貸し一つ
翌朝、施療所の奥へ通されたシカネは、戸口で立ち止まった。
紗夜の部屋は、ひどく散らかっていた。
廊下の突き当たりにある六畳ほどの板間に、物が積み上がっている。巻物、帳面、割れた陶器、金具の外れた箱、糸の束、乾かしかけの草。机の上には筆が五本と、食べかけの煎餅が三枚あった。床で足の踏み場になっているのは、人ひとり分の細い道だけだ。
「適当に座って」
紗夜は奥の机に向かったまま言った。
シカネは座れそうな場所を探して、結局、戸口の近くで膝を折った。体が大きいので、それだけで部屋の三分の一が埋まった気がした。
「昨日より上がってるね」
紗夜が振り返り、シカネの右腕を一目見て言った。冷えは肩を越えて、鎖骨のあたりまで来ていた。右手の指は丸まったまま、もう拳の形から開かない。
「寝てる間に上がってきた」
「痛い?」
「冷てえだけだ」
「冷たいのは痛いのと同じだよ。体にとってはね。……朝ご飯は?」
「食った」
「何を」
「飯と汁。片手で」
「片手でも食べるんだ。えらいね。私は両手あっても忘れる」
紗夜は自分の煎餅を一枚かじって、残りを机に戻した。
「まあいいや、腕出して」
紗夜は机の引き出しから、細い糸の巻きついた道具を出した。糸の先に、小指の先ほどの鈴がいくつも結んである。糸をシカネの右腕に、手首から肩まで這わせるように巻いていく。
「動かないで。息は普通にしてて」
紗夜が糸の端を指で弾くと、鈴が鳴った。手首の鈴は高く澄んだ音で、肘の鈴は少し濁った音だった。上腕の真ん中あたりの鈴だけは、鳴らずに小さく震えた。
「ここだ」
紗夜はその鈴の位置に、墨で小さな丸を描いた。それからもう一度糸を弾き、丸の周りの鈴を一つずつ指で押さえて確かめた。
「冷えが、ここに固まってる。腕全体が冷たいのは、ここから漏れて広がってるだけ」
「固まってる?」
「そう。掴んだものを、君はまだ手放してないんだよ」
紗夜は筆を置き、シカネの顔を見た。
「峠で掴んだもののこと、もう少し詳しく教えて」
シカネは話した。切り通しの二人組。札から伸びた青い刃。文箱に向かってきたそれを、右手で掴んだこと。掌が裂けて、冷たさが這い上がってきたこと。刃は手の中で消えたこと。
話を聞くうちに、紗夜はだんだん身を乗り出してきた。
「今、消えたって言ったね」
「ああ。手の中で消えた」
「それ、たぶん君の腕の中に入ったんだよ」
紗夜は膝で這うようにして近づき、シカネの右手を両手で包んだ。
「術を掴んで、自分の中に入れたの。普通はできないよ。あやかしは自分の力が完成してるから、よその術は弾くか、壊されるか、どっちか。人間は弱いけど、外から来るものを取り込むのは得意なの。薬とか、技とか、言葉とか。でも術を取り込んだら、ふつうは傷になって終わり。掴んで、そのまま持っていられるなんて——」
そこで紗夜は言葉を切り、自分の手元を見た。
「ごめん、話が逸れた。治す話だった」
「治るのか」
「たぶん。中に入ったままなら、外へ出せばいい」
「どうやって出す」
紗夜は少し考えた。それから、部屋の隅の桶を指さした。水が半分ほど張ってある。
「殴るとき、どうしてる?」
「どうって」
「力はどこから出てる?」
「足から腰。腰から肩。肩から拳」
シカネは考えずに答えた。何千回も繰り返してきた動きだ。
「それだ。その流れで、腕に溜まった冷えを拳から外へ出すつもりで、あの桶を殴ってみて。桶は壊さないでね。高いから」
シカネは立ち上がった。天井が低いので頭を少し下げたまま、桶の前まで行って膝をつく。そして、握ったままの右拳を持ち上げた。上腕の真ん中、紗夜が墨で丸をつけたあたりが、ほかよりはっきり冷たい。
シカネはいつものように、足から腰へ、腰から肩へ、肩から拳へと力を送り、桶の水面を殴った。
拳が水に当たった瞬間、上腕に固まっていた冷えが肘を通って流れ、拳の先から抜けていった。
ぱきん、と乾いた音がして、桶の水が白く凍った。
水は底まで凍り、桶の形のまま真っ白な氷の塊になっていた。桶の縁には霜が降り、部屋の空気が一度に冷えた。
シカネが拳を桶から離すと、氷に貼りついた皮膚が少し剥がれた。痛みはあまり感じなかった。それより、肩から肘、肘から手首へと、腕が温まっていくのがわかった。指先がじんと痺れている。
右手を握って、開いてみた。全部の指が、思った通りに曲がった。
「……動く」
シカネは何度も手を握っては開いた。
その横で、紗夜が桶を抱えるようにして覗き込んでいた。
「凍った。ほんとに凍った。底まで。あの冷えを全部、一度に——ねえ、もう一回できる? できないか、もう入ってないもんね。じゃあ次に何か掴んだら——」
紗夜は机に飛びつき、帳面に何か書き殴り始めた。書きながら、独り言が止まらない。取り込む、留める、吐き出す、量は、時間は、何でも掴めるのか。シカネには半分も聞き取れなかった。
シカネは指を動かしながら、凍った桶を見下ろした。この氷が自分の腕から出たのだと思っても、まだ実感はなかった。ともかく、明日からはまた荷が結べる。
「ねえ、それ何?」
紗夜の声に、シカネは顔を上げた。紗夜は筆を止めて、シカネの腰を見ていた。小銭袋の根付だ。
「これか。昔から持ってる」
「いつから」
「物心ついたときには、もうあった。寺の坊さんが、俺が握ってたって言ってた」
「見せて」
シカネが根付を外して渡すと、紗夜は机の引き出しから拡大鏡を出した。窓の明かりに黒い欠片をかざし、角度を変えながら、しばらく黙って覗き込んでいた。
「鱗だね」
「鱗?」
「うん。かなり古い。表は擦れてるけど、裏の筋が残ってる。……蛇じゃない。蛇の鱗は、こんなに厚くない」
紗夜は拡大鏡を下ろし、根付をシカネの手に返した。返しながら、目は根付から離れなかった。
「調べさせてくれる? 預かるのは——嫌かな」
「嫌だ」
シカネはすぐに答えた。なぜ嫌なのかは、自分でもうまく言えなかった。紐を編み直すのも、なくしていないか確かめるのも毎日のことで、人に預けることなど考えたこともなかった。
「だよね。じゃあ、見るだけ。また今度」
シカネが根付を小銭袋に結び直していると、戸口のほうで、板を踏む小さな音がした。
振り返ると、細身の女が立っていた。薄灰の小袖に紺の袴。腰の札入れと細い筒。一昨日の夕方、役宅の門で書状を受け取った門番だった。
「邪魔をする」
女は部屋の中を見回し、凍った桶に目を留めた。それから、シカネの右手を見た。
「手は治ったようだな」
「今、治った」
「そうか」
女は小さくうなずいた。
「陰陽方の律だ。門では名乗らなかった。今日から、君の様子を見るよう言いつかっている」
「様子?」
「君がどこへ行き、何をするか。見て、上へ報告する」
シカネは律を見て、紗夜を見た。紗夜は筆を持ったまま、律を見ていた。
「なんでだ」
律は少しの間、答えなかった。
「峠の件と、今の桶だ」
「桶はさっきのことだろ」
「私は廊下で見ていた」
「最初からいたのかよ」
「途中からだ」
紗夜が帳面を閉じた。
「陰陽方が、私の部屋を勝手に覗かないでくれる?」
「覗いたのではない。戸が開いていた」
「開いてても、入っていいとは言ってない」
「入ってはいない」
「屁理屈」
「事実だ」
「その報告って、私の研究のことも書くの?」
「必要なら」
「必要って、誰が決めるの」
「私だ。……今のところは」
二人とも声を荒らげはしなかったが、どちらも引く気はないようだった。
シカネはその間に、草鞋の紐を結んだ。今日は両手で結べた。固く締めて立ち上がると、頭が天井の梁に当たりかけ、シカネは首をすくめた。
「仕事に戻っていいか」
二人が同時にシカネを見た。
律が言った。
「止める権限は、私にはない」
「そうか」
「ついていく権限はある」
◇
問屋へ向かう通りを、シカネは歩いた。
律は半歩後ろを、足音を立てずについてきた。シカネが振り返っても、律は目をそらさなかった。見張っていることを隠す気はないらしい。こそこそ見られるよりはいい、とシカネは思った。
通りの角に、茶屋の暖簾が見えてきた。城下の中にある、お澄の店とは別の小さな茶屋だ。団子を焼く煙が、軒先から細く流れている。
シカネが足を止めると、律も止まった。
「あんたも食うか」
律は答えなかった。茶屋の軒先を見て、シカネを見て、それから通りの向こうへ目をそらした。
「……勤めの最中だ」
そう言いながら、律の目は、団子を焼く網の湯気から離れなかった。




