第五話 島から消えた名前
人が死ぬと、名前が残る。
墓石に刻まれ、位牌に記され、戸籍や家譜に残される。
その人を知る者がいなくなっても、名前だけは何十年、何百年と残ることがある。
けれど、名前が残っていれば、その人が確かに生きていたと言えるのだろうか。
逆に、どこにも名前が残っていなければ、その人は存在しなかったことになるのだろうか。
私は、そんなことを考えていた。
目の前には、古い家譜が広げられている。
宗一の家に伝わるものだった。
昨夜、島の北の森で九番目の歌が聞こえたという話は、朝になっても誰も口にしなかった。
けれど、集落の様子は明らかに変わっていた。
道を歩く人が少ない。
いつも開いている商店は、シャッターを下ろしている。
家々の窓は閉ざされ、庭先で洗濯物を干す姿も見えなかった。
島の人々は、何かを知っている。
少なくとも、私よりは。
それなのに、誰も説明しようとしない。
私は朝から宗一の家を訪ねていた。
宗一は最初、私を家に入れようとしなかった。
「今日は忙しい」
「何が?」
「いろいろだ」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろだ」
私はため息をついた。
「おじさん、私、昨日から何度も死んだ人に話しかけられてるんだけど」
宗一は黙った。
「しかも、返事をしたら何かの人数に数えられるらしい。二十三人集まったら神様ができるんだって。もう少し詳しく説明してもらえない?」
宗一は私を見た。
そして、ひどく疲れた顔で言った。
「……そこまで知ったのか」
「知ったというか、知りたくなかったというか」
宗一は長く息を吐いた。
「入れ」
ようやく、家に通された。
*****
宗一の家は、祖母の家よりも古かった。
玄関を入ると、正面に大きな仏壇がある。
その脇には、古い写真が何枚も飾られていた。
軍服姿の若い男。
着物を着た夫婦。
白髪の老人。
そして、見覚えのある顔。
「これ、サヨさん?」
私は一枚の写真を指さした。
白黒の集合写真だった。
中央に座っている女性は、昨夜から何度も現れる白い服の女によく似ていた。
宗一は写真を見た。
「そうだ」
「やっぱり」
「ただし、その写真のサヨさんは、もう七十を過ぎている」
私は写真を見直した。
どう見ても三十代くらいにしか見えない。
「……若くない?」
「ああ」
「どうして?」
「わからん」
私は宗一を睨んだ。
「また?」
「わからんものは、わからん」
宗一は開き直ったように言った。
そして、奥の部屋から古い木箱を持ってきた。
「これを見せようと思っていた」
箱の中には、何冊もの古文書が入っていた。
表紙には墨で文字が書かれている。
『新垣家譜』
私は思わず身を乗り出した。
「これ、本物?」
「偽物を大事にしまってどうする」
「いや、そうだけど」
私は慎重に一冊を取り上げた。
紙は茶色く変色し、虫食いの跡もある。
文字は古い漢文体で書かれていた。
ところどころ読みにくいが、系譜の構造はわかる。
祖先の名。
生没年。
婚姻関係。
子孫の記録。
私はページをめくった。
「何を探せばいいの?」
「サヨさんだ」
「サヨさん?」
「ああ」
宗一は頷いた。
「昔、この島で神様を送り出した女だと言われている」
私は顔を上げた。
「送り出した?」
「そうだ」
「神様を?」
「ああ」
「じゃあ、九番目の歌を作った人?」
宗一は首を振った。
「それは、わからん」
私は再び家譜に目を落とした。
しばらく読み進めると、奇妙な箇所に気づいた。
ある人物の名前だけが、墨で消されている。
それも、一箇所ではない。
何度も。
まるで、最初からその名前が存在しなかったことにしたいかのように。
「おじさん、これ」
私は指さした。
「名前が消されてる」
「そうだ」
「誰の?」
「わからん」
「……もう驚かないよ」
宗一は苦笑した。
「ただな」
宗一は家譜の一頁を開いた。
「この人物には、子どもがいたらしい」
そこには、確かに子孫の記録が続いていた。
父の名前は消されている。けれど、子どもの名前は残っている。その子どもから、さらに子孫が続く。
そして、何代か下ったところに、見覚えのある名前があった。
新垣宗一。
私は顔を上げた。
「……おじさんの先祖?」
「そういうことになる」
「何で名前を消したの?」
宗一は答えなかった。代わりに、もう一冊の古文書を取り出した。こちらは家譜ではなく、祭祀の記録らしい。
表紙には『北森御事覚』とある。
その最初の頁に、短い文章が書かれていた。
『神を迎えし者、名を失う』
私は息を呑んだ。神を迎えた者は、名前を失う?
宗一は静かに言った。
「昔、この島では、神様を迎えた者の名前を記録から消したらしい」
「どうして?」
「名前を残すと、帰ってこられなくなるからだ」
私は眉をひそめた。
「帰ってこられない?」
「ああ」
「どこから?」
宗一は私を見た。
「輪の中からだ」
*****
私は家譜を読み進めた。
消された名前。
残された子孫。
そして、祭祀の記録。
それらを照らし合わせていくうちに、あることに気づいた。
名前を消された人物は、一人ではなかった。何代にもわたって、同じような記録がある。
ある時期に、突然名前が消える。その人物の子孫は残る。けれど、本人の名前だけが失われる。
「これ、何人いるの?」
私は尋ねた。
「数えたことはない」
「ちょっと待って」
私は紙を取り出し、一人ずつ数えた。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
ページをめくる。
六人。
七人。
八人。
そして…全部数え終わった。
二十三人。
私は手を止めた。
「……二十三」
宗一が顔を上げた。
「何?」
「名前を消された人、二十三人いる」
宗一は家譜を覗き込んだ。
私はもう一度数えた。間違いない。
二十三人。
祖母の帳面に書かれていた、戻らぬ者の数と同じだった。
「これ、偶然?」
宗一は答えなかった。私はさらに記録を調べた。
すると、もう一つ奇妙なことがわかった。
名前を消された二十三人のうち、最後の一人だけ、消された跡が新しい。
ほかの名前は古い墨で塗りつぶされている。
けれど、最後の一人だけは、比較的新しい筆跡だった。
昭和の時代に書き加えられたものらしい。
私はその頁を慎重に開いた。
名前は読めない。
ただ、その人物の生年だけが残っていた。
明治三十四年。
私は計算した。
もし昭和五十二年まで生きていたなら、七十六歳。
あの集合写真のサヨと、ほぼ同じ年齢だ。
「……これ、サヨさん?」
宗一は何も言わなかった。
私は写真を見た。
若い姿のまま写るサヨ。
そして、名前を消された最後の人物。
何かがつながり始めていた。
けれど、まだ足りない。
私はもう一度家譜を見直した。
そして、奇妙なことに気づいた。
名前を消された二十三人は、すべて男だった。
「……おかしい」
思わず呟いた。
「何が?」
「サヨさんは女の人でしょう?」
「ああ」
「でも、名前を消された人は、全員男なんだよ」
宗一は黙った。
「これ、サヨさんじゃない」
私は最後の人物の記録を指さした。
「別の誰かだ」
宗一は家譜を見つめた。
やがて、低い声で言った。
「……そうか」
「おじさん?」
宗一は顔を上げた。
「俺は、ずっと勘違いしていたのかもしれん」
*****
午後になって、私は再び役場の資料室へ向かった。
知念は、私の顔を見るなり言った。
「また来たんですね」
「すみません」
「いいですよ。私も、少し気になって調べていたんです」
知念は机の上に資料を広げた。
古い戸籍の写し。
新聞記事。祭祀の聞き取り記録。
その中に、一枚の写真があった。
「これ、見てください」
私は写真を手に取った。北の森の入口で撮影されたものだった。
大勢の人々が並んでいる。
男性も、女性も、子どももいる。
中央には、一人の男が立っていた。
白い着物を着た、若い男。
私は息を呑んだ。
昨夜、祖母の庭に現れた男だった。
「この人……」
「知ってるんですか?」
私は答えられなかった。
知念は写真の裏を見せた。
そこには、古い文字で日付が書かれていた。
明治三十四年八月。
私は目を疑った。
「……百年以上前?」
「そうです」
「この男の人は?」
「わからないんです」
知念は首を振った。
「名前が記録されていないんですよ」
私は写真を見つめた。
若い男。
名前のない男。
昔、この島で神様と呼ばれていたもの。
そして、もう神様ではないもの。
知念は続けた。
「ただ、この写真には妙なことがあるんです」
「何ですか?」
「人数です」
私は写真を数えた。
一人。
二人。
三人。
全部で二十四人いた。
「二十四人ですね」
「そうなんです」
知念は頷いた。
「でも、裏には『二十三人集合』と書いてあるんですよ」
私は写真を裏返した。
確かに、そう書かれていた。
『二十三人集合』
けれど、写っているのは二十四人。
私はもう一度写真を見た。
中央の男。
その周囲に並ぶ人々。
数え直す。
二十四人。
間違いない。
そのとき、ふと気づいた。
中央の男だけ、影がない。
ほかの人々の足元には、はっきりと影が落ちている。
けれど、男の足元だけ、地面が白く抜けている。
「知念さん」
「はい」
「この写真、原版はありますか?」
「ありますよ」
「見せてもらえますか?」
知念は棚の奥から古いアルバムを取り出した。
私は慎重に写真を取り上げた。
光に透かす。
やはり、男の影がない。
それだけではなかった。
男の輪郭が、わずかにぼやけている。
まるで、そこに別の写真を重ねたように。
「これ、合成写真じゃないですか?」
知念は首を傾げた。
「当時の技術でも、そういうことはできたと思いますけど」
「でも、何のために?」
知念は答えなかった。
私は写真を見つめた。
そして、突然気づいた。
男の周囲に並ぶ二十三人。
その全員が、同じ方向を見ている。
カメラではない。
中央の男でもない。
写真の右端。
何も写っていない場所を、全員が見ている。
まるで、そこに誰かが立っているかのように。
私は写真を裏返した。
裏面の『二十三人集合』という文字。
その下に、小さな書き込みがあった。
『輪外一名、撮影』
私は息を止めた。
輪の外に立つ者が、写真を撮った。
昭和五十二年の写真と同じだった。
けれど、今回は違う。
写っているのは二十四人。
そして、記録には二十三人とある。
つまり。
中央の男は、人数に数えられていない。
私は写真を見つめた。
その瞬間、背後から声がした。
「数えちゃったんだね」
振り向く。
資料室の入口に、白い服の女が立っていた。
サヨだった。
知念は何も反応しなかった。
私だけが、入口を見つめていた。
サヨは微笑んでいる。
昼間の明るい資料室。
窓からは日差しが差し込んでいる。
それなのに、サヨの足元には影がなかった。
「澪さん?」
知念が声をかけた。
「どうしました?」
私は答えられなかった。
サヨはゆっくりと近づいてきた。
「ねえ、澪ちゃん」
その声は、知念には聞こえていないらしい。
「二十三人、いたでしょう?」
私は唇を噛んだ。
「でもね」
サヨは写真を覗き込んだ。
「本当は、二十四人いたんだよ」
私は目を見開いた。
サヨは微笑んだ。
「一人だけ、数えてもらえなかった」
その瞬間、写真の中央に立つ男が、こちらを向いた。
私は息を呑んだ。
写真の中の男が、動いた。
ゆっくりと顔を上げ、私を見た。
そして、唇が動いた。
声は聞こえなかった。
けれど、何と言ったのかはわかった。
『数えるな』
私は思わず写真を落とした。
「澪さん!」
知念が駆け寄ってきた。
床に落ちた写真を拾い上げる。
「大丈夫ですか?」
私は震える手で入口を指さした。
「……あそこに」
けれど、サヨの姿はなかった。
知念は不思議そうに首を傾げた。
「誰もいませんよ」
私は何も言えなかった。
知念は写真をアルバムに戻した。
そのとき、ぽつりと言った。
「でも、変ですね」
「……何が?」
「この写真、さっきまで二十四人いましたよね」
私は顔を上げた。
知念は写真を見つめていた。
「今、二十三人しかいないんです」
私はアルバムを覗き込んだ。
中央の男が、消えていた。
*****
その夜、私は祖母の帳面を開いた。
九番目の歌。『帰らぬ神の御歌』
墨で塗りつぶされた最後の一行。
そして、祖母の言葉。
『神様は、もういない』
私は昼間の写真を思い出した。
二十四人。
けれど、記録には二十三人。
中央の男は、数えられていなかった。
そして、男が消えたあと、写真には二十三人だけが残った。
私はようやく気づいた。
九番目の歌に必要なのは、二十三人。
けれど、神様はその二十三人には含まれない。
二十三人が集まり、歌う。
その声から、二十四人目が生まれる。
それが、神様。
ならば。
昔、この島で神様と呼ばれていた男は、何者だったのだろう。
最初から存在していたのか。
それとも、誰かが歌って作り出したのか。
私は黒い帳面を閉じた。
そのとき、玄関を叩く音がした。
時計を見る。
午後十一時四十七分。
こんな時間に、誰だろう。
「澪」
宗一の声だった。
私は返事をしなかった。
「澪、俺だ」
声は切迫していた。
「頼む。開けてくれ」
私は動かなかった。
宗一の声を借りた何かかもしれない。
昨夜のことがある。
簡単に開けるわけにはいかない。
「澪!」
玄関を叩く音が強くなった。
「頼む。時間がない」
私は息を殺した。
すると、宗一が言った。
「ハル婆が言ってたんだ」
私は顔を上げた。
「九番目の歌が始まったら、ナツの孫を連れてこいって」
私は唇を噛んだ。
「どこへ?」
思わず尋ねてしまった。
玄関の向こうで、宗一が息を呑んだ。
長い沈黙。
そして、低い声がした。
「……返事をしたな」
私は凍りついた。
声が変わった。
宗一ではない。
知らない男の声だった。
「これで、三人目」
玄関の向こうで、何かが笑った。
私は後ずさった。
そのとき、背後から声がした。
「澪」
振り向く。
部屋の隅に、あの男が立っていた。
名前のない男。
昔、この島で神様と呼ばれていたもの。
男は私を見た。
「逃げなさい」
私は動けなかった。
「今すぐ」
男の声は、ひどく切迫していた。
「もう、輪の外に立つ者がいない」
玄関の戸が、ゆっくりと開き始めた。
鍵は、かけてあったはずだった。
男は私の手を掴んだ。
冷たかった。
人間の手とは思えないほど。
「澪」
男は私を見つめた。
「君は、まだ名前を持っている」
私は息を呑んだ。
「だから、逃げられる」
玄関の向こうから、幾人もの足音が聞こえた。
一人。
二人。
三人。
何十人もの足音。
そして、歌声。
どうか、もう帰ってこないでおくれ。
どうか、もう帰ってこないでおくれ。
男は私の手を強く握った。
「名前を忘れるな」
その瞬間、部屋の明かりが消えた。
暗闇の中で、男の声だけが聞こえた。
「君の名前は、君がここにいる証だ」
私は必死に叫んだ。
「私は、比嘉澪!」
その声に、歌が止まった。
そして、暗闇の向こうから、女の笑い声がした。
サヨだった。
「あら」
ひどく楽しそうな声だった。
「まだ、そんなことを信じてるんだね」
私は息を止めた。
サヨは続けた。
「名前なんて、誰かが呼ばなきゃ意味がないのに」
その瞬間、私の手を握っていた男の指が、ほどけた。
男の姿が、薄くなっていく。
私は叫んだ。
「待って!」
男は微笑んだ。
「大丈夫」
その声は、どこか寂しそうだった。
「まだ、終わっていない」
そして、男は消えた。
私は一人、暗闇の中に取り残された。
玄関の向こうから、サヨの声がした。
「さあ、澪ちゃん」
ゆっくりと、足音が近づいてくる。
「今度は、あなたが数える番だよ」
第五話 了




