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今夜は雇い主が違う

弥吉は、吟味の座敷で全部話した。


茶店で団子を食べたこと。文箱を縁台に置いたまま、厠を借りたこと。隣に行商の男が座っていたこと。戻ったとき、文箱の紐も封紙も、置いたときのままに見えたこと。


話し終えると、弥吉は畳に手をついたまま、顔を上げなかった。


吟味役は、シカネが出した濡れた書状を、佐伯に渡した。佐伯は奉行所に呼ばれて、座敷の端に座っていた。


佐伯はまず上書きの日付を見た。それから封を切った。中の紙は濡れて波打っていたが、字は読めた。


「検見の日取りの届けです。陣屋から郡方へ、毎年この時期に出すものです」


佐伯は、紙の末尾の印を、吟味役のほうへ向けた。


「岡部さまの印です。右下の角が、欠けています」


吟味役は、もう一通の書状を横に並べた。柿原村の名主を牢に入れよと書かれた、命令書のほうだった。同じ印が押してあったが、右下の角は欠けていなかった。


書役が、身を乗り出して見比べた。


「すり替えは、北の道の茶店。縁台の、行商の男だな」


吟味役は、二通を重ねて脇へ置いた。


「その男を捜させる。だが、御用の文箱を縁台に置いて離れたのは、問屋の落ち度だ。陣屋も、この先の御用は別の問屋に頼むと言ってきている」


弥吉の肩が、小さく動いた。


吟味役は、それからシカネを見た。


「本物が、こうも都合よく出てくるのも妙なものだ。堀の底から、蜘蛛が拾っていたと。見つけたのが、陰陽方が危ういと書いた半妖だというのもな」


「俺は」


「わかっている。今は、そう言っているだけだ」


吟味役は、受取帳を閉じた。


◇


閉めたままの問屋の帳場で、清兵衛はそろばんを弾いていた。


弥吉は奉行所から長屋へ帰った。宗八が、土間の上がり口に座っていた。シカネが入っていくと、清兵衛はそろばんの手を止めて、帳面を閉じた。


「シカネ、ちょっとそこへ」


シカネは帳場の前に座った。


「先に言っておく。まだ決めたわけじゃない。決める前に、お前に言っておこうと思った」


清兵衛は、閉じた帳面の上に両手を置いた。


「お前を、うちの者でないことにしようと思う」


宗八が、上がり口で顔を上げた。


「奉行所の与力に、昔から知っている人がいる。お前はうちの抱えではなく、ときどき頼んでいた日雇いだった、と届けを出せば、戸を開けるのが早くなるだろうと言われた。奉行所が気にしているのは、北の便の落ち度と、それから、お前だ」


「俺か」


「危うきこと第一、と陰陽方が書いた者を使っている店。そう覚えておけと言われただろう」


清兵衛は、帳面から手を離さなかった。


「陣屋の御用は、もう戻らない。ほかの得意先も、戸が閉まっているあいだに、よその問屋へ移りはじめている。このままひと月閉まっていたら、うちは弥吉にも、下働きの子らにも給金を払えなくなる」


清兵衛は、シカネを見た。


「お前一人の信用じゃないんだよ」


シカネは、帳場の板の目を見ていた。


「店が開くなら、そうすりゃいい」


「待て」


宗八が、上がり口から立ち上がった。


「俺の弟子を、いなかったことにするのか。こいつが荷を開けたことは一度もねえ。陰陽方の帳面にもそう書いてあったんだろうが」


「宗八さん」


清兵衛は、穏やかな声で言った。


「書いてあったことと、奉行所が気にしていることは、別なんです」


清兵衛は、また帳面を開いた。


「戸を閉めて、今日で五日。うちの一日の掛かりが、だいたい一分と二百文」


清兵衛は、それきり数字の話を続けた。宗八は、何か言いかけて、また上がり口に座った。


◇


日暮れ前に、裏口の戸が叩かれた。


開けると、くぐらが重箱を抱えて立っていた。


「表が閉まっておる。何があった」


シカネは、短く話した。届けた書状が偽物だったこと。問屋が疑われていること。自分も疑われていること。


くぐらの目が、細くなった。


「誰が、おぬしを疑っておる。奉行所の誰だ。その者のところへ行く」


「行くな」


くぐらは、シカネを見た。


「……嫌なのか」


「嫌だ。あんたが行ったら、もっと面倒になる。危ういって書かれてんのは、俺だけじゃねえんだ」


くぐらは、しばらく黙っていた。それから、重箱を土間の板の上に置いて、蓋を開けた。握り飯と、煮しめが詰まっていた。


「では、食え。そこの主人も、そこの師匠もだ」


清兵衛と宗八は、顔を見合わせた。くぐらは、二人の前にも握り飯を並べた。


シカネは握り飯を一つ取って、言った。


「律が、あんたのことを毎月書いてるのは、知ってたか」


「知っておる」


くぐらは、煮しめを箸で取り分けながら言った。


「書かせておけ。書くことで、あの陰陽師が私を封じずに済むのなら、安いものだ」


シカネは、握り飯を噛んだ。いつもより塩が強かった。


◇


その晩、シカネは施療所の紗夜の部屋へ糸玉を持っていった。


紗夜は糸玉を指でつまんで、ねばつきを確かめ、拡大鏡で巻き目を見た。


「蜘蛛の糸。しかも水の上に張る糸。いいね、これ」


「船着き場で一回使った。一歩立てて、二歩目で沈んだ」


紗夜は帳面に書いた。「堀、船着き場、一回、一歩」。


「二段目の札、書いてあげる。明日の夕方まで待って」


紗夜は、糸玉に細い糸を結んで、戸棚の暗い隅に吊るした。


「暗いところに一晩、だったよね。ここなら真っ暗だから」


◇


長屋に戻ると、戸の前に男が一人しゃがんでいた。


行商の荷を脇に置いて、塩をまぶした干し魚をかじっていた。シカネが近づくと、男は立ち上がった。右の犬歯が、少し見えた。


「朔」


「覚えてたか」


シカネは、足を止めて拳を握った。朔は両手を軽く上げた。


「夏は止めに来たじゃねえか」


「今夜は、雇い主が違う」


朔は、路地の両端を一度ずつ見てから言った。


「お前らの店は、夏に役所を飛び越えて商人に書状を届けた。おかげで、役所の中で面目をつぶされた者が何人もいる。役所には、あの店をかばう者がいない。罪を着せるのに、ちょうどいい店だったわけだ」


「誰が着せた」


「茶店の縁台にいた行商は、十蔵という。関屋という家に使われている忍びだ。家の名は、聞いても今は役に立たない」


朔は、干し魚の残りを懐にしまった。


「偽の命令書を作るのに使った木の印と、印を写した古い書状が、堀端の松葉屋という紙屋の蔵にある。本物の書状が出てきたから、十蔵は明日の夜、蔵ごと燃やすつもりだ」


「なんで、お前が知ってる」


「知るのが仕事だ」


「なら、自分で取ってこいよ」


朔は、首を振った。


「忍びが持ち出した物は、証にならない。盗んだ物だと言われて終わりだ。役人の目の前で、蔵の中から出てこなきゃ意味がない」


「お前の雇い主は、誰なんだ」


「関屋の家が困ると、喜ぶ人だ」


朔は、行商の荷を背負った。


「お前は届ける。届けたものには、受取が残る。だから、お前に言いに来た」


朔は、路地の出口のほうを一度確かめてから、反対側の暗がりへ歩いていった。


シカネは草鞋の紐を締め直して、役宅のほうへ走った。

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