第二話 輪の外に立つ女
朝になっても、障子を開けることができなかった。
正確には、開ける必要がなくなるまで待っていた。
夜明けとともに、あの声は消えた。
祖母の声も、知らない誰かの声も、島中に響いていた歌声も。
何事もなかったかのように、蝉が鳴き始めた。
私は布団の上に座ったまま、明るくなっていく障子を眺めていた。
眠れなかった。
いや、一度だけ眠ったのかもしれない。
そうでなければ、あんなことが現実に起こるはずがない。
祖母は死んだ。
死んだ人間が庭に立っているわけがない。
しかも、声が途中で変わるなんて。
夢だ。
きっと夢だった。
そう思うことにして、私はようやく立ち上がった。
障子を開ける。
庭には朝日が差し込み、フクギの葉がきらきらと光っていた。
何もいない。
当たり前だ。
ほっとして縁側に出ようとしたとき、足元に何かが落ちているのに気づいた。
小さな白いものだった。
拾い上げる。
貝殻だ。
それも、ずいぶん古い。
表面はすり減り、ところどころ黒ずんでいる。
祖母の家は海から少し離れている。
庭に貝殻が落ちていること自体は珍しくない。昔、誰かが持ち帰ったものかもしれない。
けれど、その貝殻には穴が開いていた。
小さな穴が二つ。
まるで、何かに縫いつけるために加工されたような形だった。
私は貝殻を手のひらに載せた。
そのとき、背後から声がした。
「拾ったのか」
振り向くと、宗一が門のところに立っていた。
朝の七時にもなっていない。
「おじさん、早いね」
宗一は答えなかった。
私の手元を見ている。
「それ、どこにあった」
「縁側」
「ほかには?」
「何が?」
「何か、変わったことはなかったか」
私は少し迷った。
昨夜の出来事を話せば、きっと何か知っている。
そう思った。
けれど、話してしまえば、あれが現実だったと認めることになる。
「……夜中に、歌が聞こえた」
宗一は黙っていた。
「女の人たちが歌ってるみたいだった。途中から、もっとたくさんの声になって」
「それで?」
「おばあの声がした」
宗一の顔が強張った。
「返事はしたか」
「してない」
「障子は?」
「開けてない」
宗一は深く息を吐いた。
「なら、よかった」
「何がよかったの?」
私は貝殻を差し出した。
「これ、何?」
宗一は受け取ろうとしなかった。
「それは持っておけ」
「さっきから何なの。聞いても答えてくれないし、昨日は窓を閉めろって言うし」
「澪」
「おばあが死んでから、変なことばっかり起きてる。何か知ってるんでしょう?」
宗一はしばらく黙っていた。
やがて、庭のフクギを見上げた。
「今日は、どこかへ行くのか」
「役場。昔の資料を調べたい」
「なら、ついでにハル婆のところへ行け」
「ハル婆?」
「上の集落に住んでる。もう九十を過ぎてるが、頭はしっかりしてる」
「何を聞けばいいの?」
「歌のことだ」
私は眉をひそめた。
「おじさんが教えてくれればいいじゃない」
「俺は、歌ったことがない」
宗一はそう言った。
「歌った者にしか、わからんことがある」
島の役場は、港から少し坂を上がったところにあった。
平屋の古い建物で、入口には観光案内のパンフレットが並んでいる。
私は窓口で、島の古い祭祀について調べたいと伝えた。
対応してくれた若い職員は、少し困った顔をした。
「郷土資料室なら、隣の建物にありますけど」
「昔の歌とか、祭祀の記録はありますか?」
「どうでしょう。担当の者に聞いてみますね」
しばらくして、奥から眼鏡をかけた中年の女性が出てきた。
島の文化財担当だという。
「比嘉ナツさんのお孫さん?」
開口一番、そう言われた。
「はい」
「まあ。大きくなって」
島では、三十を過ぎてもこういう扱いを受ける。
女性は知念と名乗った。郷土資料室へ案内してくれた。小さな部屋だった。
棚には町史や民俗調査報告書、古い写真帳が並んでいる。
私は少し安心した。こういう場所は、落ち着く。
少なくとも、紙に書かれたものは、こちらが開かない限り勝手に話しかけてこない。
昨夜の帳面のことを思い出し、その考えをすぐに取り消した。
「何を調べたいんですか?」
知念が尋ねた。
「昔、島の女性たちが歌っていた祭祀の歌です。祖母の遺品から帳面が出てきて」
「ナツさんの?」
「はい。『御歌覚』って書いてありました」
知念の手が止まった。
「それ、今ここにあります?」
「いえ、家に置いてきました」
「そうですか」
少し残念そうだった。
「昔、島の歌を記録しようとしたことがあるんです。でも、資料が少なくて」
「何か残ってますか?」
「ありますよ。ただ、全部ではないと思います」
知念は棚から薄い報告書を取り出した。昭和五十年代に行われた民俗調査の記録だった。表紙には『北森祭祀調査報告』とある。私はページをめくった。
島の祭祀暦。
拝所の位置。
祭具の名称。
歌の採録。
見慣れた形式だった。調査者が聞き取った言葉を、できるだけそのまま記録しようとした努力がうかがえる。けれど、あるページで手が止まった。
『歌唱者名簿』
そこには、十二人の女性の名前が並んでいた。
祖母の名前もあった。
比嘉ナツ。
調査当時、四十六歳。
その隣には、役割が記されていた。
太鼓。
祖母が太鼓を打っていたことを、私は知らなかった。
さらに名簿を見ていく。
歌い出し。
唱和。
唱和。
唱和。
ほとんどがその二種類だった。
けれど、最後の一人だけ、役割が違った。
『輪外』
私はその文字を見つめた。
「知念さん、これ、何ですか?」
「どれです?」
「輪外って」
知念が覗き込んだ。
「ああ……」
少し考えてから答えた。
「調査した先生も、よくわからなかったみたいです」
「輪の外?」
「ええ。祭祀のとき、女たちは輪になって歌うでしょう。その外側に、一人だけ立つ役があったそうなんです」
「何をする人なんですか?」
「それが、記録には詳しく書かれていなくて」
私は名簿を見直した。
最後の一人。
役割、輪外。
名前、比嘉サヨ。
年齢、空欄。
「この人、祖母の親戚でしょうか」
「比嘉姓は島に多いですからね。でも……」
知念は少し言い淀んだ。
「この人については、妙なことがあるんです」
「妙なこと?」
「名簿には名前があるのに、集合写真には写っていないんですよ」
知念は別の資料を取り出した。調査当時に撮影された写真だった。白黒の、少しぼやけた写真。
十二人の女性が、森の入口に並んでいる。
紺色の着物。髪を結い、手には扇や太鼓を持っていた。
私は一人ずつ数えた。
一、二、三。
十、十一。
十一人しかいない。
「撮影の日に休んだんじゃないですか?」
「私もそう思ったんです。でも、写真の裏に『全員集合』と書いてあるんですよ」
知念は写真を裏返した。確かに、そう書かれていた。
昭和五十二年八月。
祭祀歌唱者全員集合。
私はもう一度写真を見た。
十一人。
それなのに、十二人。
妙な話だった。
「このサヨさんについて、何か調べられますか?」
「古い戸籍や家譜があれば、手がかりになるかもしれません。ただ、役場で自由に見られるものではありませんし……」
「ほかに聞ける人は?」
「そうですね」
知念は少し考えた。
「ハルさんなら、何か知っているかもしれません」
私は思わず顔を上げた。
「ハル婆?」
「ええ。上の集落の」
宗一と同じ名前が出てきた。私は報告書の該当ページを複写してもらい、資料室を出た。
ハル婆の家は、集落のいちばん高い場所にあった。細い坂道を上りきると、古い石垣に囲まれた小さな家が見える。門には表札がなかった。庭では、痩せた猫が昼寝をしていた。
「こんにちは」
返事はない。
「比嘉ナツの孫の澪です」
しばらくして、家の奥から声がした。
「入っておいで」
縁側に上がると、小柄な老婆が座っていた。白髪をきっちりと結い、膝の上に布を広げている。針仕事をしていたらしい。
ハル婆は私をじっと見た。
「ナツに似てないね」
挨拶より先に、そう言われた。
「よく言われます」
「でも、目つきは同じだ」
ハル婆は笑った。
「知りたいことがあるんだって?」
「宗一おじさんから聞いたんですか?」
「朝、電話があったよ」
なるほど。根回しだけは早い。私は鞄から複写した資料を取り出した。
「昔の歌について、教えてほしいんです」
ハル婆は資料を見た。しばらく黙っていた。やがて、小さく笑った。
「こんなもの、まだ残ってたんだね」
「ハルさんも歌っていたんですか?」
「歌ってたよ」
「輪になって?」
「そう」
「十二人で?」
ハル婆の手が止まった。
「誰が十二人だって?」
「この名簿です」
私は紙を差し出した。
ハル婆は眼鏡をかけ、名前を追っていった。そして、最後の一人のところで、ぴたりと指を止めた。
比嘉サヨ。
輪外。
ハル婆は眼鏡を外した。
「この名前、誰が書いたんだろうね」
「調査した先生だと思います」
「そうかい」
ハル婆はしばらく庭を見ていた。
風が吹き、軒先の風鈴が鳴った。
「サヨさんは、歌わなかったよ」
「え?」
「歌わない。太鼓も打たない。踊りもしない」
「じゃあ、何をしていたんですか?」
「見てた」
「見てた?」
「輪の外から、ずっと」
私は資料に目を落とした。
輪外。
文字通りの意味だったらしい。
「何のために?」
ハル婆は答えなかった。
「神様を見張ってたんですか?」
思いつきで言った。
すると、ハル婆の顔から笑みが消えた。
「誰から聞いた?」
「いえ、ただ……」
「宗一か」
「違います」
ハル婆は私を見つめた。その目は、九十を過ぎた老人のものとは思えないほど鋭かった。
「澪ちゃん」
「はい」
「輪っていうのはね、内側にいる人間だけでできてるんじゃないんだよ」
私は黙って聞いていた。
「外から見てる者がいないと、輪は閉じたままになる」
「閉じたら、いけないんですか?」
「開けられなくなる」
意味がわからなかった。ハル婆は続けた。
「歌ってる者は、自分たちの声しか聞こえなくなる。足を動かして、手を振って、同じ言葉を繰り返してるうちに、どこまでが自分で、どこからが隣の人間なのか、わからなくなる」
私は思わず顔を上げた。
「それは……」
「気持ちがよくなるんだよ」
ハル婆は静かに言った。
「みんなで同じことをしてるとね。自分が一人じゃないって思える。声が重なって、足が揃って、何も考えなくてよくなる」
その言葉には、妙な実感があった。
「でもね」
ハル婆は針を布に刺した。
「誰かが、外にいないといけない」
「どうして?」
「戻ってこられなくなるから」
私は息を呑んだ。
昨夜の声を思い出した。
幾人もの声が重なっていた。男も、女も、子どもも。あのとき、私も歌を知っていた。聞いたこともないはずの歌を。
「サヨさんは、その役だったんですか?」
「そうだよ」
「でも、写真に写ってないんです」
私は白黒写真を差し出した。ハル婆はそれを受け取った。
しばらく眺めていたが、やがて鼻で笑った。
「そりゃ、そうだろうね」
「どうして?」
「撮ったのがサヨさんだから」
私は呆気に取られた。
「……え?」
「サヨさんが写真を撮ったんだよ。だから写ってない」
あまりにも単純な答えだった。私は思わず笑ってしまった。
「何だ。そういうことですか」
「そういうことだよ」
ハル婆も笑った。何だか急に、肩の力が抜けた。
昨夜から続いていた不気味な出来事の中で、初めてまともな説明を聞いた気がした。やっぱり、何でも怪異に結びつけるのはよくない。古い記録には、こういうことがよくある。説明されなかった些細な事情が、何十年も経つうちに謎になる。私は写真を鞄にしまおうとした。
そのとき、ハル婆が言った。
「でもね、澪ちゃん」
「はい?」
「サヨさんは、あの写真を撮った年には、もう死んでたんだよ」
私は手を止めた。
ハル婆は、まるで天気の話でもするように続けた。
「三年前に亡くなった。私も葬式に行ったから、よく覚えてる」
「……じゃあ、誰が撮ったんですか?」
「サヨさんだよ」
ハル婆は不思議そうな顔をした。
「さっきから、そう言ってるじゃないか」
帰り道、私は何度も写真を見返した。
十一人の女性。
森の入口。
紺色の着物。
扇。
太鼓。
そして、写真を撮ったという、死んだ女。
ハル婆はそれ以上、何も教えてくれなかった。ただ、帰り際に一つだけ尋ねられた。
「ナツは、ちゃんと死んだかい?」
何を言っているのかわからなかった。
「ちゃんとって?」
「顔を見た?」
「見ました」
「骨は?」
「拾いました」
「そうかい」
ハル婆は頷いた。
「なら、よかった」
宗一と同じことを言った。何がよかったのだろう。
私は坂道を下りながら、スマートフォンを取り出した。
圏外だった。
島の通信事情は、十五年前と大して変わっていないらしい。仕方なく鞄にしまう。
ふと、視線を感じた。 振り向く。
道の向こうに、一人の女が立っていた。白い服を着ている。年齢はわからない。
長い髪を後ろで束ね、こちらを見ていた。
私は立ち止まった。
女は動かない。
何となく、見覚えがある気がした。
島の誰かだろうか。
「こんにちは」
声をかけた。
女は答えなかった。ただ、ゆっくりと右手を上げた。手のひらをこちらに向ける。
指が一本、二本、三本。
何かを数えている。
四本。
五本。
そこで、女は手を下ろした。そして、道の脇の細い小道へ入っていった。私はしばらく立ち尽くしていた。何だったのだろう。
五。何の数だ。
追いかけようかと思ったが、やめた。宗一に森へ行くなと言われていたことを思い出したからだ。
小道の先には、北の森があった。
祖母の家に戻ったのは、夕方だった。私は真っ先に黒い帳面を開いた。
九番目の歌。
最後の一行は、再び墨で塗りつぶされていた。
昨夜、確かに読めたはずの文字は、どこにもない。
『帰りたければ、人の声を借りて帰れ』
あの言葉を思い出す。祖母の声を借りて、誰かが私に話しかけた。
そう考えると、昨夜の出来事に少しだけ筋が通る。
けれど、何のために?
私は帳面をめくった。
一番目の歌。
二番目の歌。
三番目。
四番目。
五番目。
そこで、手が止まった。
五番目の歌の端に、小さな書き込みがあった。薄い鉛筆の文字。祖母の筆跡だ。
『輪外、一人』
その下に、さらに小さく書かれていた。
『戻らぬ者、五人』
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
五人。昼間、道で出会った女が指で示した数と同じだった。
偶然だろうか。
帳面をさらにめくる。
六番目。
七番目。
八番目。
どの歌にも、似たような書き込みがあった。
『戻らぬ者、二人』
『戻らぬ者、三人』
『戻らぬ者、一人』
私は紙を一枚取り出し、数字を書き写した。
一番目から八番目まで。
戻らなかった者の数。合計すると、二十三人になった。
九番目の歌には、数字がなかった。
代わりに、赤い鉛筆で大きく丸がつけられていた。
その横に、一言だけ。
『まだ』
私はその文字を見つめた。
まだ。
何が、まだなのだろう。戻っていない者がいるのか。それとも、これから戻る者がいるのか。
そのとき、庭で物音がした。
砂利を踏む音。
一歩。
二歩。
三歩。
私は息を止めた。
まだ日が暮れていない。
窓の外は明るかった。
障子に人影が映った。
「澪ちゃん」
女の声だった。
祖母ではない。聞き覚えのない、若い女の声。
「開けて」
私は動かなかった。
「お願い。開けて」
声は切迫していた。
「もう、あんまり時間がないの」
私は障子を見つめた。昨日のことがある。簡単に開けてはいけない。
けれど、まだ明るい。それに、声は明らかに人間のものだった。
「どなたですか?」
思わず尋ねてしまった。障子の向こうで、女が息を呑んだ。
長い沈黙があった。
やがて、女が言った。
「……返事をしたね」
私は凍りついた。その声には、もう先ほどまでの切迫した様子がなかった。
ひどく穏やかだった。
そして、嬉しそうだった。
「よかった」
女が笑った。
「これで、やっと一人目」
障子の向こうで、何かが落ちた。ころん、と乾いた音がした。
女の足音が遠ざかっていく。
私はしばらく動けなかった。
やがて、意を決して障子を開けた。
庭には誰もいなかった。
ただ、縁側の下に、小さな白いものが落ちていた。
貝殻だった。
昨日と同じ。
二つの穴が開いた、古い貝殻。
私はそれを拾い上げた。
そして気づいた。
昨日の貝殻は、穴が二つ。
今日の貝殻には、穴が一つしかなかった。
いや。
違う。
二つ目の穴は、まだ開けられていないのだ。
貝殻の表面には、小さな丸い印がつけられていた。
まるで、これから穴を開ける場所を示すように。
私は家の中へ戻った。
座卓の上の黒い帳面が、開いていた。
九番目の歌。赤い鉛筆で書かれた『まだ』の文字。
その隣に、見覚えのない文字が増えていた。
『一人』
私は震える指で、その文字に触れた。
すると、どこからか声がした。
「あと、二十二人」
振り向いても、誰もいない。声は、すぐ耳元で聞こえた。
「揃ったら、迎えに行くよ」
私はその場に立ち尽くした。夕暮れの庭では、蝉が鳴いていた。
その声に混じって、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
一つ。
二つ。
三つ。
ゆっくりと、一定の間隔で。
まるで、誰かが歌い始めるのを待っているように。
私は、ふと気づいた。
あの歌には、太鼓を打つ者が一人いた。
歌い出す者が一人。
そして、輪の外に立つ者が一人。
けれど、輪の外に立つ者は、歌わない。
ならば。
あの太鼓は、いったい誰に合図を送っているのだろう。
私は黒い帳面を閉じた。
表紙の布が、妙に温かかった。
まるで、誰かがずっと手に持っていたかのように。
その夜。
島の北の森で、十五年ぶりに火が灯った。
それを最初に見つけたのは、港の見回りをしていた宗一だった。
宗一は火を見た瞬間、持っていた懐中電灯を落とした。
森の入口に、白い服の女が立っていた。女は宗一に向かって、ゆっくりと手を振った。宗一はその場に膝をついた。
「……サヨさん」
女は笑った。そして、ひどく懐かしそうに言った。
「宗一坊。ずいぶん年を取ったねえ」
宗一は答えなかった。答えてはいけないことを、知っていた。
女はしばらく彼を見つめていたが、やがて森の奥へ歩き始めた。その背中に向かって、宗一が小さく呟いた。
「どうして今さら……」
女の足が止まった。
「今さら?」
ゆっくりと振り返る。
「何を言ってるんだい」
女は不思議そうに首を傾げた。
「まだ、終わってないじゃないか」
森の奥から、太鼓の音が響いた。
女は微笑んだ。
「今度こそ、ちゃんと終わらせないとね」
そして、闇の中へ消えていった。
宗一は長い間、動けなかった。
やがて、震える手で携帯電話を取り出した。
電話をかけた相手は、ハル婆だった。
数回の呼び出し音のあと、老婆の声がした。
「……見たんだね」
宗一は目を閉じた。
「サヨさんが、戻ってきた」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
やがて、ハル婆が言った。
「じゃあ、ナツの孫は?」
「もう、歌を聞いた」
「返事は?」
「わからん」
ハル婆は深く息を吐いた。
「宗一」
「はい」
「明日の朝、迎えにおいで」
「どこへ?」
「森だよ」
老婆の声は、ひどく静かだった。
「今度は、私が輪の外に立つ」
第二話 了




