境の石
夜が明けると、坑夫たちが交代で七番坑に入った。
崩れたところの手前まで、煙はもう薄くなっていた。坑夫たちは昼前までに、三人を運び出した。平吉と、熊と、源次だった。三人とも、崩れた土砂の手前で、手拭いを口に当てたまま倒れていたという。火には焼かれていなかった。
三人は、坑口の脇の筵の上に並べられた。赤沢に家のある者がいて、女が一人、筵の横に膝をついて動かなくなった。
玄朔は、煙から這い出した坑夫たちを、飯場で一人ずつ診ていた。咳の止まらない者の胸に耳を当て、喉の奥を覗き、弟子に薬を煎じさせた。三人の亡骸のところへは、一度だけ来た。顔にかけた布をめくって見て、元に戻した。
◇
帳場の板の間で、鉄次が坑の図を広げた。
「水替えが止まって、一日半だ。底の溜まりは、半日で膝くらい上がる。六助たちがいる段まで、あと一晩ってところだ」
鉄次は、七番坑の崩れたところを、指で押さえた。
「ここの土砂は、ひと月かけても掘れねえ。上の天井も割れてる。触ったら、また落ちる」
鉄次の指が、図の上を横へ動いた。七番坑の脇に、もう一本、古い坑道が並んで描かれていた。
「五番坑だ。昔、ここから横に試し掘りをした。鉱が薄くて、途中でやめた。その突き当たりと七番の底の手前のあいだは、岩が二尺くらいしかねえはずだ」
「二尺なら、俺が打ち抜ける」
鉄次は、顔の左側をシカネに向けた。
「打ち抜けるかどうかじゃねえ。そこは殴るな。思いきり殴ったら、上が落ちる」
律が、図を覗きこんだ。
「その前に、境の石を見たい。春の見立てでは、七番坑は境の手前で止まることになっている」
◇
境の石までは、斜面を半刻ほど登った。
灰色の大岩の上に、硯岩が座っていた。近くで見ると、立てば鉄次より頭一つ以上高そうだった。背中は岩の塊のように盛り上がり、灰色の衣は、薄い石を何枚も重ねたような縞になっていた。指の節は、木の瘤のように太かった。
硯岩は、登ってきた三人を見下ろした。顔を動かすと、肩から細かい石の粉が落ちた。
律は、硯岩に頭を下げてから、春の見立ての綴りを開いた。図に描かれた境の石の場所と、目の前の立て石を見比べる。それから立て石の根元にしゃがんで、土に指を入れた。
「土が柔らかい。草の根が切れている」
律は立ち上がって、斜面の上のほうを見た。二十間ほど上に、草の生えていない窪みがあった。律はそこまで登って、窪みの縁を指でなぞった。縁には苔がついていて、窪みの形は、立て石の根元とよく似ていた。
「石は、ここにあった。下へ動かされている」
律は、窪みから七番坑の口のほうを見下ろした。
「この窪みが本当の境なら、七番坑は境を越えて、二十間ほど掘り進んでいることになる。春の見立ては、動いたあとの石を境として書いている」
硯岩が、低い声で言った。
「許したのは、そこまでだ」
硯岩は、太い指で窪みを指した。
「儂は、そこまでの層を押さえておる。おぬしらの坑は、儂の層を二十間越えた。越えた先は、押さえぬ。奥の者が支柱を齧っても、儂は知らぬ」
「奥の者って、何だ」
シカネが聞いた。
「儂の下の層に棲む者らだ。岩の継ぎ目を這って、木を齧る。人が山におらぬほうがよいと、前から言うておった」
律が、綴りの端に何か書きつけた。
「石を動かしたのは、誰ですか」
「人だ。春の前に、三人で担いでいった」
「それを、見ていたのですか」
「動かしたのは、人だ」
硯岩はそれだけ言って、目を閉じた。肩から、また石の粉が落ちた。
◇
斜面を下りる途中で、鉄次が足を止めた。
「支柱の間は、定めの倍だ」
鉄次は、律のほうへ顔の左側を向けていた。
「七番坑を掘りはじめてすぐ、丸屋の番頭に言われた。木の代が払えねえ、間を広げて立てろって。俺は、知ってて人を入れた。六助も、水替えの連中も」
律は立ったまま矢立を出して、綴りに書いた。鉄次は、律の筆が止まるまで待っていた。
「それも、書くのか」
「書きます」
「七番坑は、閉じることになるか」
「わかりません。私が決めることではありません」
鉄次は、谷のほうを見下ろした。飯場の屋根から、炊事の煙が上がっていた。
「閉じるなら、閉じりゃいい。けど、止めたあとの飯は、誰が出す」
律は答えなかった。シカネも、答えなかった。
◇
帳場の前まで下りてくると、小野寺が、羽織の男と話していた。
淡い砂色の羽織だった。
男は、話しながら手にした紙を小野寺に見せていた。坑の図の上に、札のような形がいくつも描いてある。
「山のあやかしに札を結んでおけば、坑の底の水を、山の中の別の層へ引かせることができます。水替えの人足は要らなくなります。坑も、今より深く掘れる」
小野寺は、図から目を離さずにうなずいていた。
男が、こちらへ顔を向けた。
鷹臣だった。
去年の秋、沈み淵へシカネを招いて母の封を解き、そのまま姿を消した男だった。一月半前には、関屋家の門から駕籠で出ていくのを見た。
鷹臣は、小野寺に軽く頭を下げてから、シカネの前まで歩いてきた。
「お久しぶりです。この山の便を、あなたの問屋が請けたと聞きました」
「あんた、なんでここにいる」
「山方にお願いがあって来ていました。七番坑の火のことは、ここで聞きました」
鷹臣は、坑口の脇の筵のほうを見た。
「水替えの人足は、この山だけで、毎年何人も死にます。名前も残らずに。それを減らせるなら、と思っています」
それから鷹臣は、尾根のほうを見上げた。境の石の上に、硯岩が小さく見えていた。鷹臣の目は、そこからシカネの顔へ戻ってきた。
「危険なまま自由にしておく理由は、何でしょう」
シカネが口を開く前に、鷹臣はもう一度頭を下げて、小野寺のところへ戻っていった。二人は、帳場の中へ入っていった。
律は、帳場の戸が閉まるまで見ていた。それから、綴りに一行書き足した。
「あいつのことも、書くのか」
「書く。山方に、坑の水を引かせる案を出していたことも」
シカネは、閉まった戸を見た。
「さっきの、何て答えりゃよかったんだ」
「わからない」
律は、綴りを閉じた。
「ただ、あの人は、君の答えを聞く前に行ってしまった。聞きたかったのは、答えではないのだと思う」
◇
日が傾くころ、鉄次が五番坑の口に、灯と縄と鏨を並べた。
「今夜、行く。俺と、あんたと」
「私も行く」
律が言った。
「煙の流れを見る者が要る。それに、七番坑の中を、この目で見ておきたい」
鉄次は、律の細い腕を見て何か言いかけたが、言わなかった。
シカネは、宗八にもらった草鞋の紐を締め直した。右の腰の印籠に手をやると、一段目にも二段目にも、品が入っている重さがあった。
鉄次は、五番坑の口の岩肌に、耳の左側を当てた。しばらくそうしてから、シカネに向かって、指を三本立てた。




