叱り置く
朝、問屋の戸を開けると、帳場の前にくぐらが座っていた。
清兵衛が、困った顔で茶を出していた。くぐらは湯呑みに手をつけずに、シカネが土間に入ってくるのを見ていた。
「おとといの夜、何かあった」
くぐらは立ち上がって、シカネの前まで来た。
「一度ではない。夜明け前まで、ずっとだ。何度も、何度もあった」
シカネは、文箱を下ろそうとして、膝ががくりと折れかけた。救い出しの夜から一日半たっても、膝は、力を入れると震えた。
くぐらは、シカネの両手を取った。拳の皮が、両手ともむけて、乾いた血がこびりついていた。
「地の下にいたのか」
「坑の底に人が残ってた。山の重さを、ちょっと借りた。天井が落ちそうだったから」
くぐらは、シカネの拳を見たまま、しばらく何も言わなかった。それから、上がり框を指した。
「座れ」
シカネが座ると、くぐらは台所へ行って、湯で絞った手拭いを持ってきた。それを、シカネの両膝の上に一枚ずつ載せた。
宗八が、奥から膏薬の壺を持ってきた。
「拳を出せ。皮がむけたまま、文箱の紐を握るな」
宗八が拳に膏薬を塗るあいだ、くぐらは、膝の手拭いが冷めるたびに取り替えた。三度目に取り替えたとき、シカネはもういいと言った。くぐらは、四度目も取り替えた。
◇
返り便の手紙を配って回るとき、シカネは最初にお民の長屋へ行った。
「六助さん、出てきた。歩いてた。笑ってた」
お民は、戸口で、その場にしゃがみこんだ。
シカネは、六助が煙を吸っていて、玄朔がもう一日診ると言っていること、手紙は鉄次に書いてもらって次の便で届くことを話した。お民は、何度もうなずいて聞いていた。
「春に帰ってくるって、書いてあったよね」
「書いてあった」
◇
次の日の昼、シカネは山方の本役所に呼ばれた。
律の見立てに、坑の中にいた者として名が書いてあったからだった。景綱の使いが問屋まで来て、清兵衛に断りを言っていった。
座敷の上座に、山奉行が座っていた。その脇に、赤沢から下りてきた小野寺と、丸屋の番頭がいた。反対の側に、景綱と律、それから役宅の年かさの陰陽師が一人、並んでいた。春の見立てを書いた人だと、律が門の前で教えてくれた。
シカネは、座敷の端に座らされた。
山奉行は、律の見立てを手元に置いて、シカネに聞いた。
「五番坑から、岩を打ち抜いたと書いてある。坑夫頭の印のとおりに、肩から先だけで打った、と」
「はい。鉄次さんが、白い石で丸を描いて、そこだけ打てと。思いきり殴ったら、上が落ちると言われました」
「支柱が齧られていたのも、見たか」
「見ました。灰色の、百足みたいなのが、木を齧ってました。支柱の間は、広かったです」
「境の石が動いていたというのは」
「元の穴は、律が見つけました。苔が、縁に残ってました」
山奉行は、それ以上シカネには聞かなかった。
小野寺が、膝を進めた。
「この見立ては、山の障りの有無を超えて、支柱の間合いや逃げ坑のことまで書いております。陰陽方の役目の外のことです」
山奉行は、見立ての紙をめくった。
「役目の外だが、書いてあることは、坑夫頭の申し立てとも合う」
山奉行は、紙を閉じて、座敷の皆に聞こえるように言った。
「七番坑は閉じる。境の石は、元の穴へ戻す。残る坑には、定めの間合いで支柱を立て、逃げ坑を掘る。山のあやかしとの取り決めは、赤沢で結び直せ。山のあやかしに札を結んで水を引かせる案は、見合わせる。崩れの元が人の側にある以上、山のあやかしを縛る理由がない」
丸屋の番頭が、畳に手をついたまま、顔を上げた。
「七番を閉じれば、出る鉱は半分になります。両替商への返しが」
「返しの日延べは、山方から両替商に口を利く。だが、坑夫の数は、今のままでは置けまい」
番頭は、少し黙ってから答えた。
「七番に入っていた者が、十八人。それと、水替えが」
「水替えの無宿は、山方で引き取って、ほかの山へ回す」
番頭は、また顔を伏せた。
山奉行は、景綱のほうを向いた。
「陰陽方には、今後、山の見立ては頼まぬ。春の見立ては、動いた石を確かめもせずに書かれている」
景綱が、頭を下げた。
「誤った見立てに押した印は、私のものです」
「陰陽方の内のことは、陰陽方で始末せよ」
山奉行は、それから律を見た。
「律とやら。陰陽方の見立ては、障りの有無に限る。支柱や逃げ坑のことは、山方の役目だ。役目の外のことを書いたのは、差し出がましい。叱り置く。このことは、書き付けにして陰陽方へ回す」
「はい」
律は、手をついて頭を下げた。顔を上げたとき、表情は変わっていなかった。
小野寺は、座敷のあいだ、一度も律のほうを見なかった。律も、赤沢の帳場で小野寺に頼まれたことは、最後まで口にしなかった。
◇
座敷を出た廊下で、年かさの陰陽師が律を呼び止めた。
「お前が書かなければ、誰も困らなかった」
男の声は低かった。シカネは、律の二歩うしろで足を止めた。
「山方の見立て料で、役宅の半分が食っている。それが今日で、なくなった」
律は、男のほうへ向き直った。
「三人、死にました」
男は、律の顔を見た。何か言いかけて、やめた。
「お前の家にも、話は行くぞ」
男はそう言って、先に廊下を歩いていった。
景綱は少し離れたところで、それを見ていた。律の横を通るとき、足を止めた。
「明日、赤沢へ戻れ。山のあやかしとの取り決めは、お前が書け」
「陰陽方には、もう山の見立ては」
「見立てではない。取り決めの書き役だ。山方からも、そう頼まれた」
景綱は、それだけ言って、男のあとから出ていった。
◇
山方の役所の門を出ると、通りの角に焼き芋の屋台が出ていた。
シカネは二本買って、一本を律に差し出した。律は受け取らずに、懐から叱りの写しを出して、端を揃えていた。揃え終わると、また最初から揃え直した。
「家に、話が行くのか」
「行く。父は、怒るだろう。私の家は、術を扱う家の傍流だ。本家に何か言われるのは、父だから」
律は、写しを懐に戻して、やっと焼き芋を受け取った。
「わかっていて書いた。書けば、こうなると」
「役宅の半分が食ってるって、あの人が言ってたのは、本当か」
「本当だ。来月から、役宅で私に声をかけない人が増える」
律は、焼き芋の皮に指をかけたまま、むかなかった。
シカネは、自分の芋の皮をむいた。湯気が立った。
「先月のは、まだ嫌だ」
「わかっている」
シカネは、芋を一口かじった。熱くて、口の中で転がした。
「来月の分も、俺が運ぶか」
律が、シカネを見た。
「君のことを書いたものを、君に運ばせるのか」
「封をしときゃいい。中は見ねえ」
律は、焼き芋を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「頼む」
律はそう言って、焼き芋をかじった。それから、口を押さえて、しばらく動かなかった。




