拾い子帳
紗夜が問屋に押しかけてきたのは、腕の冷えが抜けて三日目の朝だった。
シカネは土間で荷縄を巻いていた。右手はもう何の不自由もなく、掌に傷が薄く残っているだけだった。半歩離れた上がり框には律が腰かけて、膝の上の帳面に何か書いていた。
昨日一日、律は本当にどこへでもついてきた。南の宿場への便にも、帰りに寄った湯屋にもついてきて、湯屋では暖簾の外で待っていた。シカネが湯から上がると、律は帳面に一行書き足して、また半歩後ろについた。何を書いたのかは、聞かなかった。
暖簾が勢いよく跳ね上がった。
「竜だった」
紗夜は走ってきたらしく、息を切らしていた。前掛けをつけたままだった。
「何がだ」
「君の根付の鱗。この前見せてもらったでしょ。あれから二晩かけて、古い図録と、寺の宝物の写しと、昔の検めの控えに照らし合わせたの」
紗夜は帳場の前まで来て、シカネの小銭袋を指さした。
「竜の鱗だよ。しかも、剥がれてそんなに経たないうちに紐を通してる。紐の穴の縁が、焼いたみたいに滑らか。普通の道具で開けた穴じゃない」
土間が静まり返った。帳場の清兵衛はそろばんを弾く手を止め、奥から出てきかけた弥吉は暖簾の陰で立ち止まっていた。
「竜……って、あの竜か」
弥吉が言った。
「あの竜以外に竜はいないと思うけど」
紗夜は真面目な顔で答えた。
「雨を降らせるとか、川に棲むとか、そういう話の竜。祀られてる土地もあるし、大水の祟りとして書かれてる土地もある。どっちにしても、そのへんの山にいるものじゃない」
上がり框の律が帳面を閉じた。
「それは、確かか」
「確かじゃないことは言わない。少なくとも、竜じゃない理由は一つも見つからなかった」
清兵衛が咳払いをした。
「……シカネ。仕事の話は後でいいかね」
「ああ」
清兵衛はそれ以上何も言わず、帳面に目を戻した。
シカネは根付を指でつまんだ。爪ほどの、いつもの黒い欠片だった。竜の鱗だと言われても、シカネにはまだぴんと来なかった。
◇
昼前、客が来た。
背の高い男だった。三十代の半ば、淡い砂色の羽織に濃い青の袴。顔立ちが整っていて、目元が涼しい。荷を預けに来た商人の連れらしく、清兵衛と荷の値の話を穏やかに済ませた。
帰りがけ、男は土間で縄を巻いているシカネの前に立ち止まった。
「あなたが、シカネさんですね」
「そうだ」
「峠の書状を届けた方だと聞きました。見事な仕事だったと」
男は軽く頭を下げ、シカネの返事を急かさずに待っていた。
「誰に聞いた」
「人づてに。私は鷹臣と申します。陰陽の術を少し扱います」
上がり框の律が、立ち上がった。
鷹臣は律のほうへ目をやり、穏やかに会釈した。律は会釈を返さなかった。
鷹臣はシカネに向き直った。
「少しだけ。あなたは、ご自分のご両親のことをご存じないと聞きました」
「それも人づてか」
「ええ。……私は、あなたのお母上のことを、少し知っています」
シカネは縄を巻く手を止めた。
鷹臣は懐から、小さな札を一枚出した。白い紙に、藍で細い線が描いてある。
「会いたいと思われたら、この札を水に浸してください。私に知らせが届きます。無理にとは申しません」
札を上がり框の端に置き、鷹臣はもう一度会釈して出ていった。
律は鷹臣が暖簾の向こうに消えるのを待って、札に手を伸ばした。だが、シカネのほうが先に札を取った。
「それは私が預かる」
「俺宛てだ」
「危ないものかもしれない」
「水に浸けなきゃいいんだろ」
シカネが札を懐に入れると、律は初めて焦った顔をした。
「……一緒に来てくれ。役宅へ」
◇
役宅の奥座敷で、シカネは景綱という男に会った。
白い眉に細い頬で、髪はきちんと整えてある。六十を越えているように見えたが、背筋はまっすぐだった。景綱は話を始める前に、律の差し出した帳面に目を通した。
「鷹臣に会ったそうだな」
「さっき」
「あの男には近づくな」
「なんでです」
景綱は帳面を閉じた。
「今は言えぬ」
「言えねえなら、なんで近づくなって言えるんです」
「言えば、お前は混乱する。混乱した者は、余計なことをする」
シカネは景綱の顔を見た。景綱は目をそらさなかった。この人は何かを知っていて、それを言わないと決めているのだと、シカネは思った。
「あの書状は」
シカネは言った。
「峠で俺が運んだ書状。あれは何だったんだ」
「お前の知るべきことではない」
「俺が運んだ」
「運んだ者が中身を知らぬのが、飛脚の仕事であろう」
それは、その通りだった。シカネは黙った。
座敷を出るとき、シカネは振り返らずに言った。
「言えねえなら、自分で調べる」
◇
役宅の門を出ると、律が後ろからついてきた。夕暮れの通りに出たところで、律が口を開いた。
「書状のことだが」
シカネは足を緩めた。
「全部は言えない。だが一つだけ。あれは、沈み淵という場所の封を狙う者がいる、という知らせだった」
「沈み淵」
「北の山の奥にある淵だ。……これ以上は言えない」
律はそう言って、口を閉じた。
「なんで今それを言った」
律は少し考えた。
「君が自分で調べると言ったからだ。何も知らずに調べ回るほうが、危ない」
「景綱って人に怒られねえのか」
「怒られる」
律はあっさり言った。
「報告には書く。私が言ったことも」
◇
次の朝、シカネは川向こうの寺へ行くことにした。
問屋に顔を出すと、宗八が土間の隅で草鞋を編んでいた。シカネが行き先を言うと、宗八は手を止めずに聞いた。
「往復でどれくらいだ」
「普通の足なら一日半。俺なら、一日」
「寺での用は」
「帳面を見せてもらうだけだ」
宗八は編みかけの草鞋を置き、シカネの足元を見た。
「昼までに着け。寺で半刻。日暮れまでに川を渡って戻れ。渡しが止まったら、無理に泳ぐな。宿場で一晩寝ろ」
「わかった」
「速いのと、届くのは違うぞ」
「知ってる」
宗八は鼻を鳴らして、また草鞋を編み始めた。
律はついてきた。最初の一里で息が上がり、二里目で遅れ始め、三里目で「先に行け。寺で追いつく」と言った。シカネは振り返ってうなずき、そのまま走った。
川沿いの道は、子供の頃に何度も歩いた道だった。あの頃は一日がかりだった道のりを、今は昼前に走り抜けられる。
◇
川向こうの寺は、記憶よりずっと小さかった。
シカネが十歳まで暮らした寺だ。本堂の屋根には苔が生え、境内の銀杏が黄色い葉を散らしていた。先代の和尚はもういない。出てきたのは、シカネがいた頃に若い修行僧だった男で、今はここの住職になっていた。
「大きくなったなあ」
住職はシカネを見上げて笑った。
「拾い子帳を見せてほしい。俺が拾われたときの」
住職は少し驚いた顔をしたが、何も聞かずに奥へ入った。戻ってきたとき、手には紐で綴じた古い帳面があった。表紙は茶色く褪せ、角が擦り切れている。
住職が帳面を開いて一つの頁を指さすと、シカネは膝をついてその頁を覗き込んだ。
墨の字は、ところどころ滲んでいた。宛名や地名なら読み慣れているが、帳面の字は崩しが多い。シカネは指で一字ずつたどりながら、時間をかけて読んだ。
――境目の戦の跡、川原にて男児を拾う。黒き鱗を紐にて握る。
日付は、十八年前の晩秋だった。
シカネはもう一度、指でたどりながら最初から読み直した。
「境目の戦ってのは」
「この辺りの者はそう呼んでる。十八年前、国境で藩同士の小競り合いがあった。戦は三日で終わったが、そのあと残党狩りがひどくてな。先代は、その川原へ弔いに行って、お前を見つけたんだ」
「その川原は、どこだ」
「北の山から流れてくる川の、下のほうだよ。上は、沈み淵っていう深い淵になってるらしい。私は行ったことがないが」
シカネは帳面から顔を上げなかった。
◇
シカネが寺を出るとき、ちょうど律が山門に着いた。律は息を切らしながら「先に、戻るな」と言ったが、シカネは「渡しが止まる」とだけ答えて走った。
川の渡しに着くと、最後の舟がちょうど岸を離れるところだった。シカネが舟に飛び乗ると、船頭は「今日はこれで仕舞いだ」と言った。律の足では間に合わないから、律は向こう岸の宿場で一晩泊まることになる。
城下へ戻ったのは、日が落ちる寸前だった。
長屋に帰ると、戸の隙間に折りたたんだ紙が挟まっていた。開くと、整った字が並んでいた。
――お母上に会わせて差し上げます。明晩、沈み淵にて。 鷹臣
シカネは戸を開け、土間に上がった。灯りはつけなかった。
シカネは板の間に座って、書き付けを膝に置いた。それから小銭袋の根付を外し、窓から入るわずかな明かりにかざした。
黒い鱗は、何も言わなかった。




