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第一話 帰らない神への歌

神様がいなくなったのは、いつのことだったろう。


誰も知らない。


ただ、いなくなったことだけは、みんな知っていた。


それでも島の女たちは、毎年決まった日に集まり、誰もいない森に向かって歌った。

太鼓を打つ者が一人。

歌い出す者が一人。

あとは、その声に重ねるように、同じ旋律を繰り返す。


なぜ歌うのかと聞けば、昔からそうしてきたからだと言う。

何のために歌うのかと聞けば、神様のためだと言う。


では、その神様はどこにいるのか。

そう尋ねると、誰もが急に口を閉ざした。


祖母だけが、一度だけ答えてくれたことがある。

「神様もね、疲れることがあるんだよ」

私がその言葉の意味を知ったのは、祖母が死んでからだった。

 

いや。


正確には、祖母が死んで七日目のことだった。


    ********



祖母が死んだという知らせを受けたのは、六月の終わりだった。


九十一歳。老衰。

施設の職員によれば、夕食をいつも通り平らげ、隣の席の老人と昔話をして、眠るように息を引き取ったという。いかにも祖母らしい最期だと思った。祖母は昔から、何かを残すことを嫌う人だった。

食べ物は残さない。

仕事は翌日に持ち越さない。

言いたいことはその場で言う。


ただし、昔のことだけは別だった。


あの人は、聞かれても決して答えないことがいくつもあった。

私は十五年ぶりに島へ帰った。


港に着くと、潮と湿った草の匂いがした。船着き場の脇には、私が子どもの頃からあった自動販売機が、少し色褪せて立っている。


変わっていない。


そう思ってから、違うことに気づいた。

港の向こうに見える山が、ずいぶん小さくなっていた。

いや、山が縮んだわけではない。私が大きくなっただけでもない。

山の斜面を覆っていた木々が切られ、白い道路が一本、頂上近くまで伸びている。

島の北側にリゾート施設ができたことは知っていた。

そのための道路なのだろう。

港から集落へ向かう道を歩いていると、背後から軽トラックが近づいてきた。

「澪か?」

運転席から顔を出したのは、新垣宗一だった。

祖母と同じ集落に住む、遠い親戚にあたる男だ。

「宗一おじさん。久しぶり」

「乗れ。家まで送る」

断る理由もなかった。

助手席に乗り込むと、車内には線香と煙草の匂いが混じっていた。

「おばあは、いい死に方だったな」

「うん」

「苦しまんでよかった」

「そうだね」

それきり会話は途切れた。

宗一は昔から、必要なことしか話さない男だった。

軽トラックが集落へ入る。石垣に囲まれた古い家々の間に、真新しいコンクリートの住宅が混じっている。道端の拝所には、色の褪せた造花が供えられていた。

車がそこを通り過ぎるとき、宗一がふとハンドルから片手を離した。

ほんの一瞬、胸元に触れるような仕草をした。

昔からの癖だ。

島の人間は、あの拝所の前を通るとき、必ず何かしらの挨拶をする。

頭を下げる者もいれば、軽く手を合わせる者もいる。

私はしなかった。

宗一はそれに気づいていたと思う。

けれど何も言わなかった。

祖母の家は集落の外れにあった。

赤瓦の平屋で、庭には大きなフクギが二本立っている。

門の前で車を降りると、宗一が荷台から私の鞄を下ろしてくれた。

「家の片づけは、いつまでやるつもりか」

「一週間くらい。仕事も休み取ってるから」

「そうか」

宗一は門の奥を見た。

「ナツおばあのものは、何でも捨てたらいかんよ」

「大事なものは残すつもり」

「そういうことじゃない」

思いがけず強い口調だった。

振り向くと、宗一は眉間に皺を寄せていた。

「古いものは、持ち主が死んだからって、勝手に処分していいとは限らん」

「……どういう意味?」

「まあ、見ればわかる」

それだけ言って、宗一は車に戻った。

エンジンがかかる。

走り去る直前、窓から顔を出した。

「森には行くなよ」

「森?」

「北の森だ」

「何で?」

「道が悪い」

それだけ言い残して、軽トラックは走り去った。

私はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。


島の人間は、昔から説明が足りない。

そして説明しないことを、何とも思っていない。


祖母もそうだった。


子どもの頃、北の森で遊ぼうとすると、決まって叱られた。

なぜ入ってはいけないのかと尋ねると、祖母は言った。

「そこは、おまえたちの遊ぶ場所じゃない」

ならば、誰の場所なのか。

そう聞くと、祖母は答えなかった。

まったく。

死んでからも、面倒なことばかり残してくれる。

私は鞄を持ち直し、門をくぐった。


祖母の家は、驚くほどきれいだった。

畳は少し日に焼けていたが、床には埃ひとつない。

台所の食器は種類ごとに重ねられ、戸棚には乾物が整然と並んでいた。

施設に入ってから三年が経つ。

その間、近所の人たちが時折掃除に来てくれていたらしい。

ありがたいことだ。

もっとも、祖母自身が生きていたら、余計なことをするなと怒ったかもしれない。

仏壇に線香をあげ、窓を開け放つ。

湿った風が家の中を通り抜けた。

庭のフクギがざわざわと鳴る。

私は押し入れから古い段ボール箱を引き出した。

祖母は物を捨てない人ではなかったが、手紙と帳面だけは妙に大切にしていた。

箱の中には、古い写真、祝儀袋、領収書、そして何冊もの帳面があった。

大半は家計簿だった。

昭和四十九年。

米、三百二十円。

味噌、百八十円。

石油、四百円。

その隣に、几帳面な字で「宗一、魚持参」と書かれている。

私は思わず笑った。

祖母は何でも記録する人だった。

誰が何を持ってきたか。

どこへ行ったか。

どんな天気だったか。

そんな些細なことまで、ほとんど毎日書き残している。

職業柄、古い記録を見るのは嫌いではない。

むしろ、こういう帳面のほうが、公式な資料よりも面白いことがある。

島の生活が、ひとつひとつの記述から浮かび上がってくる。

けれど、その中に一冊だけ、様子の違う帳面があった。

黒い布張りの表紙。

角は擦り切れ、背表紙には細い紐が巻かれている。

家計簿よりもずっと古い。

表紙を開くと、最初のページに墨で文字が書かれていた。

『御歌覚』

その下に、日付らしいものがある。

大正十二年八月。

私は首を傾げた。

祖母が生まれるより前の帳面だ。


中には古い言葉で書かれた歌詞が並んでいた。

一つ、二つ、三つ。

八つまで数えたところで、筆跡が変わった。

九つ目の歌。

そこだけ、別の誰かが書き足したように見える。

墨の色も薄い。

歌の冒頭には、こうあった。

『帰らぬ神の御歌』

私はその文字を指でなぞった。


帰らぬ神。


変わった題名だ。

神を迎える歌や、豊穣を願う歌ならわかる。

けれど、帰らない神とは何だろう。

歌詞を読み進める。

古い言葉が多く、意味の取れない箇所もある。

それでも、繰り返し出てくる一節だけは理解できた。

どうか、もう帰ってこないでおくれ。

私はもう一度読んだ。

どうか、もう帰ってこないでおくれ。

祈りの言葉としては、ずいぶん奇妙だった。

神が帰ってこないことを願う歌。

追い払うための歌なのだろうか。

ところが、歌詞の後半には、神への感謝が綴られている。

海を静めてくれたこと。

作物を実らせてくれたこと。

子どもを守ってくれたこと。

そして最後に、再び同じ言葉が現れる。

どうか、もう帰ってこないでおくれ。


不思議だった。


感謝と拒絶が、同じ歌の中にある。

その最後の一行だけが、墨で塗りつぶされていた。

私は帳面を窓際へ持っていった。

陽の光に透かしてみる。

だが、塗りつぶされた文字は読み取れない。

よほど強い力で、何度も筆を重ねたのだろう。

紙が少し破れていた。

何となく裏表紙を開いてみる。

そこには、祖母の字で短い文章が書かれていた。

『この歌は、誰にも聞かせてはならない』

その下には、さらに小さな文字が続いている。

『神様が帰ってくるから』



   ********



夕方、宗一が訪ねてきた。

手には大きな鍋を持っていた。

「夕飯、まだだろう」

近所の人が作ってくれた煮物らしい。

私は礼を言って受け取り、台所に置いた。

「宗一おじさん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「何か」

黒い帳面を見せた。

宗一の顔から、すっと表情が消えた。

視線が帳面の表紙に釘づけになる。

「これ、知ってる?」

返事はなかった。

「おばあの遺品の中にあったんだけど。昔の歌みたいで」

「どこにあった」

「押し入れの箱」

「ほかに誰か見たか」

「私だけだけど」

宗一は帳面を見たまま、大きく息を吐いた。

「澪」

「うん?」

「それは、ここに置いておけ」

「どうして?」

「おまえが持つものじゃない」

「でも、おばあの遺品だよ」

「だからだ」

まったく意味がわからない。

私は少し苛立った。

「説明してくれないと、わからないよ」

宗一は黙り込んだ。

やがて、観念したように縁側に腰を下ろした。

「その歌はな、昔、島の女たちが歌っていたものだ」

「今は?」

「歌わん」

「いつから?」

「ずっと昔から」

「何で?」

「歌う必要がなくなった」

私は帳面を開いた。

「でも、ここには神様が帰ってくるから聞かせるなって書いてある」

宗一の顔色が変わった。

「何だと」

「裏表紙。おばあの字で」

宗一は帳面をひったくるように受け取った。

裏表紙を開き、文字を読む。

何度も。

まるで、そこに書かれた言葉が間違いであってほしいと願うかのように。

「……ナツおばあは、そんなことを書いたのか」

「何かおかしい?」

「いや」

宗一は帳面を閉じた。

「澪。今夜は窓を閉めて寝ろ」

「え?」

「それから、夜中に誰かが歌っていても、外には出るな」

私は思わず笑ってしまった。

「何それ。怪談?」

宗一は笑わなかった。

「いいか。返事もするなよ」

それだけ言って、宗一は帰っていった。

黒い帳面を、縁側に残したまま。



    ********



夜になった。

祖母の家にはテレビがなかった。

正確には、古いブラウン管テレビが一台あったが、地上デジタル放送に切り替わってから使われていない。

スマートフォンの電波も弱い。

私は買ってきた缶ビールを開け、宗一が持ってきた煮物をつついた。

時計を見る。

午後十時。

島の夜は早い。

遠くで犬が吠えている。

風が吹くたびに、フクギの葉が擦れ合った。

私は座卓の上に置かれた黒い帳面を開いた。

どうか、もう帰ってこないでおくれ。

やはり妙な歌だった。

宗一の態度も引っかかる。

何かを隠していることは明らかだった。

けれど、それが何なのか、見当もつかない。

私は帳面を閉じ、布団を敷いた。

明日は役場へ行ってみよう。

島の歴史資料が残っているかもしれない。

そんなことを考えながら、目を閉じた。


どれくらい眠っただろう。

ふと、音が聞こえた。


最初は風の音かと思った。

細く、長く、かすかに揺れる音。

けれど、違った。

人の声だ。

誰かが歌っている。

女の声だった。

低く、ゆっくりとした旋律。

一人ではない。

幾人もの声が重なっている。

私は目を開けた。

部屋は暗い。

時計を見ると、午前二時を少し過ぎていた。


歌声は、庭の向こうから聞こえてくる。

宗一の言葉を思い出した。

夜中に誰かが歌っていても、外には出るな。

返事もするな。

馬鹿馬鹿しい。

そう思った。

どこかで集まりでもあるのだろう。

祭りの練習かもしれない。

私は布団から起き上がり、障子に手をかけた。


そのとき。


歌が止まった。

 ぴたりと。


あまりにも突然だった。

私は手を止めた。

静寂の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。

しばらく待った。

何も起こらない。

やっぱり気のせいか。

そう思って布団に戻ろうとしたとき、今度はもっと近くで声がした。


「……澪」


祖母の声だった。

私は動けなかった。

忘れるはずがない。

少し掠れた、低い声。

子どもの頃から何度も聞いた声。


「澪」


もう一度、呼ばれた。

障子の向こう。

庭に、誰かが立っている。

私は思わず返事をしそうになった。

けれど、声が出る寸前で踏みとどまった。


祖母は死んだ。

七日前に。

私自身が骨を拾った。

ならば、あれは何だ。


障子の向こうの影が、ゆっくりと動いた。

足音はしない。

ただ、庭の砂利が微かに鳴った。


「澪」


今度は少し苛立った声だった。

「返事くらいしなさい」

ぞっとした。

その言い方まで、祖母そのものだった。


私は口元を両手で押さえた。

影が障子に近づく。

そして、すぐ向こう側で止まった。

息遣いさえ聞こえそうな距離だった。

長い沈黙。

やがて、祖母の声がぽつりと言った。

「……やっぱり、あんたも知ってるんだね」


何を。

何を知っているというのだ。

私は何も知らない。


そのとき、背後で何かが落ちる音がした。

振り返る。

座卓の上に置いたはずの黒い帳面が、畳の上に落ちていた。

風もないのに、ページが開いている。

九番目の歌だった。

墨で塗りつぶされていた最後の一行。

そこに、文字が浮かび上がっていた。

私は目を疑った。

確かに、昼間は読めなかった。

真っ黒に塗りつぶされていたはずだ。

なのに今は、はっきりと読める。


『帰りたければ、人の声を借りて帰れ』


障子の向こうで、祖母が笑った。

「そう。いい子だね」

その声に重なるように、遠くから再び歌が聞こえてきた。


一人。


二人。


三人。


次々と声が増えていく。


私はその場に座り込んだ。

そして気づいた。

歌っているのは、女たちだけではなかった。

男の声もある。

子どもの声もある。

年老いた声も、若い声も。

何十人もの声が、島のあちこちから響いていた。

聞き覚えのある旋律だった。

私はいつの間にか、その歌を知っていた。

誰に教わったのかもわからない。

ただ、次に来る言葉だけが、自然に頭の中へ浮かんでくる。


どうか、もう帰ってこないでおくれ。

どうか、もう帰ってこないでおくれ。


歌声が近づいてくる。

障子の向こうの祖母が、静かに囁いた。

「ねえ、澪」

私は必死に唇を噛んだ。

「おばあはね」

声が、少し低くなった。

「一度も、帰りたいなんて言ってないよ」

その瞬間。

島中の歌声が、止まった。


そして、障子の向こうから。

今度はまったく知らない声が聞こえた。


「では、誰を帰せばいい?」


     ********


第一話 了



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