は乱れ、着ているシャツには泥がついている。

「ハル婆が亡くなった」

私は一瞬、言葉の意味がわからなかった。

「……昨日、会ったばかりだけど」

「ああ」

「元気だったよ」

「そうか」

「針仕事してたし、普通に話してたし」

宗一は黙っていた。

「いつ?」

「今朝だ」

「何時頃?」

「わからん」

「わからないって、どういうこと?」

宗一は門の外を見た。朝日が集落の屋根を照らしている。

「今朝、迎えに行ったんだ」

「迎えに?」

「約束してたからな」

私は眉をひそめた。

「何の約束?」

「森へ行く約束だ」

宗一はそこで口を閉ざした。

まただ。この島の人間は、肝心なところになると必ず黙る。

「それで?」

「家にいなかった」

「……え?」

「戸は開いてた。茶も入れてあった。昨日の針仕事も、そのままだった」

「じゃあ、亡くなったっていうのは?」

宗一は私を見た。

「森で見つかった」

背筋に冷たいものが走った。

「北の森?」

「ああ」

「どうして、そんなところに」

宗一は答えなかった。代わりに、ポケットから小さなものを取り出した。

白い貝殻だった。

二つの穴が開いている。

「これを持ってた」

私は思わず後ずさった。同じものを、昨日拾った。

その前の日にも。

宗一は私の反応を見逃さなかった。

「おまえも持ってるな」

「……うん」

「見せてくれ」

私は座卓の上に置いてあった二つの貝殻を持ってきた。

宗一はそれを縁側に並べた。


三つの貝殻。

どれも同じくらいの大きさだった。

けれど、よく見ると少しずつ形が違う。


宗一が持ってきたものは、縁が丸く磨かれていた。

最初に拾ったものは、表面に細かな傷がある。

昨日のものは、まだ穴が一つしか開いていない。

「これは、何なの?」

宗一は貝殻を一つ手に取った。

「昔、歌う女たちが身につけていたものだ」

「衣装の飾り?」

「そうだ」

「じゃあ、別に珍しくないんじゃない?」

「珍しくはない」

宗一は頷いた。

「ただし、これは違う」

「何が?」

「穴が二つあるだろう」

「うん」

「一つは、輪に入るための穴。もう一つは、輪から出るための穴だ」

私は宗一の顔を見た。

「何それ。おまじない?」

「そう思ってくれてもいい」

「でも、昨日のは一つしか開いてない」

宗一は答えなかった。その沈黙だけで、何となくわかった。

「……私、輪に入ったことになってる?」

宗一は目を伏せた。

「返事をしたか」

昨日と同じ質問だった。私は唇を噛んだ。

「した」

宗一の手が止まった。

「誰に」

「知らない女の人」

「どんな声だった」

「若い女の人。最初は困ってるみたいで、開けてって言ってた」

「それで?」

「誰ですかって聞いた」

宗一は深く息を吐いた。

「そうか」

「ねえ、どうなるの?」

「わからん」

「またそれ?」

思わず声が大きくなった。

「昨日からずっとそう。森へ行くな、返事するな、帳面を触るなって。何か知ってるなら教えてよ」

宗一はしばらく黙っていた。


やがて、私の顔をまっすぐ見た。

「澪。俺も全部知ってるわけじゃない」

「でも、何かは知ってるでしょう」

「ああ」

「じゃあ、そこから話して」

宗一は縁側に腰を下ろした。

庭のフクギが、風に揺れていた。

「昔、この島には九つの歌があった」

私は黙って聞いた。

「八つは、神様に聞かせる歌だった。海が荒れんように、作物が実るように、子どもが無事に育つように。そういう願いを歌にした」

「九つ目は?」

「神様に聞かせてはいけない歌だった」

私は息を呑んだ。

「どうして?」

「神様が帰ってくるからだ」

祖母の帳面に書かれていた言葉と同じだった。

「帰ってくるって、どこから?」

宗一は北の森を見た。

「あそこからだ」

「森にいるの?」

「いない」

「じゃあ、どこに?」

「それが、わからん」

宗一は苦しそうに笑った。

「昔から、誰もわからんのだ」


   ******


ハル婆の遺体が見つかったのは、北の森の入口だったという。

森の中ではない。

集落から続く石畳の道が途切れ、木々が密集し始める、その境目。

そこに、ハル婆は座っていた。

背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いて、まるで誰かを待っているような姿だった。顔は穏やかだったという。

ただ、一つだけ奇妙なことがあった。ハル婆の足元には、円形に踏み固められた跡があった。人が何度も歩いたような跡。

けれど、そこにはハル婆一人しかいなかった。

「誰かが一緒にいたんじゃないの?」

私は尋ねた。

「そうかもしれん」

「警察には?」

「連絡した。医者も来た」

「何て?」

「詳しく調べるそうだ」

宗一はそれ以上言わなかった。

私は少し安心した。少なくとも、この島でも人が亡くなれば警察が来る。当たり前のことだが、その当たり前が妙にありがたかった。

「ハル婆は、昨日、私に話してくれた」

「何を」

「輪の外に立つ人のこと」

宗一は顔を上げた。

「サヨさんのことか」

「うん。歌わないで、輪の外から見てる人がいたって」

「ああ」

「その人がいないと、輪から戻ってこられなくなるって」

宗一は目を閉じた。

「ハル婆は、そんなことまで話したのか」

「ねえ、戻ってこられないって、どういう意味?」

宗一は答えなかった。代わりに、ぽつりと言った。

「昔、歌ってる途中でいなくなった人がいたんだ」

「いなくなった?」

「ああ」

「どこへ?」

「誰も知らん」

宗一は膝の上で手を組んだ。

「最初は、一人だった」

私は黙って聞いていた。

「歌が終わったあと、人数を数えたら一人足りなかった。みんなで探したが、見つからなかった」

「事故じゃないの?」

「そう思ったんだろうな。昔のことだから、詳しい記録も残ってない」

「それで?」

「次の年も、一人いなくなった」

風が止んだ。

「その次は、二人」

私は祖母の帳面を思い出した。


 戻らぬ者。

 二十三人。


「それって……」

「ああ」

宗一は頷いた。

「歌が終わるたびに、誰かが戻ってこなくなった」

「でも、そんなことが何年も続いたら、祭祀なんてやめるでしょう」

「やめたよ」

「じゃあ、何で九つも歌があるの?」

宗一は私を見た。

「やめられなかったんだ」

意味がわからなかった。

「どうして?」

「歌わない年にも、人がいなくなったからだ」

私は何も言えなかった。

「歌えば、誰かがいなくなる。歌わなくても、誰かがいなくなる」

宗一はゆっくりと言った。

「だから、歌うしかなかった」


  ******


昼過ぎ、私は再び役場の資料室を訪ねた。知念は驚いた顔をした。

「昨日の今日で、また?」

「すみません。どうしても確認したいことがあって」

「いいですよ。何ですか?」

「昔、この島で行方不明になった人の記録はありますか?」

知念は少し考えた。

「行方不明?」

「祭祀に関係する人です」

その言葉を聞いた瞬間、知念の表情が変わった。

「……何か、わかったんですか?」

「まだ、何も」

私は祖母の帳面のことを説明した。


 九つの歌。


 戻らぬ者の数。


 合計二十三人。


知念は黙って聞いていた。

そして、棚の奥から古いファイルを取り出した。

「実は、私も気になっていたんです」

ファイルには『北森関係資料』と書かれていた。

中には新聞の切り抜きや、古い聞き取り調査の記録が綴じられている。

「これ、見てください」

知念が指さしたのは、昭和三十年代の新聞記事だった。小さな記事だった。


 見出しは『島の女性、祭祀後に消息絶つ』。


私は記事を読んだ。島内で行われた伝統祭祀のあと、参加者の女性一人が行方不明になったという内容だった。捜索が行われたが、発見には至らなかったらしい。記事の最後には、家族のコメントが載っていた。

 『いつものように帰ってくると思っていた』

私はその一文を何度も読んだ。

「これ、一件だけですか?」

「新聞に載っているのは、これだけです」

「ほかにもあったんじゃないですか?」

「それが……」

知念は別の資料を取り出した。古い聞き取り調査の記録だった。そこには、島の老人の証言が残されていた。

『昔は、歌のあとに人数を数えた。帰ってきた者を数えるのではない。帰ってこなかった者を数えた』

私は顔を上げた。

「どういう意味でしょう」

「私にも、よくわからないんです」

知念は困ったように笑った。

「ただ、この島には、昔から妙な言い回しがあるんですよ」

「言い回し?」

「人が亡くなったとき、普通は『あの世へ行った』とか『旅立った』とか言うでしょう」

「はい」

「でも、この島では、昔は違ったそうなんです」

知念は資料をめくった。そこには、短い言葉が記されていた。

 『輪から出た』

「亡くなった人のことを、そう言ったらしいんです」

私は息を呑んだ。

「輪から……出た」

「ええ」

「じゃあ、輪に入るっていうのは?」

知念は首を傾げた。

「さあ。生まれること、でしょうか」

私は答えなかった。

 祖母の帳面。

 貝殻の二つの穴。

 輪に入るための穴。

 輪から出るための穴。

 そして、戻らぬ者。

何かが、少しずつつながり始めていた。けれど、肝心なところがわからない。


もし輪に入ることが生まれることで、輪から出ることが死ぬことなら。

歌っている途中でいなくなった人たちは、何だったのだろう。


死んだのか。それとも、別の何かになったのか。私は資料をめくり続けた。

やがて、一枚の古い紙に目が留まった。祭祀の手順を書き留めたものらしい。墨で、短い文章が並んでいる。その最後に、奇妙な一文があった。

 『九番目の歌は、数を満たしたのちに歌うこと』

私は指でその文字をなぞった。


 数を満たす。

 何の数だ。


その下には、さらに小さな文字があった。

 『二十三をもって、一輪とす』

私は息を止めた。


 二十三。


祖母の帳面に書かれていた、戻らぬ者の合計と同じ数だった。


   ********


夕方、私は祖母の家に戻った。宗一の姿はなかった。ハル婆のことで忙しいのだろう。

私は座卓に資料を広げた。

 祖母の帳面。

 役場で複写した記録。

 古い写真。

 新聞記事。

一つずつ並べていく。

そして、あることに気づいた。

祖母の帳面に書かれた「戻らぬ者」の数。

一番目から八番目までの合計は、二十三人。

 けれど、九番目には数字がない。

代わりに『まだ』と書かれていた。

昨日、その隣に『一人』という文字が現れた。

そして、声が言った。


 あと、二十二人。


つまり。九番目の歌は、二十三人が揃わなければ歌えない。そういうことなのだろうか。

私は黒い帳面を開いた。


 九番目の歌。


 『帰らぬ神の御歌』


その歌詞を、もう一度読み直した。


 どうか、もう帰ってこないでおくれ。

 どうか、もう帰ってこないでおくれ。

 海を静めてくれたこと。

 作物を実らせてくれたこと。

 子どもを守ってくれたこと。


そして、最後の一行。墨で塗りつぶされた文字。

私は鉛筆を取り出した。薄い紙を重ね、上から軽く擦ってみる。文字の凹凸が残っていれば、何か読めるかもしれない。だが、何も浮かび上がらなかった。

紙を持ち上げ、光に透かす。やはり、わからない。


私はため息をついた。そのとき、ふと気づいた。


墨で塗りつぶされた部分の下に、別の文字がある。小さな文字。祖母の筆跡だった。


 『歌うな』


私は目を凝らした。その下に、さらに続きがある。


『九番目だけは、決して歌うな』


そして、最後に。


 『神様は、もういない』


私はしばらく、その文字を見つめていた。


神様は、もういない。

ならば。

いったい誰が、帰ってこようとしているのだろう。


   *******


その夜、私は夢を見た。

北の森だった。木々の間に、小さな広場がある。

地面は丸く踏み固められ、中央には古い石が置かれていた。

広場には、女たちが集まっていた。

 紺色の着物。

 結い上げた髪。

 手には扇や太鼓。

私はその輪の中に立っていた。周囲の女たちは、ゆっくりと歩いている。


 右へ。

 右へ。

 同じ方向へ。


足を運ぶたびに、土が柔らかく沈んだ。

誰かが歌い始めた。知らない言葉だった。けれど、意味はわかった。


 海を渡る風。

 実る穀物。

 生まれてくる子ども。

 島の安寧を願う歌。


私はいつの間にか、一緒に歌っていた。声が重なる。足が揃う。

隣の女が笑った。

私も笑った。何だか、とても気持ちがよかった。


考えなくていい。

ただ、歌っていればいい。足を動かしていればいい。

輪はゆっくりと回り続ける。


やがて、誰かが私の肩に触れた。

「澪」

振り向くと、祖母がいた。若い頃の祖母だった。白黒写真で見た姿と同じ。

紺色の着物を着て、手には太鼓を持っている。

「おばあ」

 祖母は微笑んだ。

「楽しいかい」

「うん」

「そうか」

祖母は頷いた。

「でもね、澪」

太鼓を持つ手が止まった。

「そろそろ、帰りなさい」

私は首を傾げた。

「どこへ?」

「外へ」

「外?」

「輪の外だよ」

私は周囲を見回した。女たちは歌い続けている。

誰もこちらを見ていない。

私は輪から出ようとした。けれど、足が動かなかった。

隣の女と手がつながっている。いつの間にか、両隣の女と手を握り合っていた。

離そうとする。

離れない。

強く引っ張る。

それでも、離れない。

「おばあ」

祖母は悲しそうな顔をした。

「だから、言ったのに」

輪が速くなった。

女たちの歌声が大きくなる。

私は必死に手を振りほどこうとした。けれど、誰も離してくれない。

足が勝手に動く。


 右へ。

 右へ。

 同じ方向へ。


祖母が遠ざかっていく。

「おばあ!」

叫んだ。そのとき、輪の外に一人の女が立っているのが見えた。

 白い服。

 長い髪。

昼間、坂道で見た女だった。女は私を見つめていた。

そして、ゆっくりと手を上げた。

指を一本立てる。


 二本。


 三本。


 四本。


 五本。


私は叫んだ。

「助けて!」

女は微笑んだ。

「まだだよ」

輪がさらに速くなる。

「まだ、足りない」

女は指を折り曲げた。


 五本。


 四本。


 三本。


 二本。


 一本。


そして、最後の一本を折り曲げた瞬間。女たちの歌声が、ぴたりと止まった。

私は足元を見た。輪の中に、誰もいなかった。

さっきまで手をつないでいた女たちが、消えていた。

広場には、私一人だけが立っている。

けれど。足音は、まだ続いていた。


 右へ。

 右へ。


何十人もの足音が、私の周囲を回っている。

姿のない者たちが、輪を作っていた。


白い服の女が、ゆっくりと近づいてきた。

「ねえ、澪ちゃん」

女は私の耳元で囁いた。

「輪の中にいるのは、誰だと思う?」

私は答えられなかった。女は笑った。

「人間だと思ってた?」

その瞬間、目が覚めた。


   ******


部屋は暗かった。

時計を見る。


 午前二時十三分。


私は布団の上に起き上がった。

心臓が激しく打っている。


夢だ。ただの夢だ。そう思おうとした。

けれど、足の裏に違和感があった。

布団をめくる。

両足が、泥で汚れていた。湿った土。細かな砂。そして、足首には細い草が絡みついていた。

私は息をのんだ。

そのとき、庭から太鼓の音が聞こえた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


ゆっくりとした拍子。私は障子を見た。

向こう側に、誰かが立っている。小さな影だった。

子どもだ。

影は動かなかった。

やがて、幼い声がした。

「ねえ」

私は答えなかった。

「お姉ちゃん」

声は、女の子だった。

「歌、知ってる?」

私は口元を押さえた。

「知らないなら、教えてあげる」

子どもは、くすくす笑った。そして、歌い始めた。聞いたことのない旋律だった。

けれど、私はその歌を知っていた。


 九番目の歌。


 『帰らぬ神の御歌』


子どもの声が、ゆっくりと歌詞をなぞっていく。


 どうか、もう帰ってこないでおくれ。

 どうか、もう帰ってこないでおくれ。


私は耳を塞いだ。聞いてはいけない。

祖母がそう書いていた。

けれど、歌は耳を塞いでも聞こえてきた。頭の中に直接響いているようだった。

子どもは歌い続けた。


 海を静めた神。

 作物を実らせた神。

 子どもを守った神。


そして。最後の一節に差しかかったとき、子どもは歌うのをやめた。

「ねえ、お姉ちゃん」

私は動かなかった。

「最後の歌詞、知ってる?」

答えない。

「知らないよね」

子どもは笑った。

「だって、まだ誰も歌ってないもの」

私は目を閉じた。

そのとき、障子の向こうから、もう一つ声がした。


低い、男の声だった。

「そこまでにしなさい」

子どもの笑い声が止まった。


 長い沈黙。


やがて、男の声が続けた。

「その子は、まだ歌う者ではない」

子どもが不満そうに言った。

「でも、返事したよ」

「それでもだ」

「一人目なのに」

「まだ、輪は閉じていない」

私は息を殺して聞いていた。

男の声は、どこか懐かしかった。けれど、誰の声なのかわからない。

子どもが小さく舌打ちした。

「つまんない」

足音が遠ざかっていく。やがて、庭は静かになった。

私はしばらく動けなかった。

そして、ようやく障子の向こうに声をかけた。

「……誰ですか」

返事はなかった。

しまった、と思った。

また、返事をしてしまった。

けれど、今度は何も起こらなかった。私は恐る恐る障子を開けた。


庭には誰もいない。

ただ、フクギの木の下に、一人の男が立っていた。

いや、立っているように見えた。

薄暗い庭の中で、その姿は妙に曖昧だった。

顔も、服装も、よくわからない。ただ、人の形をした影がそこにある。


男は私を見ていた。そして、静かに言った。

「ナツの孫か」

私は頷いた。男は少し笑った。

「そうか」

その声には、奇妙な安堵があった。

「なら、まだ間に合う」

「何がですか」

男は答えなかった。代わりに、北の森を見た。

「あの歌を、最後まで歌わせてはいけない」

「どうして?」

男は私を見た。その顔が、一瞬だけはっきりと見えた。若い男だった。年齢は二十代にも、三十代にも見える。けれど、その目だけが、ひどく古かった。

男は言った。

「神様が帰ってくるからだ」

私は思わず叫んだ。

「でも、神様はもういないんでしょう!」

男は黙った。


長い沈黙があった。

やがて、男は小さく笑った。

「そうだ」

その笑い方は、ひどく寂しそうだった。

「だから、困っている」

私は何も言えなかった。男は続けた。

「いないものを、帰してはいけないんだ」

風が吹いた。

フクギの葉がざわざわと鳴った。

男の姿が、少しずつ薄くなっていく。

「待って!」

私は縁側から身を乗り出した。

「あなたは誰なの?」

男は振り返った。そして、静かに答えた。

「昔、この島で神様と呼ばれていたものだよ」

私は息を呑んだ。

「でも、もう神様じゃない」

男は微笑んだ。

「だから、名前もない」

その姿が、夜の闇に溶けていく。最後に、声だけが残った。

「澪」

私は顔を上げた。

「九番目の歌は、神様を呼ぶ歌じゃない」

風が止んだ。

「神様を、作る歌なんだ」



第三話 了


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