欠けた印
二日後、吟味の座敷に、四つの物が並べられた。
郡方の判鑑。蜘蛛の網から出てきた本物の届け。柿原村の名主を牢へ入れよと書かれた命令書。それから、松葉屋の蔵の長持から出てきた、木の印。
座敷の端には、清兵衛と弥吉とシカネが並んで座っていた。反対の端に、佐伯と律がいた。
吟味役に言われて、佐伯が前に出た。佐伯は木の印を取り、朱肉をつけて、白い紙に押した。紙を持ち上げると、「岡部」の二字が、四角い枠の中に出ていた。
佐伯は、その紙を命令書の印の横に並べた。字の太さも、枠の角の丸みも同じだった。右下の角は、どちらも欠けていなかった。
次に佐伯は、判鑑を開いた。今年の梅雨のあとに押し直された岡部の印は、右下の角が小さく欠けていた。本物の届けの印も、同じところが欠けていた。
「この木の印は、角が欠ける前の岡部さまの印を写して、彫ったものです」
佐伯は、長持から出てきた紙の束の中から、一枚を抜き出した。
「去年の春に岡部さまが郡方で出された書状の、書き損じです。印を押したあとで字を誤って、反故に回したものだと思います。この印も、まだ欠けていません」
吟味役は、松葉屋の主人を呼び入れた。
松葉屋は、座敷の隅で手をついたまま話した。郡方の反故紙は、漉き返しのために毎年まとめて買い取っている。この春、関屋家の用人から、岡部さまの印のある反故を何枚か取り置いてほしいと頼まれた。秋になって、蔵の奥を少し貸してくれとも言われた。礼金をもらった。何に使うかは聞かなかった。
「聞かなかったのか」
「聞けば、断らなければならなくなると思いました」
松葉屋は、畳に額をつけた。
十蔵は、縄をかけられたまま一度だけ座敷に引き出された。何を聞かれても、「主の家のためにやった」としか言わなかった。
吟味役は、四つの物を順に見てから言った。
「すり替えたのは、十蔵。問屋の者ではない。問屋の疑いは晴れた。明日から、戸を開けてよい」
清兵衛が、手をついて頭を下げた。隣で弥吉も頭を下げた。
「ただし、御用の文箱を縁台に置いて離れた落ち度は、消えぬ。陣屋の御用が戻るかどうかは、陣屋の決めることだ」
吟味役は、それから少し声を落とした。
「関屋家からは、用人が一人、自分の一存でしたことだと申し出てきた。家の者は何も知らぬと。家には及ばぬ」
佐伯が、小さく息を吐いた。
「そうなるだろうと、思っていました」
吟味役は、佐伯を見たが、何も言わなかった。代わりに、書役から一枚の紙を受け取って読んだ。
「柿原村の伝右衛門は、今日、牢から出す。差し押さえた籾は、もう売られて戻らぬ。売った代金を、村へ返す。足りぬ分は、追って沙汰する」
◇
奉行所を出て、シカネと律は武家屋敷の並ぶ通りを抜けて帰った。
清兵衛と弥吉は、先に問屋へ戻った。戸を開ける支度があるという。
塀の長い屋敷の前を通りかかったとき、門の前に駕籠が一挺止まっていた。門番が、門の脇に下がって頭を下げている。律が門の上の紋を見て、足をゆるめた。
「関屋家だ」
門の中から、男が一人出てきた。淡い砂色の羽織を着た、背の高い男だった。駕籠に乗りこむ前に、男は通りのほうへ顔を向けた。
鷹臣だった。
去年の秋、「母君に会わせて差し上げる」とシカネを沈み淵へ招き、封を解いて、そのまま姿を消した男だった。鷹臣の目が、シカネのほうへ来た。目が合ったかどうか、シカネにはわからなかった。そのうちに鷹臣は駕籠に乗りこみ、戸が閉まった。駕籠かきが駕籠を担ぎ上げ、通りの向こうへ去っていった。
シカネは、駕籠の行ったほうを見ていた。
「関屋の家に、何の用だ」
「わからない」
律は、駕籠が見えなくなるまで見送ってから言った。
「書く」
シカネは、律を見た。
「それも、書くのか」
「書く。見たとおりに」
◇
堀端まで来ると、律が足を止めた。
「蔵の件を、今月の見立てに書いた。読んで聞かせる。これは、私がそうしたいからする。決まりではない」
律は、記録筒から紙を一枚出した。
「蔵前の堀、松葉屋の蔵にて。蜘蛛の糸を足より出して堀を渡る。浅瀬の石を拳より出して、火の流れを二つに割る。長持に乗り、梁の術の火を手で掴み、三呼吸のうちに堀へ吐き出す。右の掌に火傷。長持の蓋は開かず」
律は、紙から目を上げた。
「違うところはあるか」
シカネは少し考えた。
「三呼吸じゃねえ。堀に打ちこんだときは、たぶん四つ目に入ってた」
律は矢立を出して、紙の上に小さく書き足した。「四呼吸に近し」。
「ここまでだ」
シカネは、手拭いを巻いた右手を見た。
「従順って、また書くのか」
「今月は、書かない。そう見えなかった」
「先月は、見えたのか」
律は、紙を記録筒に戻した。
「見えた」
堀を、空の荷舟が通っていった。シカネは、船頭が竿を引き上げるのを見ていた。
「そうか」
シカネはそれだけ言って、歩き出した。律は、いつもの半歩うしろの間合いで、ついてきた。
◇
北の入り口の茶店には、今日もミズナがいた。
シカネは、洗って乾かした手拭いを差し出した。
「返す」
「また返してもらった」
ミズナは手拭いを受け取って、膝の上に置いた。それから、シカネの右手の手拭いを見た。
「それは、律さんの?」
「蔵で巻いてもらった」
「ふうん」
シカネは船着き場の端にしゃがんで、杭のほうへ声をかけた。
「お糸さん。書状、役に立った」
網の奥で、黒い足が一本だけ動いた。
「そうかい。車輪がなくなって、網が破れなくなったよ」
お糸さんは、それだけ言って、また網を張る作業に戻った。
シカネは、茶店の縁台に戻って座った。婆さんが、何も聞かずに団子の皿を置いていった。
「律さんと、何かあったんでしょ」
ミズナが言った。
「あいつ、俺のことを毎月書いてた。従順で扱いやすいって」
「うん」
「守るためでもあったって言った。たぶん、本当なんだろ。今日も、書いたのを読んで聞かせてきた」
シカネは、団子の串を取った。
「けど、先月の分は、やっぱり嫌だ」
ミズナは、湯呑みを両手で持った。
「あの人、君を嫌っているわけじゃない。それで困るんだよね」
シカネは、団子をかじりかけて、止めた。
「嫌いな人に書かれたなら、怒って終わりでしょ。君を守ったのも本当だから、そうはいかない」
ミズナは、茶を一口飲んだ。
「僕は、書かれるのはどうでもいいけどね」
シカネは、団子を一つ食べた。もう一つ食べた。
船着き場の下で、お糸さんが、新しい糸を杭から杭へ渡していた。




