↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/35

目ぇ覚ませ

「律。結界を」


景綱の指示は短かった。


律はもう動いていた。腰の札入れから四枚の札を抜き、淵のほとりを走って、祠の右手、岩壁の根元、倒木の上、そしてシカネのすぐ左に、一枚ずつ地面に叩きつけるように打っていく。打つたびに律の唇が動いたが、雨の音で何を唱えているのかは聞こえなかった。


四枚目を打つと、四つの札から細い光の線が伸びて、互いにつながった。線は水面の上で網のように編まれ、女の足元を囲んだ。


シカネは女の頬の鱗を見た。さっきまで赤銅色だった鱗が、端のほうから黒く濁り始めていた。濁りは墨が水に落ちたようにゆっくりと広がり、女の輪郭は雨の中でにじんで見えた。


律の網が締まると、濁りはそれ以上広がらなくなった。ただ、元の色に戻りはしなかった。


「何だ、あれ」


シカネが聞くと、景綱は女から目を離さずに答えた。


「魔へ堕ちかけている。鱗が全て黒く染まれば、もう戻れぬ」


「戻れねえと、どうなる」


「封じる。今度は二度と解けぬように」


景綱の後ろでは、配下の陰陽師たちが祠の周りに散って、大きな札を広げたり、地面に線を引いたりしていた。封じるための準備だった。


「律の結界がもつのは、四半刻だ」


景綱が言った。


「その間に正気へ戻れば、封じずに済む。戻らねば、封じる。……救えるなら救え。その準備と、封じる準備を、両方しろ。それが私の命だ」


最後の言葉は配下に向けたものだった。陰陽師たちは返事をせず、手を止めずに動き続けた。何度も聞いてきた命なのだろう、とシカネは思った。


シカネは景綱の横を通り過ぎた。


「下がれと言った」


「聞いた」


「聞いたなら——」


「四半刻なんだろ」


シカネは振り返らずに言った。


「呼んでも届かねえなら、近くまで行くしかねえ」


景綱はシカネを止めず、配下に合図を送った。封じの札が、淵を囲む位置へ運ばれていった。シカネが淵に入っても、封じる準備は続いていた。


◇


淵のほとりから浅瀬が続いていて、進むにつれて水は膝まで、腰までと深くなった。水は氷のように冷たく、雨が顔を叩くので、目を開けているのがやっとだった。


女まで、あと十歩ほどのところで、女がこちらを向いた。目の焦点は合っていないが、近づいてくる大きなものには気づいたようだった。


女が腕を振ると、水が壁のように立ち上がった。水はシカネの胸を打って体を浮かせ、岸まで押し流した。シカネは背中を岩に打ちつけ、息が詰まった。


「シカネ!」


律の声がした。律に名前を呼ばれたのは初めてだ、とシカネは頭の隅で思った。咳き込みながら立ち上がると、肋が痛み、口の中に泥の味がした。


「平気だ」


本当は平気ではなかった。肋は折れていないが、ひびくらいは入っているかもしれない。それでも、歩けないほどではなかった。


正面から行っても、また流される。


峠で二人組と向き合ったときと同じように、シカネはまず相手の動きと足場を見た。宗八に習ったのは道の歩き方だけだが、道を見るときの目は、喧嘩にも使えた。


淵の岸に沿って、水の中に岩が点々と頭を出していた。水が渦を巻いているところと、巻いていないところがある。そして女は、水を起こすとき、一度足元へ水を集めてから腕を振っていた。水を集めているあいだは、女の横ががら空きになる。


シカネは岩の上を走った。二つ、三つと渡り、四つ目の岩から斜めに水へ飛び込んだ。女の左側だった。腰まで沈んだが、足は底に着いた。


女が振り向いた。その腕が上がる前に、シカネは女の手首を掴んだ。


掴んだ手首から、雷がシカネの腕に流れ込んだ。白い光が腕を駆け上がり、全身の毛が逆立って、歯が鳴った。肘から先が、焼けるように熱くなった。


シカネはとっさに手を離しかけたが、そこで紗夜の部屋でのことを思い出した。峠で掴んだ術の冷えは、何日も腕の中に残っていて、最後は拳から桶へ出せた。掴んで離さなければ、相手の術は体の中に溜めておける。


シカネは、手首を掴んだまま離さなかった。


すると雷は、シカネの腕の中にとどまった。肘の上が熱く重くなり、腕の骨がきしんだ。峠の冷えはじっとしていたが、この雷は腕の中で暴れていて、肘の内側の皮膚が、焼けた鉄を当てられたように赤く腫れていった。


一呼吸。二呼吸。三呼吸。数呼吸しかもたないと、シカネにはわかった。


シカネは女の手首を離して半歩踏み込み、紗夜の部屋でしたのと同じように、足から腰へ、腰から肩へと力を送って、拳を女の足元の水面へ打ち込んだ。


雷が、拳から出ていった。


水面が白く光って弾け、水柱が立った。女の体が後ろへよろめき、水の上に立っていた足が、初めて水に沈んだ。


雨の中で、女がシカネを見た。今度は、目の焦点がシカネの顔に合っていた。


「……おぬし」


女の唇が動いた。


「おぬしは、誰だ」


シカネは答えようとしたが、言葉が出なかった。肩で息をしていて、腕は痺れ、指先の感覚がなかった。


女の目が、また揺れた。


「返せ。我が子を、返せ……!」


女の背後で竜の形の雲がうねり、シカネのすぐ横に雷が落ちた。水柱が上がり、シカネはまた岸のほうへ押し戻された。


◇


岸では、律が膝をついていた。


シカネのそばに打った一枚の札が、端から黒く焦げていた。律は両手を地面について、唇を動かしながら、その札に力を注ぎ込んでいる。額に浮いた汗が、雨と混ざって顎から落ちていた。


「律」


「話しかけるな」


律の声は震えていて、言葉が途切れ途切れになっていた。


律は顔を上げずに言った。


「あと少ししか、もたない。……札が、焼ける」


網の光がちらつき、女の頬の鱗の濁りが、また少し広がった。


景綱が配下に何か命じると、封じの札を持った陰陽師たちが、淵を囲むように動き始めた。


シカネは立ち上がった。膝が震え、肋が痛んだ。右腕は肘から先が真っ赤に腫れ、手の甲の皮が剥けていた。


もう一度掴めば、腕がどうなるかわからない。それでも、ほかのやり方は思いつかなかった。シカネには殴ることしかできない。それなら、殴れるところまで近づくしかなかった。


シカネは浅瀬をまっすぐ歩いた。今度は岩も選ばなかった。水が押し寄せても腰を落として踏ん張り、流されそうになるたびに、底の石を足の指で掴んだ。


そうして、女の前に立った。


近くで見ると、女はシカネより少しだけ背が低かった。濡れた黒髪の内側に、鈍い銅色の筋が混じっている。目の下の線を、どこかで見たような気がしたが、どこで見たのかは思い出せなかった。


女の両手に、また雷が集まり始めていた。


シカネは大きく息を吸い、雨の音に負けないように、腹の底から声を出した。


「聞きてえことは、山ほどある。なんで俺を捨てたのか。どこで何してたのか。十八年、何考えてたのか。全部、聞きてえ」


女の手の雷が膨らんでいく。


「けど、まず一回——」


シカネは女の両手首を掴んだ。


雷が両腕に流れ込んだ。さっきよりずっと強い。目の前が白くなった。


それでも、手を離さなかった。雷は両腕の中にとどまった。


一呼吸。


「目ぇ——」


二呼吸。


シカネは両手首を放し、踏み込んだ。


「——覚ませ!」


拳を、女の胸元へ打ち込んだ。


両腕の雷が拳から全部、女の中へ返っていった。


女の体が大きく揺れた。背後の竜の雲がほどけるように崩れ、雨が急に弱くなった。


女は水の中に膝をついた。


シカネも膝をついた。両腕とも肘から先が焼けたように腫れ上がり、もう上がらなかった。指一本動かせず、ただ肩で息をしていた。


女の濡れた手が、何かを探すように宙を動き、シカネの腰に触れた。そこには小銭袋が下がっていて、根付の黒い鱗がついていた。


女の指が鱗をつまみ、そのまま止まった。


シカネは女の頬を見た。黒く濁っていた鱗が、端のほうから少しずつ赤銅色に戻っていった。


岸で、景綱が右手を上げるのが見えた。封じの札を構えていた陰陽師たちが動きを止めた。律は地面についていた両手を離し、そのまま尻もちをついた。焦げた札が一枚、雨に濡れて地面に貼りついていた。


「これは」


女の声は、ひどくかすれていた。


「これは、私が、結んだ」


雨は、小降りになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。