沈み淵の封
シカネは問屋の帳場の隅を借りて、筆を持った。
書くのは得意ではない。宛名や地名や受取証なら毎日書くが、それ以外の文はめったに書かない。墨をつけすぎて、最初の一枚は字が潰れた。
「何書いてんだ、お前」
弥吉が肩越しに覗き込んだ。隠すほどのことも書いていないので、シカネは紙を手で覆わなかった。
宛名は「律どの」で、中身は三行だった。
――鷹臣に呼ばれた。今夜、沈み淵へ行く。母に会えるらしい。
「母って……おい」
「清兵衛さん」
シカネは弥吉には答えず、帳場の清兵衛に紙を差し出した。
「夕方、陰陽方の律って人が来たら、これを渡してくれ。来なかったら、明日の朝、役宅に届けてくれ」
清兵衛は紙を受け取って読み、シカネの顔を見た。
「行くのかね」
「行く」
「理由を聞いても」
「聞きてえことがある」
清兵衛はしばらく紙を見ていたが、やがてきちんと折り直して、帳場の引き出しにしまった。
「預かった。うちの便で届ける。駄賃は、お前の次の仕事から引いておく」
「それでいい」
弥吉が何か言いかけたが、シカネはもう草鞋の紐を締めていた。
律は、今日はまだ問屋に来ていなかった。昨日は渡しに間に合わず、向こう岸の宿場に泊まったはずだ。朝一番の舟で戻っても、役宅へ報告に寄るから、問屋に顔を出すのは昼過ぎになる。
それで、シカネは書き付けを残すことにした。黙って行けば、律は見張っていた相手を見失い、そのせいで叱られる。それは筋が違うと思った。
◇
北の山に入ると、空気がどんどん湿っていった。
シカネは峠道を外れ、川に沿った獣道を上った。寺の住職が話していた川で、この下流の川原でシカネは拾われた。川を遡れば、沈み淵に着く。
日が傾くにつれて、霧が出てきた。杉の幹は濡れて黒く光り、足元の岩には苔がびっしり生えていて、草鞋の裏が滑った。シカネは歩幅を詰め、岩の乾いたところを選んで踏んだ。
途中で一度、足を止めた。川岸の岩に、古い縄の切れ端が巻きついていた。注連縄のほつれた端のようだった。上流から流れてきて、引っかかったのだろう。シカネはしばらく縄を見てから、また歩き出した。
上るにつれて水が深くなり、川の音が低くなっていった。
やがて木々が途切れ、目の前に淵が現れた。
岩壁に囲まれた、寺の境内ほどの広さの淵だった。水は黒く、底は見えない。水面には波一つなく、空も映していなかった。
ほとりには苔むした石の祠があり、そこから水面の上へ太い注連縄が渡されていた。縄は水に触れておらず、水面すれすれに浮いているように見えた。
祠の前に、淡い砂色の羽織を着た鷹臣が立っていた。後ろには、術者らしい男が五、六人いる。そのうちの二人に、シカネは見覚えがあった。峠の切り通しで襲ってきた二人組だ。若いほうの顎には、まだ青い痣が残っていた。
若いほうがシカネに気づいて、一歩下がった。
「来てくださいましたね」
鷹臣が言った。問屋で会ったときと同じ、丁寧な声だった。
「書状を奪いに来た連中だ」
シカネが二人組を顎で示すと、若いほうがもう一歩下がった。
「ええ。あの時は失礼をしました。あの書状が届けば、この場所の守りが固くなるはずでしたので。結果として、あなたは届けた。守りは固くなった。だから今夜、こうして急いでいるわけです」
鷹臣は悪びれもせず、隠す気もないようだった。
「景綱って人は、あんたに近づくなって言ってた」
「でしょうね。あの方は、十八年前にこの淵を封じた一人です。封じたものは、封じたままにしておきたい。それも一つの正しさです」
鷹臣は淵のほうを見た。
「ですが、この淵の主ほどの力を、ただ眠らせておくのは惜しい。山が崩れても、川があふれても、戦が起きても、人はいつも一方的に死にます。力がある者の気まぐれな善意だけに、町を預けておけますか」
シカネには答えられない問いだったし、答える気もなかった。
「母に会わせるって書いてあった」
「はい」
鷹臣は祠のほうへ体を向けた。
「この淵の底に、竜が眠っています。名を、くぐらといいます。十八年前、ある事情で暴れ、魔へ堕ちかけたところを封じられました。……あなたのお母上です」
シカネは淵を見たが、黒い水には何の変化もなかった。
「実感がねえ」
「そうでしょうね」
「顔も知らねえ。名前も、今聞いた」
「ええ」
「……聞きてえことがある。なんで俺を捨てたのか」
鷹臣は少しだけ目を細めた。
「聞けますよ。目覚めれば」
鷹臣は懐から一枚の札を取り出した。白いはずの紙が、乾いた血で赤黒く染まっている。シカネは、施療所で鑑定役が血を受けた小皿を思い出した。
「それ」
「あなたの血です。少し分けていただきました」
鷹臣は札を両手で持ち、淵に向けた。
「目覚めたくぐらに、ひとつ約束を結んでもらいます。子の血を持つ者に従え、と。それだけです。お母上は暴れずに済む。我々は、その力を正しく使える。あなたは母君と話ができる。誰も傷つかない」
「勝手に決めんな」
「決めるのは、お母上です。目覚めたあとで、ご自分で」
「目覚めたとたんに縛るんだろ。それのどこが自分で決めたことになる」
鷹臣はこのとき初めて、すぐには答えなかった。
シカネが前へ出ると、術者たちが一斉に札を構えた。鷹臣は淵のほうを向いたまま言った。
「もう、始まっています」
祠の注連縄が、音もなく切れた。
◇
淵の水面全体が、ゆっくりと盛り上がり始めた。
黒い水は山のように膨らみ、その頂から雨が降り出した。霧の上に雨雲などなかったはずなのに、大粒の雨がシカネの顔を叩いた。
やがて水の山が割れ、中から女が立ち上がった。
女は水の上に立っていた。長い黒髪は水を含んで背中に貼りつき、墨色の小袖は重なりが崩れて、裾から水が滴っている。肌は血の気の薄い灰色で、額の両脇から黒い角が二本伸び、頬と首筋には赤銅色の鱗が浮いていた。
女は目を閉じていた。
鷹臣が札を掲げた。
「くぐら殿。お目覚めを」
女が目を開けた。暗い金茶の目だった。焦点の合わないまま、何かを探すようにゆっくり動き、鷹臣の手にある赤黒い札で止まった。
女の鼻が、わずかに動いた。
「……その血」
低い声だったが、雨音の中でもはっきり聞こえた。
「その血は、どこで手に入れた」
「くぐら殿、これは——」
「我が子の血だ」
女は鷹臣を見据えた。
「我が子を、どこへやった」
札の内側から白い光が噴き出し、札が燃え上がった。鷹臣が手を離したのと同時に、雷が落ちた。札のそばに立っていた術者が二人、雷に打たれて倒れた。
「我が子を——返せ」
雨が激しくなり、淵の水が渦を巻き始めた。女の背後では、雨雲が長い胴と角と爪を持つ竜の形になり、淵の上空でとぐろを巻いた。
鷹臣は焦げた指先を見てから、短く言った。
「失敗です。引きます」
術者たちは倒れた仲間を担いで、森のほうへ走った。鷹臣は最後に一度シカネを見て、「生きていたら、また」と言い、霧の中へ消えた。
シカネは追わなかった。追う余裕がなかった。
また雷が落ちた。今度は、逃げ遅れた術者のすぐ横だった。峠の二人組の若いほうが、腰を抜かして泥の中に座り込んでいる。
シカネは走っていって若い術者の襟首を掴み、岩陰へ引きずり込んだ。その直後、さっきまで術者がいた場所に雷が落ちて、泥が跳ね上がった。
「なんで……」
若い術者が震える声で言った。
「顎、まだ痛えか」
「は?」
「悪かったな。行け。下に川がある。それに沿って下りろ」
術者はしばらく呆然としていたが、やがて這うようにして森の中へ消えた。
シカネは岩陰から顔を出した。女は水の上に立ったまま、宙に向かって何かを叫んでいた。言葉になっていない声で、雨と雷と渦を巻く水の音にかき消されて、ほとんど聞こえなかった。
あれが母だと聞かされても、シカネには実感がなかった。
そのとき、背後の森で何人もの足音がした。
「下がれ!」
鋭い声が、雨の中に響いた。
振り返ると、霧の中から人影が駆けてくるところだった。先頭は白い眉の老人、景綱だ。その横に律がいた。袴の裾は泥に汚れ、息が上がっている。手には、シカネが清兵衛に預けた書き付けを握っていた。
景綱はシカネの前に立ち、淵の女を見上げてから叫んだ。
「下がれ、シカネ! あれは、お前の母だ!」
シカネは景綱の背中に言った。
「知ってる」
景綱が振り返った。
「さっき聞いた。……実感はねえけどな」
シカネは、濡れた袖をまくり上げた。




