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置き手紙

役宅の奥の一室は、四隅に札が貼られていた。


畳の上には白い紐が四角く張られ、くぐらはその囲いの中に座っていた。墨色の小袖はもう乾き、髪は誰かが低くまとめてくれたらしい。角も頬の鱗も、もう見えなかった。


シカネは囲いの外で、くぐらと向かい合って座っていた。両腕は、肘から指先まで布で巻かれている。昨夜、役宅に運び込まれてすぐ、玄朔が呼ばれて手当てをした。火傷と、肋のひび。玄朔は「三日は荷を持つな」と言った。シカネが「二日」と言い返すと、玄朔は呆れて返事もしなかった。


くぐらの目は、シカネの腕の布から離れなかった。


「痛むか」


くぐらが言った。今朝目を覚ましてから、くぐらが口をきいたのはこれが初めてだった。


「痛え」


シカネは正直に答えた。


くぐらの眉が、わずかに寄った。何か言おうとしたようだったが、その前に戸が開いた。


「おはよう。手当ての続き、しに来たよ」


紗夜だった。薬箱と帳面と、なぜか煎餅の袋を抱えている。後ろからついてきた律は、額を押さえていた。


紗夜はシカネの横に座り、腕の布を解き始めた。手つきは丁寧だったが、目はしょっちゅう囲いの中のくぐらへ向いた。顔を見て、手を見て、首筋を見る。


三度目に目が向いたとき、くぐらが紗夜を見た。


紗夜の手が止まった。


「……ごめんなさい。見てない。見てないです」


「見ておったであろう」


「見てました。すみません。でも、後でちょっとだけ——」


「紗夜」


律が言った。紗夜は口を閉じ、布を巻き直す作業に戻った。


巻き終えてから、紗夜は我慢しきれなかったように、小さな声で言った。


「一つだけ。……昨夜のこと、律から聞いたんですけど。記録に残ってる竜の話と比べると、ずいぶん小さい気がして。どこか、悪いんですか」


くぐらは紗夜を見た。それから、シカネの腕の布を見た。


「悪くはない。半分は、あれに渡した」


「渡した?」


「産めば、渡る。そういうものだ」


紗夜の目が大きく開いた。書き留めようと懐の筆を探したが、律にもう一度名を呼ばれて、手を膝に戻した。


◇


景綱が来たのは、手当てが終わった後だった。


景綱は古い桐の箱を抱えていた。囲いの外の、シカネとくぐらの間に座って箱を置き、蓋を開けた。中には黄ばんだ紙の束が入っていた。


「十八年前の、封印の記録だ」


景綱は、一番上の紙を取り出した。


「くぐら殿が暴れたとき、私はまだ若い陰陽師だった。沈み淵から下流へ、くぐら殿の後を追った。くぐら殿は、何かを探していた。山を越え、川を下り、国境の戦場の跡まで来た」


景綱は紙を読み上げた。


「戦場の跡にて、男の亡骸を確かむ。残党狩りに遭いしものと見ゆ。懐に、相之助と名の入りし筆入れあり。赤子の姿、見えず」


くぐらの肩が、わずかに揺れた。


「くぐら殿は、その亡骸を見て、さらに荒れた。我らは同族の方々と力を合わせ、沈み淵に封じた。……赤子は、その後も見つからなかった」


景綱は紙を置き、シカネを見た。


「お前は、寺の拾い子帳を見たそうだな」


シカネはうなずき、覚えている文をそのまま口にした。


「境目の戦の跡、川原にて男児を拾う。黒き鱗を紐にて握る。……十八年前の、晩秋だった」


景綱は、記録の日付を指で示した。封印の記録も拾い子帳も、十八年前の晩秋だった。記録にある戦場跡と、住職から聞いた川原とは数里離れているが、同じ川筋にある。


シカネは、腰の小銭袋から根付を外そうとした。布を巻いた指では外しにくく、紗夜が手伝った。シカネは黒い鱗の根付を、囲いの紐の手前に置いた。


くぐらは、それをじっと見ていた。


昨夜、淵の中で、くぐらはこれを「私が結んだ」と言った。


「確かめても、よいか」


くぐらが言った。景綱がうなずくと、律が囲いの紐を一か所だけ緩めた。くぐらは手を伸ばし、根付をつまんだ。


くぐらは指先で、編み紐の結び目をたどった。


「紐は、新しい。おぬしが編み直したのであろう」


「擦り切れるたびに」


「だが、穴は私が開けた。この鱗は、私の左の手首から剥がした。産んだ夜に、赤子の手首に結んだ。……迷わぬように」


くぐらは根付を、そっと紐の手前へ戻した。


◇


シカネはしばらく、膝の上の布を巻いた手を見ていた。それから、顔を上げた。


「なんで俺を捨てた」


くぐらは、すぐには答えなかった。紗夜は筆を持つ手を止め、律は戸のそばに立ったまま動かなかった。


「捨ててはおらぬ」


くぐらは言った。


「……奪われた」


景綱が、桐の箱の底から一通の手紙を取り出した。ほかの記録とは違う薄い上等な紙で、折り目が擦り切れかけている。


「沈み淵のほとりの屋敷に残されていた。くぐら殿を封じたあと、我らが見つけた。宛名はない。だが、誰に宛てたものかは、読めばわかる」


景綱はそれを、シカネの前に置いた。


律が一歩前へ出た。


「私が読もうか」


「いい」


シカネは言った。


「俺宛てじゃねえけど、俺が読む」


シカネは、布を巻いた指で紙を広げた。


一画一画をきちんと止めた、崩しの少ない整った字だった。それでも、ふだん宛名や地名ばかり読んでいるシカネには、こういう文はすぐには読めない。一字ずつ指でたどったので時間がかかったが、誰も急かさなかった。


――あなたが一番大事にしているものを、もらっていきます。


――あなたが私から取ったものの、代わりに。


――相之助


シカネはもう一度、最初から読んだ。それから、紙から目を上げた。


「相之助ってのが、親父か」


「そうだ」


くぐらが答えた。


「顔のよい男であった。……私が、攫った」


シカネは、くぐらを見た。


「つがいができなかった。同族に笑われた。人間でも子はできると、誰かが言った。冗談だったのであろう。私は真に受けた。顔のよい男を探して、あの男を見つけて、屋敷へ連れて帰った」


くぐらは言い訳をせず、平らな声で話した。


「帰してくれと、何度も言われた。私は帰さなかった。子が生まれれば、変わると思った」


くぐらは、自分の手を見た。


「私は、そばに置けばよいと思っていた」


それ以上は、言わなかった。


シカネは、手紙に目を戻した。


「あなたが私から取ったもの」が何なのかは、手紙には書いていない。くぐらは、帰してくれと言われても帰さなかったと言った。シカネは、それ以上を聞く気にはならなかった。


自分がどうして川原にいたのかは、記録にも拾い子帳にも書かれていなかった。


「……親父は」


シカネは言った。


「どんな字を書いた」


くぐらが、顔を上げた。


「字?」


「これは、親父の字か」


「そうだ。あの男は、書き物をする仕事をしていた。毎日、何か書いておった」


シカネは、もう一度手紙の字を見た。自分が受取証に書く大きくて角ばった字とは、少しも似ていない。


「似てねえな」


シカネは、ひとりごとのように言った。


◇


しばらく、誰も口をきかなかった。


やがて、くぐらが囲いの中から、シカネの顔のほうへ手を伸ばした。


「顔を、見せよ」


けれど手は、囲いの紐の上で止まったまま、その先へは出てこなかった。指先が、かすかに震えている。


シカネは、その手を見て少し考えた。それから自分のほうから体を前へ傾け、紐の上へ顔を寄せた。


くぐらの指が、シカネの頬に触れた。雨に濡れた石のように冷たい指だった。指はシカネの眉をなぞり、目尻をなぞり、鼻筋で止まった。


「鼻は、あの男だ」


くぐらは言った。


「目は、私だ」


シカネは何も言わなかった。


くぐらの指が離れた。


「……腹は、減っておらぬか」


そういえば、昨夜から何も食べていなかった。


「減ってる」


くぐらは立ち上がろうとした。囲いの紐に膝が当たって紐がぴんと張り、四隅の札がかすかに光った。


くぐらは、景綱を睨んだ。景綱は桐の箱の蓋を閉めながら、くぐらと目を合わせずに言った。


「律。何か、食うものを」


律は小さく息をついて、戸を開けた。


戸の向こうで、律が誰かと話す声がした。台所に何があるか、粥なら炊ける、魚は昨日の残りがある、と話しながら、声は遠ざかっていった。


くぐらは囲いの中に座り直し、シカネの腕の布をもう一度じっと見た。


「……熱いものは、持てるか」


「持てねえ。たぶん」


「では、私が持つ」


「囲いから出らんねえだろ」


くぐらは囲いの紐を見下ろし、四隅の札を見回し、景綱の背中を見た。


「出してもらう」


景綱は振り返らなかった。紗夜が、帳面で口元を隠して笑った。

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