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人間以下の診立て

右腕が重かった。


夜明け前の長屋で、シカネは草鞋の紐を左手だけで結ぼうとして、三度しくじった。寝る前は肘の上までだった冷えが、朝には肩の付け根まで来ている。袖をまくると、腕の内側が白っぽく、指で押してもすぐには色が戻らなかった。


一晩寝れば引くと思っていたのに、冷えは残ったままだった。


シカネは袖を下ろし、紐の端を歯でくわえた。これなら片手でも結べる。


「おい、起きてるか」


戸を叩く音と一緒に、弥吉の声がした。返事を待たずに戸が開く。


「今日の便、二人いるってよ。南の宿場まで、反物と薬種。お前と俺で——」


弥吉はそこで黙った。シカネが紐をくわえたまま顔を上げると、弥吉の目は右腕に向いていた。袖口から覗く指先が、白くこわばっている。


「なんだそれ」


「なんでもねえ」


「なんでもねえ手がそんな色になるかよ。見せろ」


弥吉は土間に上がり込み、シカネの袖を勝手にまくった。白い肌に指を当てて、すぐ引っ込める。


「冷てえ。氷みてえじゃねえか。昨日の峠か」


「ちょっと切っただけだ。走れる」


「走れるかどうかじゃねえよ。手が使えなきゃ荷が結べねえだろ。反物、途中でほどけたらどうすんだ」


それは、その通りだった。シカネは紐を口から離した。


「医者だ。施療所に行くぞ」


「仕事は」


「俺が行く。南の宿場なら俺の道だ。一人で二つ担げなくもねえ」


弥吉はシカネの文箱を勝手に担いで、外へ出た。シカネは片方だけ結べた草鞋で、その後を追った。


◇


城下の施療所は、大通りから一本入った静かな通りにあった。


白い漆喰の塀の内側に、薬を煎じる匂いが漂っている。待合の板の間には、朝早いのにもう何人か座っていた。腹を押さえた子供、腰を曲げた年寄り、手拭いで頭を縛った大工。大工はシカネを見上げて、少し尻をずらして場所を空けた。


弥吉が受付に事情を話すと、ほどなく奥から治療師が出てきた。痩せた顔に、短い白髪交じりの髪。玄朔という名だと、弥吉が小声で教えた。この施療所の主だという。


玄朔は挨拶もそこそこに、シカネの右手を取った。玄朔の指は厚く、温かかった。玄朔は掌の細い傷を見て、手首を返し、肘の内側を押した。そのあいだ、シカネの顔は見ずに、手の震えだけを見ていた。


「いつからだ」


「昨日の昼。峠で」


「何をした」


「術の刃が飛んできた。掴んだ」


玄朔の手が止まった。


「掴んだ?」


「文箱に当たりそうだったから」


「いや、わけはいい。……そうか。掴んだのか」


玄朔はしばらく黙って腕を見ていた。


「傷は浅い。もう塞がりかけている。だが冷えが残っている。普通の術傷なら、術の残りは傷口にこびりついていて、拭えば取れる。これは違う」


「違う?」


「冷えが腕の奥に溜まっている。……二十年この仕事をしているが、こんなのは見たことがない」


玄朔は眉を寄せた。


「私の手には余る。術の検めをする者を呼ぶ」


◇


半刻ほどして、鑑定役が来た。


藩の役人らしい羽織を着た、四十がらみの男だった。手入れのいい髷に、細い目。施療所に出入りしているらしく、玄朔に軽く会釈しただけで、すぐにシカネの前に座った。弥吉には目もくれなかった。


男は懐から札を一枚出し、シカネの腕に当てた。札に書かれた朱の文字が、にじむように広がった。男は表情を変えずに、次に小刀を出した。


「少し血をもらう」


シカネが返事をする前に、男はシカネの指先を浅く切った。小皿で血を受け、札の上に一滴落とすと、朱の文字が赤から黒へ、はっきりと色を変えた。


男は小皿を手元に引き寄せた。


「混じっているな」


「何がだ」


「人ではないものが。お前、半妖だ」


板の間が静かになった。


シカネの後ろで、弥吉が一歩下がった。床板がわずかに鳴った。


「……半妖」


「知らなかったのか。まあ、そうだろう。こういう連中は大抵、親もわからん」


男は小皿に布をかぶせながら、玄朔のほうを向いた。


「冷えが取れんのはそのせいだ。人の体なら、術は表に残る。半端な体だから、妙なところに溜め込む」


「では、どう治す」


「治すも何も。そもそも、この者をここで診る筋合いがあるのかね。人の施療所だろう、ここは」


玄朔は答えず、手元の布をもう一度畳み直した。


男はシカネの顔をろくに見ないまま、話を続けた。


「親もわからぬ、どこの何が混じったかもわからぬ。ルーツのわからない半妖なんぞ、人間以下だ」


シカネは黙っていた。


半妖だと言われても、自分の何が変わるのか、シカネにはぴんと来なかった。人間以下と言われても、木偶の坊と言われるのと同じくらいで、腹は立たなかった。体がでかいのも、喧嘩で負けないのも、団子がうまいのも、昨日までと同じだ。


「こんなものに飛脚を任せる問屋の気が知れん。書状に何かあったら、誰が責任を取るのだ」


シカネは顔を上げた。


「書状は届けた」


「何?」


「昨日の書状は、日暮れ前に届けた。受取証もある。問屋に文句があるなら、届いてねえ書状を一通でも持ってきてくれ」


男は何か言い返そうとして、口を閉じた。しばらく誰も口をきかなかった。


そのとき、奥の部屋の戸が開いた。


「ねえ、それ、診立てになってないよね」


出てきたのは、二十代の終わりくらいの女だった。焦げ茶の髪を後ろでまとめ、一筋だけ頬に落ちている。薄墨の小袖に袴、作業用の前掛けには墨の染み。帯に太い筆を横向きに挿していた。手には、かじりかけの煎餅を持っている。


「紗夜殿」


玄朔が、ほっとした声で言った。


女は煎餅をかじりながら、シカネの横にしゃがみ込んだ。


「半妖って言えばわかった気になるけど、何も説明してないよね。何と何の半分なの? どうして冷えが中に溜まるの? 溜まった冷えはどうなるの?」


「それを調べるのは私の役目では——」


「じゃあ、黙っててくれる?」


紗夜は鑑定役のほうを見もせずに言った。鑑定役は顔を赤くして立ち上がり、玄朔に一礼すると、足早に板の間を出ていった。布をかぶせた小皿は、袖に入れて持っていった。


紗夜はシカネの右腕を両手で持ち、肘の内側を指で軽く叩いた。場所を変えて、もう一度叩く。


「冷たいね。でも、死んだ冷たさじゃない。動いてる」


「動いてる?」


「この冷え、君が持ってるんだよ。傷じゃなくて」


シカネには意味がわからなかった。紗夜はそれを顔で察したらしく、少し考えてから言い直した。


「誰かが投げた冷たいものを、君は掴んだ。で、まだ放してない。そんな感じ」


「放し方がわかんねえ」


「だよね。私もわかんない」


紗夜はあっさり言って、煎餅の最後のかけらを口に放り込んだ。


「でも、調べればわかるかもしれない。こういうの、私の仕事なの。陰陽の術を調べて、道具を作ってる。……気になるから、調べてあげよっか」


「頼む。治るなら——」


言いかけたシカネに、紗夜は人差し指を立てた。


「貸し一つで」


シカネは口を閉じた。


「貸しってなんだ」


「貸しは貸しだよ。私が君の役に立つ。君はいつか、私の役に立つ」


「何をすりゃいい」


「そのうち考える」


紗夜は悪びれた様子もなく笑った。この女は、親切と取引をあまり分けて考えていないらしい。


シカネは右手を握ろうとしたが、指は半分しか曲がらなかった。このままでは、明日からの便を走れない。


「わかった。貸し一つ」


「決まり。明日の朝、ここの奥に来て。私の部屋、散らかってるけど気にしないで」


玄朔が、咳払いをした。


「紗夜殿。その部屋は施療所のものだが」


「片づけます。そのうち」


◇


施療所を出ると、日はもう高かった。


弥吉は門の外で待っていた。文箱を足元に置き、塀にもたれて、通りを行く人を眺めている。南の宿場への便は、とっくに出ている刻限だった。


シカネが出てくると、弥吉は塀から背中を離した。


「……どうだった」


「明日、もう一回来る。調べてくれるって」


「そっか」


弥吉は文箱を担ぎ直した。いつもの弥吉なら、施療所の女がどうだったとか、煎餅をかじりながら診るやつがあるかとか、何か軽口を言うところだ。今日は何も言わなかった。


「半妖ってのは、本当なのか」


「そう言われた」


「親、知らねえんだろ」


「知らねえ」


弥吉はうなずいて、通りのほうを向いた。


「……そりゃ、お前なら走れるわけだよな」


笑ったような声だった。顔は笑っていなかった。


「今日の仕事、俺がやっとくから。遅れた分、清兵衛さんに謝っとく」


そう言うと、弥吉は先に歩き出した。問屋へ向かう道だ。いつもなら並んで歩く道を、弥吉はシカネを待たずに行った。


シカネはしばらく門の前に立っていた。


右手を握ってみても、指は半分しか曲がらない。シカネは左手で、小銭袋の根付に触れた。黒い欠片は、いつもと同じ冷たさだった。

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