戸を閉めた問屋
町奉行所の控えの間は、板の間に薄い茣蓙が敷いてあるだけだった。
シカネと弥吉は、壁際に並んで座っていた。呼ばれるのを待って、もう半刻ほどになる。障子の向こうを、ときどき小者が行き来した。
「俺、一度も目を離してないからな」
弥吉が、前を向いたまま言った。
「文箱から。陣屋で受け取ってから、問屋の土間に下ろすまで。一度もだ」
「聞いてねえよ」
「聞かれたら、そう言うって話だ」
弥吉は膝の上で手を組み、ほどいて、また組んだ。
しばらくして、弥吉はもう一度言った。
「一度も、離してない」
シカネは返事をしなかった。弥吉の声が、いつもより少し高かった。
◇
先に呼ばれたのは弥吉だった。戻ってきた弥吉は、シカネの顔を見ずに控えの間の隅に座った。
次にシカネが呼ばれた。
吟味の座敷には、四十くらいの吟味役が座っていた。脇に書役が一人いて、筆を構えている。吟味役の前には、問屋の受取帳と、一通の書状が置いてあった。書状の封は切られていた。
「お前が、これを郡方へ運んだのだな」
「はい」
「問屋を出てから、郡方に着くまで、どこを通った」
シカネは、通った道を順に言った。問屋の前の通りを南へ、堀端を東へ、郡方の役所の門まで。四半刻もかからない道だった。
「途中で止まったか」
「止まってません。文箱は背中から下ろしてません」
「誰かと話したか」
「郡方の門番に、名前を言っただけです」
吟味役は、封の切られた書状を手に取って、封じ目のところをシカネに見せた。
「佐伯殿に渡したとき、この封は無事だったか」
「無事でした。佐伯さまが、俺の前で切りました」
書役の筆が、紙の上を走った。吟味役は受取帳をめくって、シカネの名が書かれた頁を見た。それから顔を上げた。
「お前、半妖だそうだな」
シカネは吟味役の顔を見た。
「去年の秋の騒ぎのことは、こちらにも聞こえている。母親は竜で、陰陽方の見張りがついていると」
「そうです」
「では聞くが」
吟味役は、封の切られた書状を指で叩いた。
「人でない者なら、封に触れずに中身を替えるような術を使えるのではないか」
「使えません」
「なぜ言い切れる」
「俺は、掴まないと何も取れません。掴んだものも、すぐ出しちまう。紙の中身を替えるようなことは、できません」
吟味役は、しばらくシカネを見ていた。それから書役に何か言った。書役が一行書き足した。
「お前の言い分だけでは決められぬ。陰陽方に、お前の見立てを出させる。それを見てから、もう一度呼ぶ」
吟味役はそう言って、書状を脇へ寄せた。
◇
奉行所の門を出ると、宗八が立っていた。
古い荷縄を肩にかけて、門の脇の塀にもたれていた。シカネを見ると、塀から背を離した。膝を伸ばす前に、一度だけ間を置いた。
「何しに来たんだ」
「吟味役に言いに来た。あいつは荷を開けない。俺が仕込んだってな」
「言えたのか」
「門番に言った。吟味役には取り次がれなかった」
宗八はシカネの背中の空の文箱を見て、紐の結び目に手を伸ばした。結び直しながら言った。
「お前が開けてねえのは、俺が知ってる。だが、知ってるのが俺だけじゃ足りねえ。役所が欲しいのは、紙に書いたものだ」
宗八は結び目を引いて確かめると、手を離した。
「弥吉は」
「先に出た」
宗八は、通りの先を見た。弥吉の姿はもうなかった。
◇
その日の夕方、問屋の裏口の戸を叩く者がいた。
シカネが戸を開けると、佐伯が立っていた。役所で会ったときの裃ではなく、地味な着流しで、腰には脇差だけを差していた。
「郡方の佐伯だ。少し話がしたい」
佐伯は裏口の土間に入ると、戸を閉めた。
「役を外された。沙汰が出るまで、役所に出るなと言われている。だから、これは役目で来たのではない」
佐伯は、土間に立ったまま、シカネを見た。
「あの書状は、確かに私が受け取った。だからこそ、誰が書いたか確かめたい」
シカネは上がり口を空けた。佐伯は少し迷ってから、そこに腰を下ろした。
「岡部さまの印は、角が一つ欠けている。今年の梅雨の大水の折に、役所の棚が倒れて、床に落ちた。そのとき欠けた。判鑑も、そのあとで出し直した」
「判鑑」
「印の見本を押した帳面だ。届いた書状の印を、それと合わせて確かめる」
佐伯は続けた。
「あの命令書の印には、欠けがなかった。陣屋から知らせが来たあとで、判鑑と並べて見て、気がついた」
「受け取ったときは」
「合わせなかった。急ぎとあったからだ。見慣れた印だと思った」
佐伯はそう言って、少し黙った。
「私の落ち度だ」
奥から、清兵衛が出てきた。佐伯を見て膝をつこうとしたのを、佐伯が手で止めた。
「封紙は、無事だったそうだな」
「はい。私が切りました」
「封紙は、上手な者なら貼り直せる。だから、この店の前ですり替わったのか、後ですり替わったのか、まだ決まらない」
佐伯は立ち上がった。
「書状が偽物なのは、もう奉行所も認めている。だが、誰がやったかがわからなければ、運んだ者が疑われたままだ」
戸に手をかけて、佐伯はもう一つ言った。
「伝右衛門は、まだ牢にいる。出すには手続きがいる。籾は、もう払い下げた。命令書に、即刻売って未進の分に当てよとあった。米問屋に渡って、三日前に船で出ている」
佐伯は、戸を開けて出ていった。
清兵衛は、閉まった戸を見ていた。それから帳場に戻って、灯りを点けた。
◇
弥吉の長屋は、問屋から路地を二つ曲がったところにあった。
戸の隙間から灯りが漏れていた。シカネが名を呼ぶと、灯りが一度揺れて、しばらくしてから戸が細く開いた。
「何だよ」
「佐伯って役人が来た。書状は偽物だって、奉行所も認めたそうだ」
「なら、いいじゃねえか」
「誰がすり替えたかは、まだわからねえ。封紙は、うまいやつなら貼り直せるって」
弥吉は、戸の隙間からシカネを見上げた。
「お前さあ、俺を疑ってんのか」
「疑ってねえ。北の道で、何かなかったか聞きに来た」
「なかった。言っただろ、一度も目を離してないって」
弥吉は戸に手をかけたまま、目を横へそらした。
「お前は、いいよな。お前が運んだのは、問屋から郡方までの四半刻だ。俺は峠を越えて、まる一日だ。どこで何があったって言われたら、俺のほうが分が悪い」
「だから、聞いてる」
「だから、なかったって言ってる」
弥吉は戸を閉めかけて、途中で止めた。
「明日も呼ばれるんだろ、お前。陰陽方の見立てってやつで」
「たぶんな」
「半妖の見立てなんて、何が書いてあるんだろうな」
弥吉はそう言って、戸を閉めた。灯りが消えて、それきり中から音はしなかった。




