目ぇ覚ませ
「律。結界を」
景綱の指示は短かった。
律はもう動いていた。腰の札入れから四枚の札を抜き、淵のほとりを走って、祠の右手、岩壁の根元、倒木の上、そしてシカネのすぐ左に、一枚ずつ地面に叩きつけるように打っていく。打つたびに律の唇が動いたが、雨の音で何を唱えているのかは聞こえなかった。
四枚目を打つと、四つの札から細い光の線が伸びて、互いにつながった。線は水面の上で網のように編まれ、女の足元を囲んだ。
シカネは女の頬の鱗を見た。さっきまで赤銅色だった鱗が、端のほうから黒く濁り始めていた。濁りは墨が水に落ちたようにゆっくりと広がり、女の輪郭は雨の中でにじんで見えた。
律の網が締まると、濁りはそれ以上広がらなくなった。ただ、元の色に戻りはしなかった。
「何だ、あれ」
シカネが聞くと、景綱は女から目を離さずに答えた。
「魔へ堕ちかけている。鱗が全て黒く染まれば、もう戻れぬ」
「戻れねえと、どうなる」
「封じる。今度は二度と解けぬように」
景綱の後ろでは、配下の陰陽師たちが祠の周りに散って、大きな札を広げたり、地面に線を引いたりしていた。封じるための準備だった。
「律の結界がもつのは、四半刻だ」
景綱が言った。
「その間に正気へ戻れば、封じずに済む。戻らねば、封じる。……救えるなら救え。その準備と、封じる準備を、両方しろ。それが私の命だ」
最後の言葉は配下に向けたものだった。陰陽師たちは返事をせず、手を止めずに動き続けた。何度も聞いてきた命なのだろう、とシカネは思った。
シカネは景綱の横を通り過ぎた。
「下がれと言った」
「聞いた」
「聞いたなら——」
「四半刻なんだろ」
シカネは振り返らずに言った。
「呼んでも届かねえなら、近くまで行くしかねえ」
景綱はシカネを止めず、配下に合図を送った。封じの札が、淵を囲む位置へ運ばれていった。シカネが淵に入っても、封じる準備は続いていた。
◇
淵のほとりから浅瀬が続いていて、進むにつれて水は膝まで、腰までと深くなった。水は氷のように冷たく、雨が顔を叩くので、目を開けているのがやっとだった。
女まで、あと十歩ほどのところで、女がこちらを向いた。目の焦点は合っていないが、近づいてくる大きなものには気づいたようだった。
女が腕を振ると、水が壁のように立ち上がった。水はシカネの胸を打って体を浮かせ、岸まで押し流した。シカネは背中を岩に打ちつけ、息が詰まった。
「シカネ!」
律の声がした。律に名前を呼ばれたのは初めてだ、とシカネは頭の隅で思った。咳き込みながら立ち上がると、肋が痛み、口の中に泥の味がした。
「平気だ」
本当は平気ではなかった。肋は折れていないが、ひびくらいは入っているかもしれない。それでも、歩けないほどではなかった。
正面から行っても、また流される。
峠で二人組と向き合ったときと同じように、シカネはまず相手の動きと足場を見た。宗八に習ったのは道の歩き方だけだが、道を見るときの目は、喧嘩にも使えた。
淵の岸に沿って、水の中に岩が点々と頭を出していた。水が渦を巻いているところと、巻いていないところがある。そして女は、水を起こすとき、一度足元へ水を集めてから腕を振っていた。水を集めているあいだは、女の横ががら空きになる。
シカネは岩の上を走った。二つ、三つと渡り、四つ目の岩から斜めに水へ飛び込んだ。女の左側だった。腰まで沈んだが、足は底に着いた。
女が振り向いた。その腕が上がる前に、シカネは女の手首を掴んだ。
掴んだ手首から、雷がシカネの腕に流れ込んだ。白い光が腕を駆け上がり、全身の毛が逆立って、歯が鳴った。肘から先が、焼けるように熱くなった。
シカネはとっさに手を離しかけたが、そこで紗夜の部屋でのことを思い出した。峠で掴んだ術の冷えは、何日も腕の中に残っていて、最後は拳から桶へ出せた。掴んで離さなければ、相手の術は体の中に溜めておける。
シカネは、手首を掴んだまま離さなかった。
すると雷は、シカネの腕の中にとどまった。肘の上が熱く重くなり、腕の骨がきしんだ。峠の冷えはじっとしていたが、この雷は腕の中で暴れていて、肘の内側の皮膚が、焼けた鉄を当てられたように赤く腫れていった。
一呼吸。二呼吸。三呼吸。数呼吸しかもたないと、シカネにはわかった。
シカネは女の手首を離して半歩踏み込み、紗夜の部屋でしたのと同じように、足から腰へ、腰から肩へと力を送って、拳を女の足元の水面へ打ち込んだ。
雷が、拳から出ていった。
水面が白く光って弾け、水柱が立った。女の体が後ろへよろめき、水の上に立っていた足が、初めて水に沈んだ。
雨の中で、女がシカネを見た。今度は、目の焦点がシカネの顔に合っていた。
「……おぬし」
女の唇が動いた。
「おぬしは、誰だ」
シカネは答えようとしたが、言葉が出なかった。肩で息をしていて、腕は痺れ、指先の感覚がなかった。
女の目が、また揺れた。
「返せ。我が子を、返せ……!」
女の背後で竜の形の雲がうねり、シカネのすぐ横に雷が落ちた。水柱が上がり、シカネはまた岸のほうへ押し戻された。
◇
岸では、律が膝をついていた。
シカネのそばに打った一枚の札が、端から黒く焦げていた。律は両手を地面について、唇を動かしながら、その札に力を注ぎ込んでいる。額に浮いた汗が、雨と混ざって顎から落ちていた。
「律」
「話しかけるな」
律の声は震えていて、言葉が途切れ途切れになっていた。
律は顔を上げずに言った。
「あと少ししか、もたない。……札が、焼ける」
網の光がちらつき、女の頬の鱗の濁りが、また少し広がった。
景綱が配下に何か命じると、封じの札を持った陰陽師たちが、淵を囲むように動き始めた。
シカネは立ち上がった。膝が震え、肋が痛んだ。右腕は肘から先が真っ赤に腫れ、手の甲の皮が剥けていた。
もう一度掴めば、腕がどうなるかわからない。それでも、ほかのやり方は思いつかなかった。シカネには殴ることしかできない。それなら、殴れるところまで近づくしかなかった。
シカネは浅瀬をまっすぐ歩いた。今度は岩も選ばなかった。水が押し寄せても腰を落として踏ん張り、流されそうになるたびに、底の石を足の指で掴んだ。
そうして、女の前に立った。
近くで見ると、女はシカネより少しだけ背が低かった。濡れた黒髪の内側に、鈍い銅色の筋が混じっている。目の下の線を、どこかで見たような気がしたが、どこで見たのかは思い出せなかった。
女の両手に、また雷が集まり始めていた。
シカネは大きく息を吸い、雨の音に負けないように、腹の底から声を出した。
「聞きてえことは、山ほどある。なんで俺を捨てたのか。どこで何してたのか。十八年、何考えてたのか。全部、聞きてえ」
女の手の雷が膨らんでいく。
「けど、まず一回——」
シカネは女の両手首を掴んだ。
雷が両腕に流れ込んだ。さっきよりずっと強い。目の前が白くなった。
それでも、手を離さなかった。雷は両腕の中にとどまった。
一呼吸。
「目ぇ——」
二呼吸。
シカネは両手首を放し、踏み込んだ。
「——覚ませ!」
拳を、女の胸元へ打ち込んだ。
両腕の雷が拳から全部、女の中へ返っていった。
女の体が大きく揺れた。背後の竜の雲がほどけるように崩れ、雨が急に弱くなった。
女は水の中に膝をついた。
シカネも膝をついた。両腕とも肘から先が焼けたように腫れ上がり、もう上がらなかった。指一本動かせず、ただ肩で息をしていた。
女の濡れた手が、何かを探すように宙を動き、シカネの腰に触れた。そこには小銭袋が下がっていて、根付の黒い鱗がついていた。
女の指が鱗をつまみ、そのまま止まった。
シカネは女の頬を見た。黒く濁っていた鱗が、端のほうから少しずつ赤銅色に戻っていった。
岸で、景綱が右手を上げるのが見えた。封じの札を構えていた陰陽師たちが動きを止めた。律は地面についていた両手を離し、そのまま尻もちをついた。焦げた札が一枚、雨に濡れて地面に貼りついていた。
「これは」
女の声は、ひどくかすれていた。
「これは、私が、結んだ」
雨は、小降りになっていた。




