橋の下の糸
北の街道は、城下に入る手前で堀を渡る。
堀の両岸には蔵が並び、橋のたもとに小さな船着き場があった。荷舟が二、三艘つながれていて、岸の上に茶店が一軒出ている。北から来る者は、たいていここで一服してから城下へ入る。
シカネと律は、朝のうちにそこへ着いた。律は約束どおりついてきた。昨日の袴ではなく、旅用の小袖と短い上着だった。
茶店の縁台に、ミズナが座っていた。
湯呑みを両手で持って、堀の舟を眺めていた。シカネに気づくと、片手を上げた。
「あれ。今日は団子の日じゃないよね」
「仕事だ。お前、こんなとこで何してる」
「お茶。ここ、舟が見えるから好きなんだ」
ミズナは律を見て、軽く頭を下げた。律も頭を下げた。二人とも、それ以上は何も言わなかった。
◇
茶店をやっているのは、腰の曲がった婆さんだった。シカネが北の便の飛脚のことを聞くと、婆さんは前掛けで手を拭きながら考えた。
「七日前ねえ。若い飛脚さんなら、来たよ。黄土色の着物の、よくしゃべる子だろ。団子を二本食べてった。峠を一度も止まらずに下りたって、自慢してたね」
「文箱は、どうしてた」
「さあ。背負ったまま食べてたか、下ろしてたか。そこまでは見てないよ。こっちも忙しかったから」
婆さんは、縁台の端を指さした。
「そうそう、あの日は、その端に行商の人が座ってた。背中に箱を背負った、薬売りみたいな人。飛脚さんのすぐ隣だよ。お茶だけ飲んで、先に出てった」
律が、婆さんのほうへ一歩出た。
「その人の顔は」
「覚えてないねえ。目立たない顔だったよ」
婆さんは、急須に湯を足しながら言った。
「何か落としたのかい。落とし物なら、お糸さんに聞いてみな。この堀に落ちた物は、たいていお糸さんが拾ってるから」
「お糸さん」
「橋の下にいるんだよ。うちは毎朝、飯を少し置いてやってる。お糸さんが拾った物を、うちが持ち主に返して、少しお礼をもらう。そういう決まりでね」
婆さんは、船着き場の下のほうを顎で指した。
◇
船着き場の床板の下は、杭が何本も水に立っていた。その杭と杭のあいだに、白い糸が何重にも張ってあった。朝の光が当たって、糸についた水の粒が光っている。
律が札を一枚出して、杭のほうへ向けた。札の端が、かすかに揺れた。
「いる。小さい。悪いものではない」
ミズナが縁台から立ってきて、床板の端にしゃがんだ。
「お糸さん。お客さんだよ」
杭の陰から、手のひらほどの蜘蛛が這い出してきた。黒い体に、黄色い筋が入っている。蜘蛛は網の真ん中まで来ると、止まった。
「誰だい。朝の飯はもうもらったよ」
細い、年寄りの女のような声だった。
シカネは床板に膝をついた。
「七日前に、この堀に書状が落ちなかったか。紙の、封のしてあるやつだ」
「落ちたよ」
お糸さんは、すぐに答えた。
「落ちたというより、投げこまれた。昼前に、橋の上から。網の奥のほうにかかってる」
網の奥に、いろいろな物が引っかかっていた。櫛、草鞋の片方、煙管、小さな巾着。その中に、泥色に染まった細長い紙の包みがあった。
「返してくれるか」
「いいけど、ただじゃいやだね」
お糸さんは、網の上で前足を一本上げて、杭の向こうを指した。
「あそこに、荷車の車輪が沈んでる。春に誰かが落としたんだ。水が動くたびに転がって、網を破る。張り直しても張り直しても、破られる。あれを上げておくれ」
◇
シカネは着物を脱いで、褌一つで堀に入った。
秋の水は冷たかった。腰まで浸かると、足の裏に泥がまとわりついた。杭のあいだを手探りで進むと、すねに硬い物が当たった。
車輪は半分ほど泥に埋まっていた。シカネは両手で輪を掴み、足を踏ん張って引いた。泥が吸いつくように車輪を離さなかった。二度目に腰を落として引くと、泥の中で何かが外れる音がして、車輪が持ち上がった。
濁った水が、一度にあたりへ広がった。お糸さんが、網の上で足を縮めた。
シカネは車輪を抱えて岸まで歩き、石垣の上へ押し上げた。律がそれを引っぱって、通りの端に転がした。
岸に上がると、ミズナが自分の手拭いを放ってよこした。
「また貸しだね」
シカネは体を拭いた。歯が鳴りそうになるのをこらえた。
お糸さんは、網の奥から紙の包みを糸でたぐり寄せて、床板の端まで運んできた。
「ほら。約束だよ」
シカネは包みを受け取った。濡れて、端が少し崩れていた。上書きの墨はにじんでいたが、「郡方 佐伯直之殿」と読めた。裏の封じ目には陣屋の印が押してあり、封は切られていなかった。
律が、横から覗きこんだ。
「開けるか」
「開けねえ。佐伯って人あてだ」
シカネは包みを油紙でくるんで、自分の文箱に入れた。
◇
お糸さんは、まだ床板の端にいた。
「車輪が上がったから、これで十日は網を張り直さなくてすむ。礼をしてやろう」
お糸さんは、網の隅から何かを転がしてきた。栗ほどの大きさの、白い糸を固く巻いた玉だった。
「あたしの糸だよ。水の上に張る糸だ。踏めば、少しのあいだは沈まない」
シカネは糸玉を拾った。指に吸いつくように、少しねばついた。
「あんた、掴む人だろう。さっき、あっちの若いのが言ってた」
お糸さんは、ミズナのほうを見た。ミズナは、いつのまにか縁台に戻って、知らん顔で湯呑みを持っていた。
「使ったら、細くなる。暗いところに一晩吊るしておけば、戻るよ。網と同じさ」
シカネは、船着き場の端に立った。糸玉を右手で握り、中の力を掴もうとした。
掌から、ねばつくような重さが入ってきた。腕を下って、腰を通り、ふくらはぎまで降りてきた。ふくらはぎが、濡れた布を巻いたように重い。
シカネは右足を水の上へ踏み出し、足の裏から重さを吐き出した。
足の下の水面に、白い糸がぱっと広がった。筵一枚ほどの大きさだった。足を乗せると、糸は少したわんで、それでも沈まなかった。
シカネは、もう一歩踏み出した。
二歩目で、糸が水に沈んだ。シカネは片足を堀に突っこみ、床板に手をついて、ようやく体を支えた。
ミズナが、声を立てて笑った。
「一歩だけだね」
手の中の糸玉は、少し細くなっていた。
◇
茶店に戻って、シカネは濡れた片足を拭いた。婆さんが、何も言わずに茶を出してくれた。
「弥吉は、一度も目を離してねえって言ってた。二度言った」
シカネが言うと、ミズナは湯呑みを置いた。
「二度言ったなら、一度は離したんだよ」
「なんでわかる」
「一度で済むことは、一度しか言わないでしょ」
ミズナは、縁台の端を見た。行商の男が座っていたという場所だった。
「怒らないであげなよ。その子、何を守りたいかははっきりしてる。離したって言ったら、仕事がなくなるんでしょ」
律は、黙って茶を飲んでいた。腰の記録筒には、手をやらなかった。
ミズナが律を見た。
「今日は書かないの」
「あとで書く」
律は湯呑みを置いて答えた。ミズナは、少し笑った。
◇
夕方、シカネは弥吉の長屋の戸を叩いた。
戸が開くと、シカネは文箱から油紙の包みを出して、中の書状を見せた。濡れて崩れかけた上書きと、切られていない陣屋の封。
「堀の船着き場の下にあった。七日前に、橋の上から投げこまれたそうだ」
弥吉は書状を見て、それから土間に目を落とした。しばらく、何も言わなかった。
「団子、食ったんだ」
弥吉が言った。
「峠を止まらずに下りたから、腹が減って。食い終わって、厠を借りた。文箱は縁台に置いてった。ほんの少しのあいだだ。隣に、行商のおやじが座ってた」
「なんで言わなかった」
「言ったら、北の便を外される。あれは問屋でいちばんいい便なんだ。俺がやっと任されたんだ」
弥吉は、戸の柱に額をつけた。
「外されたら、俺は何の飛脚だよ」
シカネは書状を油紙に包み直した。
「明日、奉行所で言え」
弥吉は額をつけたまま、うなずいた。それから顔を上げて、言った。
「……お前も、来てくれよ」




