蔵と堀
夕方、紗夜が長屋まで印籠を持ってきた。
「二段目、できた。間に合ったでしょ」
紗夜は印籠をシカネの手に載せ、二段目の蓋を開けて見せた。内側に、一段目とは違う細かい字の札が貼りこんであった。戸棚に吊るしておいた糸玉は、ねばつきが戻って、元の太さになっていた。
シカネが糸玉を二段目の口に近づけると、糸玉は小豆ほどに縮んで、底に転がった。
「一段目に石、二段目に糸。一度に掴めるのは一つだけなんだから、出す前にどっちか決めてね」
紗夜は、印籠をシカネの右の腰に結び直した。
「それと」
「いつ、どこで、何回」
「わかってるなら、いい」
◇
日が落ちると、蔵前の堀は暗くなった。
松葉屋の蔵は、堀に裏を向けて建っていた。表は紙屋の店で、蔵の裏には舟から荷を揚げる口がある。厚い板戸が、石段の上についていた。
表の通りには、町奉行所の同心と、小者が二人、物陰に控えていた。律が今朝、奉行所へ行って話をつけてきた。忍びから聞いた話だと言うと、同心は渋い顔をしたが、見回りのついでなら、と引き受けたという。
シカネと律は、堀の向こう岸の、荷舟の陰にしゃがんでいた。
「蔵の中から出てこなければ、意味がない。朔はそう言ったのだな」
「言った」
「なら、同心が表から入るまで、蔵の中の物を残しておけばいい」
律は、懐の札を数えていた。
一刻ほど待ったところで、堀の水が鳴った。
小舟が一艘、明かりもつけずに堀を滑ってきた。松葉屋の荷揚げ口の石段に着くと、男が一人、舟から上がった。板戸に何かを差しこむと、戸が内側へ開いた。男は中へ入り、戸を閉めた。
しばらくして、蔵の高い窓が赤く光った。
律が呼子を吹いた。表の通りで、同心が店の戸を叩く音がした。叩く音は続いたが、戸が開く音はしなかった。
「表は錠が下りている。松葉屋が起きてくるまで、時がかかる」
律は、立ち上がった。
「私は橋を回る。隣の蔵に火が移らないようにする」
橋は、二町先だった。
シカネは右の腰の印籠を外して、二段目の蓋を開けた。手のひらに転がすと、小豆ほどの糸玉が、栗ほどの大きさに戻った。
糸玉を握り、中の力を掴んだ。掌からねばつく重さが入ってきて、腕を下り、ふくらはぎに溜まった。
シカネは岸を走った。荷舟の脇を抜け、石垣の縁で踏み切った。
体が堀の上に出た。堀の真ん中あたりで、右足を水面へ下ろし、足の裏から重さを吐き出した。
白い糸が、足の下に広がった。糸がたわみ、膝まで沈みかけたところで、止まった。
シカネはその一歩で、もう一度、前へ跳んだ。
跳んだ後ろで、糸が水に沈む音がした。向こう岸の石段が迫ってきた。足は届かず、膝から下が水に落ちた。両手で石段の縁を掴み、体を引き上げた。
荷揚げ口の板戸は、内側から閂がかかっていた。シカネは肩から板戸にぶつかった。二度目で、閂が折れた。
◇
蔵の中は、煙の匂いがした。
奥の壁際に、古い長持が一つ置いてあった。その前に、行商の身なりの男が立っていた。目立たない顔の男だった。男は右手に札を一枚持っていて、札の先から、赤い火が帯のように長持へ流れていた。火は、水が樋を流れるように、途切れずに長持の蓋のほうへ伸びていた。
長持の蓋の角が、黒く焦げはじめていた。
シカネは印籠の一段目を開けた。小石を手のひらに転がし、元の大きさに戻ったところで握って中の力を取り込んだ。
冷えが掌から入って、肘まで上がった。
シカネは踏みこんだ。足を床に打ちつけ、腰を回し、火の帯の真ん中を、横から拳で打った。
拳の当たったところで、火の帯が二つに割れた。
割れた火は、長持の左右へ分かれて流れ、両脇の土壁に当たって散った。土壁が赤く照らされたが、燃えはしなかった。肘から先の冷えは、拳から出ていった。
シカネは、長持の前に立った。
男は、札を持ったまま、シカネを見た。
「流れを割ったのか。妙なことをする」
「十蔵ってのは、あんたか」
男は答えなかった。札の火を止めて、懐から別の札を出した。
「恨みはねえよ。お前にも、あの店にもな」
男は、札を天井へ投げた。
札は梁に貼りついて、燃え上がった。火は梁を這って、横へ広がりはじめた。蔵の梁が燃え落ちれば、長持も、この蔵も、隣の蔵も無事ではすまない。
男は、荷揚げ口のほうへ走った。
シカネは、長持の上に飛び乗った。梁に右手が届いた。燃えている札ごと、梁の火を掴んだ。
掌が焼けた。熱さが手首を越えて、肘から肩まで上がってきた。腕が内側から焼けるように熱い。梁の上の火は、シカネの掌に引かれて、梁から離れた。
一呼吸。
シカネは長持から飛び降りた。
二呼吸。
荷揚げ口まで走った。腕の熱は首のつけ根まで来ていた。
三呼吸。
シカネは石段に膝をつき、堀の水面に右の拳を打ちこんだ。
拳から熱が抜けていった。水が音を立てて噴き上がり、白い湯気があたり一面に広がった。湯気が晴れると、右腕の熱は消えていた。掌の皮が赤くむけて、ひりひりと痛んだ。
振り返ると、梁の火は消えていた。焦げた跡から、細い煙が上がっているだけだった。
◇
男の小舟は、もう堀の中ほどを、堀の口のほうへ進んでいた。男が竿を突くたびに、舟は速くなった。
堀の口には、低い橋が架かっていた。小舟が橋の下をくぐろうとしたとき、橋の上から黒い影が落ちてきた。
影は舟の上の男にぶつかった。男が水に落ちる音がした。舟は空のまま、橋の下を流れていった。
橋の上には、もう誰もいなかった。
男は泳いで、手近な石段に取りついた。そこへ、表から回ってきた小者たちが駆けつけて、男を石段の上に引きずり上げ、縄をかけた。
律が、橋のほうから走ってきた。隣の蔵の壁に、札が三枚、貼ってあるのが見えた。
「火の粉は、こちらへは来なかった。中は」
「梁は消した。長持は無事だ」
律は、シカネの右手を見た。それから、何も言わずに、自分の手拭いを裂いて、掌に巻いた。
◇
しばらくして、同心が松葉屋の主人を連れて、蔵の表から入ってきた。主人は寝間着のままで、顔が青かった。
同心は長持の前に立って、シカネに聞いた。
「この箱に、触ったか」
「火を掴むために、上には乗りました。蓋は開けてません」
同心は、小者に長持の蓋を開けさせた。
中には、紙の束と、小さな桐の箱が入っていた。桐の箱の中に、木を彫った印が一つ。同心が提灯を近づけると、印の面に「岡部」と彫ってあるのが見えた。紙の束は、古い書状の写しや書き損じだった。どれにも、岡部の印が押されていた。
松葉屋の主人が、その場に座りこんだ。
同心は、懐から紙を出して、提灯の明かりで何か書いた。書き終えると、シカネに見せた。
「蔵の中にて、長持一つ、印一つ、書状の束、たしかに預かり候」
同心の名と、日付が書いてあった。
◇
蔵の外に出ると、シカネは堀の石段に下りて、借りた手桶に水を浅く汲んだ。印籠の一段目から小石を出して、手桶の底に置いた。斑が、すっかり薄くなっていた。
二段目の糸玉も出してみた。ずいぶん細くなっていた。
「紗夜に言う分を、数えてる」
隣に来た律に、シカネは言った。
「糸が一回。石が一回。それと、火を掴んだのが一回」
律は、手桶の中の小石を見た。
「三回か」
「三回だ」
「手は、冷やしておけ。紗夜に報告するとき、その手も見せることになる」
シカネは、手拭いを巻いた右手を、手桶の水に浸けた。小石の横で、手拭いがゆっくり水を吸った。




