↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/5

第五話 島から消えた名前

人が死ぬと、名前が残る。

墓石に刻まれ、位牌に記され、戸籍や家譜に残される。

その人を知る者がいなくなっても、名前だけは何十年、何百年と残ることがある。

けれど、名前が残っていれば、その人が確かに生きていたと言えるのだろうか。

逆に、どこにも名前が残っていなければ、その人は存在しなかったことになるのだろうか。

私は、そんなことを考えていた。

目の前には、古い家譜が広げられている。

宗一の家に伝わるものだった。

昨夜、島の北の森で九番目の歌が聞こえたという話は、朝になっても誰も口にしなかった。

けれど、集落の様子は明らかに変わっていた。

道を歩く人が少ない。

いつも開いている商店は、シャッターを下ろしている。

家々の窓は閉ざされ、庭先で洗濯物を干す姿も見えなかった。

島の人々は、何かを知っている。

少なくとも、私よりは。

それなのに、誰も説明しようとしない。

私は朝から宗一の家を訪ねていた。

宗一は最初、私を家に入れようとしなかった。

「今日は忙しい」

「何が?」

「いろいろだ」

「いろいろって?」

「いろいろは、いろいろだ」

私はため息をついた。

「おじさん、私、昨日から何度も死んだ人に話しかけられてるんだけど」

宗一は黙った。

「しかも、返事をしたら何かの人数に数えられるらしい。二十三人集まったら神様ができるんだって。もう少し詳しく説明してもらえない?」

宗一は私を見た。

そして、ひどく疲れた顔で言った。

「……そこまで知ったのか」

「知ったというか、知りたくなかったというか」

宗一は長く息を吐いた。

「入れ」

ようやく、家に通された。


   *****


宗一の家は、祖母の家よりも古かった。

玄関を入ると、正面に大きな仏壇がある。

その脇には、古い写真が何枚も飾られていた。

軍服姿の若い男。

着物を着た夫婦。

白髪の老人。

そして、見覚えのある顔。

「これ、サヨさん?」

私は一枚の写真を指さした。

白黒の集合写真だった。

中央に座っている女性は、昨夜から何度も現れる白い服の女によく似ていた。

宗一は写真を見た。

「そうだ」

「やっぱり」

「ただし、その写真のサヨさんは、もう七十を過ぎている」

私は写真を見直した。

どう見ても三十代くらいにしか見えない。

「……若くない?」

「ああ」

「どうして?」

「わからん」

私は宗一を睨んだ。

「また?」

「わからんものは、わからん」

宗一は開き直ったように言った。

そして、奥の部屋から古い木箱を持ってきた。

「これを見せようと思っていた」

箱の中には、何冊もの古文書が入っていた。

表紙には墨で文字が書かれている。

 『新垣家譜』

私は思わず身を乗り出した。

「これ、本物?」

「偽物を大事にしまってどうする」

「いや、そうだけど」

私は慎重に一冊を取り上げた。

紙は茶色く変色し、虫食いの跡もある。

文字は古い漢文体で書かれていた。

ところどころ読みにくいが、系譜の構造はわかる。

 祖先の名。

 生没年。

 婚姻関係。

 子孫の記録。

私はページをめくった。

「何を探せばいいの?」

「サヨさんだ」

「サヨさん?」

「ああ」

宗一は頷いた。

「昔、この島で神様を送り出した女だと言われている」

私は顔を上げた。

「送り出した?」

「そうだ」

「神様を?」

「ああ」

「じゃあ、九番目の歌を作った人?」

宗一は首を振った。

「それは、わからん」

私は再び家譜に目を落とした。

しばらく読み進めると、奇妙な箇所に気づいた。

ある人物の名前だけが、墨で消されている。

それも、一箇所ではない。

何度も。

まるで、最初からその名前が存在しなかったことにしたいかのように。

「おじさん、これ」

私は指さした。

「名前が消されてる」

「そうだ」

「誰の?」

「わからん」

「……もう驚かないよ」

宗一は苦笑した。

「ただな」

 宗一は家譜の一頁を開いた。

「この人物には、子どもがいたらしい」

そこには、確かに子孫の記録が続いていた。

父の名前は消されている。けれど、子どもの名前は残っている。その子どもから、さらに子孫が続く。

そして、何代か下ったところに、見覚えのある名前があった。

新垣宗一。

私は顔を上げた。

「……おじさんの先祖?」

「そういうことになる」

「何で名前を消したの?」

宗一は答えなかった。代わりに、もう一冊の古文書を取り出した。こちらは家譜ではなく、祭祀の記録らしい。

表紙には『北森御事覚』とある。

その最初の頁に、短い文章が書かれていた。


 『神を迎えし者、名を失う』


私は息を呑んだ。神を迎えた者は、名前を失う?

宗一は静かに言った。

「昔、この島では、神様を迎えた者の名前を記録から消したらしい」

「どうして?」

「名前を残すと、帰ってこられなくなるからだ」

私は眉をひそめた。

「帰ってこられない?」

「ああ」

「どこから?」

宗一は私を見た。

「輪の中からだ」


   *****


私は家譜を読み進めた。


 消された名前。

 残された子孫。

 そして、祭祀の記録。


それらを照らし合わせていくうちに、あることに気づいた。

名前を消された人物は、一人ではなかった。何代にもわたって、同じような記録がある。

ある時期に、突然名前が消える。その人物の子孫は残る。けれど、本人の名前だけが失われる。

「これ、何人いるの?」

私は尋ねた。

「数えたことはない」

「ちょっと待って」

私は紙を取り出し、一人ずつ数えた。


 一人。


 二人。


 三人。


 四人。


 五人。


ページをめくる。


 六人。


 七人。


 八人。


 そして…全部数え終わった。


 二十三人。


私は手を止めた。

「……二十三」

宗一が顔を上げた。

「何?」

「名前を消された人、二十三人いる」

宗一は家譜を覗き込んだ。

私はもう一度数えた。間違いない。


 二十三人。


祖母の帳面に書かれていた、戻らぬ者の数と同じだった。

「これ、偶然?」

宗一は答えなかった。私はさらに記録を調べた。

すると、もう一つ奇妙なことがわかった。

名前を消された二十三人のうち、最後の一人だけ、消された跡が新しい。

ほかの名前は古い墨で塗りつぶされている。

けれど、最後の一人だけは、比較的新しい筆跡だった。


昭和の時代に書き加えられたものらしい。

私はその頁を慎重に開いた。

名前は読めない。

ただ、その人物の生年だけが残っていた。


 明治三十四年。


私は計算した。

もし昭和五十二年まで生きていたなら、七十六歳。

あの集合写真のサヨと、ほぼ同じ年齢だ。

「……これ、サヨさん?」

宗一は何も言わなかった。

私は写真を見た。

若い姿のまま写るサヨ。

そして、名前を消された最後の人物。

何かがつながり始めていた。

けれど、まだ足りない。

私はもう一度家譜を見直した。

そして、奇妙なことに気づいた。

名前を消された二十三人は、すべて男だった。

「……おかしい」

思わず呟いた。

「何が?」

「サヨさんは女の人でしょう?」

「ああ」

「でも、名前を消された人は、全員男なんだよ」

宗一は黙った。

「これ、サヨさんじゃない」

私は最後の人物の記録を指さした。

「別の誰かだ」

宗一は家譜を見つめた。

やがて、低い声で言った。

「……そうか」

「おじさん?」

宗一は顔を上げた。

「俺は、ずっと勘違いしていたのかもしれん」


   *****


午後になって、私は再び役場の資料室へ向かった。

知念は、私の顔を見るなり言った。

「また来たんですね」

「すみません」

「いいですよ。私も、少し気になって調べていたんです」

知念は机の上に資料を広げた。

古い戸籍の写し。

新聞記事。祭祀の聞き取り記録。

その中に、一枚の写真があった。

「これ、見てください」

私は写真を手に取った。北の森の入口で撮影されたものだった。

大勢の人々が並んでいる。

男性も、女性も、子どももいる。

中央には、一人の男が立っていた。

白い着物を着た、若い男。

私は息を呑んだ。

昨夜、祖母の庭に現れた男だった。

「この人……」

「知ってるんですか?」

私は答えられなかった。

知念は写真の裏を見せた。

そこには、古い文字で日付が書かれていた。


 明治三十四年八月。


私は目を疑った。

「……百年以上前?」

「そうです」

「この男の人は?」

「わからないんです」

知念は首を振った。

「名前が記録されていないんですよ」

私は写真を見つめた。

 若い男。

 名前のない男。

 昔、この島で神様と呼ばれていたもの。

 そして、もう神様ではないもの。

知念は続けた。

「ただ、この写真には妙なことがあるんです」

「何ですか?」

「人数です」

私は写真を数えた。


 一人。


 二人。


 三人。


全部で二十四人いた。

「二十四人ですね」

「そうなんです」

知念は頷いた。

「でも、裏には『二十三人集合』と書いてあるんですよ」

私は写真を裏返した。

確かに、そう書かれていた。


 『二十三人集合』


けれど、写っているのは二十四人。

私はもう一度写真を見た。

中央の男。

その周囲に並ぶ人々。

数え直す。

二十四人。

間違いない。

そのとき、ふと気づいた。

中央の男だけ、影がない。

ほかの人々の足元には、はっきりと影が落ちている。

けれど、男の足元だけ、地面が白く抜けている。

「知念さん」

「はい」

「この写真、原版はありますか?」

「ありますよ」

「見せてもらえますか?」

知念は棚の奥から古いアルバムを取り出した。

私は慎重に写真を取り上げた。

光に透かす。

やはり、男の影がない。

それだけではなかった。

男の輪郭が、わずかにぼやけている。

まるで、そこに別の写真を重ねたように。

「これ、合成写真じゃないですか?」

知念は首を傾げた。

「当時の技術でも、そういうことはできたと思いますけど」

「でも、何のために?」

知念は答えなかった。

私は写真を見つめた。

そして、突然気づいた。

男の周囲に並ぶ二十三人。

その全員が、同じ方向を見ている。

カメラではない。

中央の男でもない。

写真の右端。

何も写っていない場所を、全員が見ている。

まるで、そこに誰かが立っているかのように。

私は写真を裏返した。

裏面の『二十三人集合』という文字。

その下に、小さな書き込みがあった。


 『輪外一名、撮影』


私は息を止めた。

輪の外に立つ者が、写真を撮った。

昭和五十二年の写真と同じだった。

けれど、今回は違う。

写っているのは二十四人。

そして、記録には二十三人とある。

つまり。

中央の男は、人数に数えられていない。

私は写真を見つめた。

その瞬間、背後から声がした。

「数えちゃったんだね」

振り向く。

資料室の入口に、白い服の女が立っていた。

サヨだった。


知念は何も反応しなかった。

私だけが、入口を見つめていた。

サヨは微笑んでいる。

昼間の明るい資料室。

窓からは日差しが差し込んでいる。

それなのに、サヨの足元には影がなかった。

「澪さん?」

知念が声をかけた。

「どうしました?」

私は答えられなかった。

サヨはゆっくりと近づいてきた。

「ねえ、澪ちゃん」

その声は、知念には聞こえていないらしい。

「二十三人、いたでしょう?」

私は唇を噛んだ。

「でもね」

サヨは写真を覗き込んだ。

「本当は、二十四人いたんだよ」

私は目を見開いた。

サヨは微笑んだ。

「一人だけ、数えてもらえなかった」

その瞬間、写真の中央に立つ男が、こちらを向いた。

私は息を呑んだ。

写真の中の男が、動いた。

ゆっくりと顔を上げ、私を見た。

そして、唇が動いた。

声は聞こえなかった。

けれど、何と言ったのかはわかった。

 『数えるな』

私は思わず写真を落とした。

「澪さん!」

知念が駆け寄ってきた。

床に落ちた写真を拾い上げる。

「大丈夫ですか?」

私は震える手で入口を指さした。

「……あそこに」

けれど、サヨの姿はなかった。

知念は不思議そうに首を傾げた。

「誰もいませんよ」

私は何も言えなかった。

知念は写真をアルバムに戻した。

そのとき、ぽつりと言った。

「でも、変ですね」

「……何が?」

「この写真、さっきまで二十四人いましたよね」

私は顔を上げた。

知念は写真を見つめていた。

「今、二十三人しかいないんです」

私はアルバムを覗き込んだ。

中央の男が、消えていた。


   *****


その夜、私は祖母の帳面を開いた。

九番目の歌。『帰らぬ神の御歌』

墨で塗りつぶされた最後の一行。

そして、祖母の言葉。


 『神様は、もういない』


私は昼間の写真を思い出した。


 二十四人。


けれど、記録には二十三人。

中央の男は、数えられていなかった。

そして、男が消えたあと、写真には二十三人だけが残った。

私はようやく気づいた。

九番目の歌に必要なのは、二十三人。

けれど、神様はその二十三人には含まれない。

二十三人が集まり、歌う。

その声から、二十四人目が生まれる。

それが、神様。

ならば。

昔、この島で神様と呼ばれていた男は、何者だったのだろう。

最初から存在していたのか。

それとも、誰かが歌って作り出したのか。

私は黒い帳面を閉じた。

そのとき、玄関を叩く音がした。


時計を見る。

午後十一時四十七分。

こんな時間に、誰だろう。


「澪」

宗一の声だった。

私は返事をしなかった。

「澪、俺だ」

声は切迫していた。

「頼む。開けてくれ」

私は動かなかった。

宗一の声を借りた何かかもしれない。

昨夜のことがある。

簡単に開けるわけにはいかない。

「澪!」

玄関を叩く音が強くなった。

「頼む。時間がない」

私は息を殺した。

すると、宗一が言った。

「ハル婆が言ってたんだ」

私は顔を上げた。

「九番目の歌が始まったら、ナツの孫を連れてこいって」

私は唇を噛んだ。

「どこへ?」

思わず尋ねてしまった。

玄関の向こうで、宗一が息を呑んだ。


長い沈黙。

そして、低い声がした。

「……返事をしたな」

私は凍りついた。

声が変わった。

宗一ではない。

知らない男の声だった。

「これで、三人目」

玄関の向こうで、何かが笑った。

私は後ずさった。

そのとき、背後から声がした。

「澪」

振り向く。

部屋の隅に、あの男が立っていた。

名前のない男。

昔、この島で神様と呼ばれていたもの。

男は私を見た。

「逃げなさい」

私は動けなかった。

「今すぐ」

男の声は、ひどく切迫していた。

「もう、輪の外に立つ者がいない」

玄関の戸が、ゆっくりと開き始めた。

鍵は、かけてあったはずだった。

男は私の手を掴んだ。

冷たかった。

人間の手とは思えないほど。

「澪」

男は私を見つめた。

「君は、まだ名前を持っている」

私は息を呑んだ。

「だから、逃げられる」

玄関の向こうから、幾人もの足音が聞こえた。


 一人。


 二人。


 三人。


何十人もの足音。

そして、歌声。


 どうか、もう帰ってこないでおくれ。

 どうか、もう帰ってこないでおくれ。


男は私の手を強く握った。

「名前を忘れるな」

その瞬間、部屋の明かりが消えた。

暗闇の中で、男の声だけが聞こえた。

「君の名前は、君がここにいる証だ」

私は必死に叫んだ。

「私は、比嘉澪!」

その声に、歌が止まった。

そして、暗闇の向こうから、女の笑い声がした。

サヨだった。

「あら」

ひどく楽しそうな声だった。

「まだ、そんなことを信じてるんだね」

私は息を止めた。

サヨは続けた。

「名前なんて、誰かが呼ばなきゃ意味がないのに」

その瞬間、私の手を握っていた男の指が、ほどけた。

男の姿が、薄くなっていく。

私は叫んだ。

「待って!」

男は微笑んだ。

「大丈夫」

その声は、どこか寂しそうだった。

「まだ、終わっていない」

そして、男は消えた。

私は一人、暗闇の中に取り残された。

玄関の向こうから、サヨの声がした。

「さあ、澪ちゃん」

ゆっくりと、足音が近づいてくる。


「今度は、あなたが数える番だよ」


第五話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。