従順
朝、シカネが長屋の戸を開けると、律が路地に立っていた。
律は毎朝のように長屋の前を通る。梅雨のあとから、走るついでに寄るようになった。今朝は息も上がっておらず、髪もきちんと結い直してあった。旅用ではない、役宅に出るときの袴を着けていた。
「奉行所から景綱さまに、君の見立てを出せと言ってきた。私が持っていく」
律は、腰の記録筒に手を置いた。
「君も、今日もう一度呼ばれるはずだ」
「何が書いてある」
律は、少しのあいだ黙った。
「私が見て、書いたことだ」
「先に見せろよ」
「見せられない。奉行所に出すものを、出す前に本人に見せてはいけない決まりだ」
律は、記録筒から手を離した。
「先に言っておく。君が聞いて、いい気分のすることばかりは書いていない」
それだけ言って、律は先に歩き出した。シカネは、食べかけの握り飯を口に押しこんで、戸を閉めた。
◇
吟味の座敷は、昨日と同じだった。吟味役と書役がいて、その脇に、今日は律が座っていた。
シカネの隣には、清兵衛がいた。問屋の主人として、今日は一緒に呼ばれていた。清兵衛は、膝の前に風呂敷包みを置いていた。中身は問屋の古い受取帳で、北の便の何年分かが入っているという。陣屋の御用を一度もしくじったことがない、と見せるために持ってきたのだった。
吟味役は、その風呂敷には目をやらなかった。
吟味役は、律から受け取った綴りをめくった。白い紙が厚く重なり、一枚ごとに日付が書いてある。
「陰陽方の見立ては、去年の冬から毎月出ているそうだな」
「はい」
律が答えた。
「その中から、この者の人となりにかかわるところを、読ませてもらう」
吟味役は綴りに目を落として、読み上げ始めた。
「預かりし荷を開きたること、一度もなし。駄賃の多寡にて仕事を選ばず」
吟味役は、何枚か飛ばしてめくった。
「食は人の倍。好むものは団子。住まいは裏長屋、夜は早く休む。……これはよい」
書役の筆が動いた。シカネは膝の上に手を置いたまま、吟味役の口元を見ていた。
「怒りを面に出すこと少なし。母の申すことには、まず逆らわず。従順にして、扱いやすし」
シカネは、律のほうを見た。律は前を向いていた。
「ただし、妖力の上限、測りがたし。危うきこと、これ第一」
吟味役は一枚めくった。
「夏、同道の者を魔と見抜けず。私の落ち度なり」
吟味役は、そこで綴りを閉じた。
「荷を開けぬ、というのは結構だ」
吟味役は、閉じた綴りの上に手を置いた。
「だが、従順で扱いやすい、ともある。言われれば、そのとおりにやる者だということだ。誰かに言われて、すり替えたのではないか」
「その、従順と書いたのは、母御の、くぐら殿の申し付けに対してのことです。他人の、それも金で頼まれたことに対して、という意味では、ありません。駄賃で仕事を選ばない、とも書いています。頼まれれば何でもする、という意味では」
「書いたのは、あなただろう」
律は口を閉じた。それから言った。
「書いたのは、私です」
吟味役は、しばらく律を見ていた。それから、受取帳を引き寄せた。
「この者が運んだのは、問屋から郡方までの四半刻。封は佐伯殿の前で切られている。陰陽方の見立ても、この者は荷を開けぬとある」
吟味役は、受取帳の北の便の頁を指で押さえた。
「疑いは、北の道のほうが濃い。下がってよい。だが、城下からは出るな」
吟味役は、清兵衛のほうを向いた。
「問屋の戸は、まだ開けられぬ。陣屋から問屋までのあいだに何があったか、わかるまではな。それと、主人」
「はい」
「危うきこと第一、と陰陽方が書く者を、店で使っているということは、覚えておけ」
清兵衛は、手をついて頭を下げた。風呂敷包みは、膝の前に置いたままだった。
奉行所の門を出ると、清兵衛は「先に戻るよ」と言った。それから、風呂敷包みを抱え直して、シカネの顔を少し長く見た。何か言うかと思ったが、清兵衛はそのまま問屋のほうへ歩いていった。
◇
奉行所を出て、二人は堀端を歩いた。
律が半歩うしろを歩いていた。いつもと同じ間合いだった。シカネは、堀の水を見ながら歩いた。
「一年、ああやって書いてたのか」
「毎月、景綱さまに出している」
「扱いやすいって何だ」
律は、すぐには答えなかった。
「書いたとき、そう見えた。母御に飯を食えと言われれば食う。帰れと言われれば帰る。明日はいつ帰ると聞かれて、答える」
「それで、扱いやすいか」
「上に出す言葉だ。上が知りたいのは、君が暴れたときに止められるかどうかだ」
律は、足を止めずに続けた。
「危ういとだけ書けば、上は封じる支度を急ぐ。君のことも、母御のことも。扱いやすいと書いておけば、急がなくていいと思う。だから、あの言葉を選んだ。守るためでもあった」
「あいつのことも、書いてるのか」
「母御のことか。書いている。君のことより、ずっと多い」
「あいつは、知ってるのか」
「書いていることは、知っているはずだ。何を書いているかは、知らないと思う。聞かれたことがない」
シカネは足を止めた。律も止まった。
「でも、ってのは何だ」
律は、シカネを見た。
「私の仕事でもある。見たとおりに書かなければ、私が外される」
堀を、荷を積んだ舟がゆっくり通っていった。船頭が竿を突く音がした。
「さっきも、あれで助かった。荷を開けねえって書いてあったから、俺は下がっていいって言われた。それはわかる」
シカネは言った。
「けど、嫌だ」
律は、少しのあいだ何も言わなかった。
「どこが」
「茶屋で団子を食ってたときも、書いてたんだろ」
「書いた。ミズナが三本食べた日だ。君は四本」
「それを、俺の知らねえやつが読む。今日みたいに、声に出して」
律は、記録筒のほうへ手をやりかけて、止めた。
「わかる」
「次のも、書くのか」
「書く。書かなければ、別の者が来る。その者は、君のことを知らない」
シカネは、また歩き出した。律も歩き出した。半歩うしろの間合いは、変わらなかった。
辻まで来たところで、律が言った。
「明日、北の道を見に行くなら、私も行く」
「弥吉の道か」
「吟味役は、もうそちらを見ている。誰かが先に見ておかないと、あの人が一人で疑われることになる」
シカネは、すぐには返事をしなかった。辻の向こうから来た振り売りが、二人の間を通り抜けていった。
「勝手にしろ」
律はうなずいて、役宅のほうへ曲がった。
曲がった先で、律は一度立ち止まった。腰の記録筒に手をやって、蓋に触れた。それから、何も出さずに手を戻して、歩いていった。




