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寺への礼状

風呂敷の結び目を締めていると、戸が開いた。


くぐらだった。夜明けの冷えで、吐く息が白い。くぐらは土間に入ってくるなり、シカネの背中の荷を見た。


「それは何だ」


「寺への礼だ。米と、紙と、手紙」


あの夜から半月が経ち、井戸端の桶には朝ごとに薄い氷が張るようになった。くぐらは今も、二日に一度は夜明け前に来る。


「今日は、いつ帰る」


シカネは風呂敷の紐を胸の前で結んだ。


「今日は帰らねえ。寺に泊まる。帰るのは明日の日暮れだ」


くぐらは土間の真ん中に立ったまま、すぐには何も言わなかった。


「泊まる」


「寺は川の向こうだ。礼を言って帰ってきたら夜中になる。坊さんが泊まってけって言うに決まってる」


「では、私も泊まる」


「あんたは呼ばれてねえ」


「おぬしを育てた寺であろう。礼なら、私が言うのが筋だ」


くぐらはもう、草履に足を入れかけていた。


そこへ、戸の外から律の声がした。


「くぐら殿。川は越えられません」


律は戸口に立って、頭を下げた。


「屋敷の周りの札は、川のこちら側までしか届きません。川を越えれば、くぐら殿が何をしても役宅にはわからなくなる。景綱さまの許しなしに越えれば、取り決めを破ったことになります。許しを取るには書面が要り、景綱さまは今日、城へ上がっておられて、戻りは夜です」


いつもより言葉が多かった。くぐらは律を見下ろした。


「許しがあればよいのだな」


「次の機会には、そうしてください」


くぐらはシカネを見た。シカネは草鞋の紐を結び終えて、立ち上がった。


「礼は俺が言っとく」


くぐらは長いこと黙っていた。それから袂に手を入れて、黒い石を一つ出した。掌に収まる大きさで、表面が濡れたように光っている。


「淵の水で、三晩磨いた。持っていくつもりであった」


石は、思ったより重かった。指で触ると、冷たいのに湿っている。


「坊主に渡せ。井戸に沈めよ、と言え」


「井戸に」


「言えばわかる」


律が言った。


「私が同行します。屋敷には、役宅から別の者が二人つきます」


くぐらは律をじろりと見て、それからシカネに向き直った。


「明日の日暮れだな」


「日暮れ」


「渡しで待つ」


◇


街道に出ても、シカネは走らなかった。


律は三歩ほど後ろを歩いていたが、一里を過ぎたところで横に並んだ。


「走らないのか」


「泊まりだ。急ぐ用じゃねえ」


律は少し考えて、背負っている荷のことを聞いた。


「手紙は、自分で書いたのか」


「字は俺だ。書き出しと結びは、清兵衛さんに直された」


前の晩、問屋の帳場を借りて書いた。清兵衛は書き上がった紙を一度読み、季節の挨拶と結びの文句を別の紙に手本として書いて、写させた。真ん中の三行には、筆を入れなかった。


「真ん中は、何と書いた」


「向こうで坊さんが読む」


律はそれ以上聞かなかった。


渡しの舟に乗ったのは昼前だった。川面に、冷たい風が渡っていた。


◇


寺の銀杏は、すっかり葉を落としていた。


境内を掃いていた住職が、箒を持ったまま門まで出てきた。その後ろから、子供が三人ついてきた。


「留吉、おはな、おみつだ。留吉は八つのとき、おはなは赤子のときに来た。おみつは三年前の春、山門の前にいた。みんな帳面に書いてある」


一番背の高い留吉が、シカネの背の米を見て目を輝かせた。一番小さいおみつは、住職の衣の裾をつかんで、律の顔を見上げていた。


庫裏の囲炉裏端で、住職は手紙を開いた。崩しの多い書き出しを口の中で読み、真ん中に来たところで声に出した。


「帳面を見せてもらったおかげで、母がわかりました。母は生きていました。今は城下に住んでいます」


住職は手紙を膝に置いた。


「そうか。生きてたか」


住職は手紙を丁寧にたたみ直して、仏壇の脇に置いた。


「先代に見せたかったな。あの帳面を書いたのは先代だ。お前を川原から抱いて帰ってきて、その晩のうちに書いた」


「それと、これは母から」


シカネは黒い石を出した。


「井戸に沈めろって言ってた」


住職は石を両手で受け取って、首をかしげた。


「井戸か。ちょうどいい。冬になると水が細って、底のほうが濁るんだ」


◇


井戸は庫裏の裏にあった。シカネがいた頃と同じ場所で、同じ欠けた石の縁だった。


住職が覗き込んで、石を落とした。


ずいぶん下のほうで、小さな水音がした。それから、水が上がってくる音がした。


住職は井戸の縁に手をついたまま動かなかった。水は縁から腕一本ぶんのところまで上がってきて、止まった。底の石が見えるほど澄んでいた。


住職は、その場に尻もちをついた。


「和尚さま」


留吉が駆け寄った。住職は地面に座ったまま、井戸とシカネを交互に見た。


「お前の母君は、何者だ」


「竜だ」


住職はしばらく口を開けていたが、やがて力の抜けた声で笑った。


律は井戸を覗いて、帳面に短く書きつけた。


◇


夕方、シカネは言われる前に薪を割った。


割り場は本堂の裏の、楠の切り株だった。斧の重さも、薪を積む場所も変わっていなかった。先代の和尚は、割った薪の数だけ、夕飯の飯を大盛りにしてくれた。


「覚えてたか」


住職が、縁側から声をかけた。


「腹が覚えてる」


その晩の飯は大盛りだった。


◇


夜は庫裏で、子供たちと並んで寝た。


灯りを消す前、おみつがシカネの枕元に這ってきた。シカネが外して枕元に置いた小銭袋の根付を、じっと見ている。


「それ、なに」


「鱗だ。親がくれた」


「おやの、しるし?」


「まあ、そうだ」


おみつは鱗に指を伸ばしかけて、引っ込めた。


「わたしにも、ほしい。おやのしるし」


隣の布団から、留吉が言った。


「お前は門の前にいたんだから、ねえよ。何も持ってなかったって、和尚さまが言ってた」


おみつの口が、への字に曲がった。


シカネは根付を小銭袋ごと懐に入れた。


「これはやれねえ」


おみつは何も言わず、シカネの袖をつかんだ。泣いてはいなかった。


「じゃあ、シカネのおっかさんに、たのんで。わたしにも、つけてって」


シカネは起き上がって、荷から矢立と紙を出した。暗い中で、一字ずつ書いた。


――おみつの頼み、たしかに預かり候。 シカネ


「これは、俺が頼みを預かったって印だ。返事は持ってくる」


おみつは紙を受け取ったが、字は読めなかった。留吉が身を乗り出して、声に出して読んだ。おみつは紙を二つに折って、自分の懐に入れた。


◇


朝、山門を出るとき、住職が竹の皮の包みを差し出した。


「境内の柿を干したやつだ。母君に。井戸の礼の礼だと言ってくれ」


子供たちも門まで出てきた。おみつは懐に手を入れたまま、シカネを見上げた。


「へんじ、いつくる」


「年が明けたら」


「としがあけたら、いつ」


シカネは少し考えた。


「松が取れる前には来る」


おみつは、それが何日のことかわからない顔をしていたが、うなずいた。


◇


帰りの渡し舟が城下の側へ着いたのは、日が沈みかけた頃だった。


船着き場の杭のそばに、くぐらが立っていた。


「井戸は」


舟を下りるなり、くぐらが聞いた。


「水が上がった。坊さんが腰を抜かした」


「そうか」


シカネは竹の皮の包みを渡した。


「坊さんから。干し柿だ。井戸の礼の礼だとさ」


くぐらは包みを受け取って、しばらく眺めていた。礼を返されるとは思っていなかったらしい。包みを開けずに、袂にしまった。


土手の道を歩きながら、シカネはおみつの話をした。三年前の春、山門の前にいたこと。根付を見て、親のしるしがほしいと言ったこと。預かり書を置いてきたこと。


くぐらは黙って聞いていた。


「……すぐには、答えられぬ」


「年明けまででいい。返事は俺が運ぶ」


くぐらはうなずいた。それから、シカネの顔を横から覗き込んだ。


「寺の飯は、口に合うたか」


「大盛りだった」


くぐらは少し考えて、言った。


「明日の朝は、もっと盛る」

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