↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/34

団子二本と、濡れない文箱

問屋の土間には、まだ夜の冷えが残っていた。


シカネが暖簾をくぐると、帳場の清兵衛が帳面から顔を上げた。いつもほど笑っていない。


「来たね。ちょうどよかった」


「急ぎか」


「急ぎだよ。割増も付く」


清兵衛は帳場の奥から、折りたたんだ引換の書付を出した。


「隣国から書状が一通、峠向こうの宿場まで来ている。向こうの便はそこまでだ。受け取って、日暮れまでに城下の陰陽方の役宅へ届けてほしい」


「峠を越えて、戻ってくるのか」


「そうなるね」


「日暮れまでなら、往復できる」


「着けばいいんだがね」


清兵衛はそれ以上言わず、駄賃の額を帳面に書きつけた。いつもの倍近い。シカネは思わず数字を見直した。


「お前にばっか回るよなあ」


土間の隅で草鞋の紐を結んでいた弥吉が、わざとらしく伸びをした。


「俺だって峠くらい越えられるんだぜ」


「じゃあ行くか」


「いや、そうじゃなくて。行けって言われたら行くけどさ、言われてねえじゃん」


弥吉は笑いながら、シカネの空の文箱を勝手に開けて、雨覆いの具合を見た。口は軽いが、荷を見る目は確かだ。油紙の端を指でなぞり、継ぎ目に隙間がないのを確かめてから、蓋を閉めた。


「北の峠、昨日の昼に雨が来たってよ。沢の水が増えてるかもな」


「わかった」


引換の書付を文箱に収め、紐をかけたところで、奥から宗八が出てきた。宗八はシカネの師匠で、上がり框にゆっくりと腰を下ろした。


「足、見せろ」


シカネが片足を上げると、宗八は草鞋の裏を親指で押した。


「替えてけ。峠の下りで抜ける」


「まだ使える」


「使えるのと、もつのは違う。速いのと、届くのも違うぞ」


シカネは黙って草鞋を替え、古いほうはまだ使えるので、紐でくくって腰に下げた。


◇


城下を出て一里ほど行くと、街道沿いに茶屋がある。


暖簾の前を通りかかっただけで、甘辛いたれの焦げる匂いがした。シカネは思わず足をゆるめた。


「寄ってくのかい」


店先で湯を沸かしていたお澄が、顔も上げずに言った。


「二本」


「急ぎの顔してるけどね」


「急ぎだから二本なんだ。三本だと座りたくなる」


お澄は鼻で笑って、焼き目のついた団子を二本、皿に乗せて出した。シカネは立ったまま一本目を食べ、二本目は串を回しながら少しだけゆっくり食べた。最後の一口は、いつも小さくかじる。


「帰りにも寄る」


「帰りは日が暮れてるだろ。店じまいだよ」


「暮れる前に戻る」


「峠越えで?」


お澄は呆れた顔をしながら、皿を下げた。


代金を払おうと小銭袋を出すと、根付にしている黒い欠片が指に当たった。物心ついた頃から持っている、爪ほどの大きさの、鱗のようなものだ。紐が擦り切れるたびに、自分で編み直している。


「取っといてやるよ、二本。売れ残ったらね」


「売れ残らねえだろ、ここの団子は」


「わかってんなら早く行きな」


◇


峠道に入ると、空気が変わった。


杉の匂いが濃くなり、足元の土が湿ってきた。弥吉の言ったとおり、昨日の雨がまだ道に残っていた。シカネは歩幅を少し詰めた。上りで急ぐと、下りで膝が笑う。


峠向こうの宿場には、昼前に着いた。問屋の出店で書付を見せると、番頭が油紙で二重に包んだ書状を出してきた。封には見慣れない印が押してある。差出は隣国で、宛先は陰陽方の景綱という人だった。


「隣の国の飛脚が、ここまで夜通しで来たそうだ。えらく急いでた」


シカネは書状を文箱に収め、すぐに引き返した。百歩ごとに文箱の紐に手をやり、背中で揺れていないか確かめた。


峠の上へ戻ったのは昼過ぎで、日はまだ高かった。このまま下れば、夕方の早いうちに役宅に着く。


切り通しに差しかかったところで、シカネは足を止めた。


道の先に、男が二人立っていた。旅装なのに荷物を持たず、笠を目深にかぶって、道の真ん中に立ったまま動かない。


「飛脚だな」


片方が言った。声は若い。


「そうだ。通してくれ」


「その書状を置いていけ。そうすれば通してやる」


シカネは文箱の紐を握り直した。


「置いてったら、届かねえだろ」


「届かなくていいものだ」


「それは、受け取るほうが決める」


男たちは顔を見合わせた。年かさのほうが懐から札を出し、指で弾くように振った。札の端から薄青い光が伸びて、細い刃の形になった。


刃はシカネではなく、背中の文箱をめがけて飛んできた。


シカネはとっさに身をひねり、文箱をかばって右手を突き出した。光の刃を、素手でつかんだ。


刃は掌を浅く切った。痛みより先に、氷を握ったような冷たさが来た。冷えは掌から手首へ、手首から腕の内側へと広がっていく。刃の光は、シカネの拳の中で消えた。


術を放った男が、目を見開いた。


「なんだ、今の」


シカネは答えずに踏み込んだ。右手は痺れて使えないので、左の拳に体重を乗せて、若いほうの男の顎を殴りつけた。男は道の脇の藪まで転がった。


年かさのほうが次の札を出そうとして、手を止めた。シカネは文箱を背負い直しただけで、それ以上は近づかなかった。追いかければ、書状から目が離れるからだ。


男は仲間を引きずり起こし、斜面を駆け下りていった。


シカネは右手を開いた。掌に細い傷が一筋あったが、血はほとんど出ていない。傷の周りが白く、触ると冷たかった。


シカネは文箱を下ろして中を確かめた。油紙も封も無事だった。


「……届けりゃいい」


声に出して言ってから、シカネは峠を下り始めた。


◇


下りの途中で、沢を渡る。


いつもならくるぶしまでしかない流れが、膝の上まで来ていた。昨日の雨が山から下りてきたのだ。水は茶色く濁り、石が転がる音がしていた。


シカネは文箱を背中から下ろし、左腕一本で頭の上に掲げた。右手は懐に入れたままにした。指先がしびれて、紐を握れるかどうかも怪しかった。


シカネは一歩ずつ、底の石を足の指で探りながら渡った。半ばで足を取られかけ、腰を落として踏みとどまった。文箱は揺れたが、水には触れなかった。


向こう岸に上がってから、シカネはもう一度文箱を開けた。油紙は乾いていた。


右手が使えないと、下りは思うように速くならなかった。転んでも手がつけないからだ。右腕の冷えは、じわじわと肘のほうへ広がっている。シカネは右手を懐に押し込んで温めながら走った。宗八の言ったとおり、古い草鞋なら、今の沢で抜けていた。


麓の街道に出て、お澄の茶屋の前を通った。暖簾の向こうでお澄が手を上げたが、シカネは止まらなかった。


◇


役宅に着いたのは、日が山の端にかかる頃だった。


黒塗りの門の脇に、門番がひとり立っていた。細身で、姿勢がいい。薄灰の小袖に紺の袴、腰に札入れと細い筒を下げている。女だと気づいたのは、近くで声を聞いてからだった。


「飛脚か」


「隣国からの書状です。陰陽方の景綱さま宛てで」


門番は書状を受け取ると、封の印を確かめ、受取証に印を押した。手際に無駄がない。受取証を返そうとして、その手が止まった。


「その手」


門番は、シカネが受取証を受け取ろうと出した左手ではなく、懐から半分出ている右手を見ていた。


「峠で、ちょっとな」


「見せてくれ」


断る理由もなかったので、シカネは掌を開いた。門番は少し離れたまま、手首と指の色を見た。指先は青みがかっていた。


「それは術の傷だ。どこで受けた」


「北の峠の切り通し。二人組だった。書状を置いてけって」


「書状は」


「今あんたが持ってる」


門番は手の中の書状とシカネを見比べた。


「二人組の顔は」


「笠で見えなかった。若いほうの顎に一発入れた。明日には腫れてる」


門番は細い筒から小さな帳面を出して、何か書きつけた。


「手当てを受けたほうがいい。術の傷は、放っておくと厄介だ」


「届いたんならいい」


シカネは受取証を懐に入れて、門を離れた。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。


◇


帰りに寄るとお澄に言ったので、シカネは来た道を一里引き返した。茶屋に着いたときには、空はすっかり暗くなっていた。


暖簾は下ろされていた。シカネが戸の前で足を止めると、内側から戸が開いて、お澄が顔を出した。


「ほんとに来たよ、この子は」


お澄は竹の皮の包みを差し出した。持つと、まだほんのり温かい。


「二本。売れ残ったんだよ」


「売れ残らねえって言ったろ」


「売れ残ったの。黙って持ってきな」


シカネは包みを左手で受け取り、店先の縁台に腰を下ろした。右手は膝の上に置いたまま、左手で串を持った。


一本目はすぐになくなった。二本目を半分食べたところで、右腕の冷えが肘の上まで来ているのに気づいた。


右手を握って、開いて、もう一度握ってみたが、思うように力が入らなかった。


「どうかしたのかい」


「なんでもねえ」


最後の一口を小さくかじって、串を見た。


「明日も寄る」


「はいはい。生きてたらね」


お澄は戸を閉めた。シカネは暗い街道に座ったまま、もう一度、右手を握ったり開いたりした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。