え、嫌だけど
小石の斑は、翌朝には元の色に戻っていた。
紗夜はそれを見て、帳面に「一晩で戻る」と書き、その横に小さく「たぶん毎回」と書き足した。小石は今、シカネの右の腰の印籠の、一段目に入っている。
約束の日の朝、シカネが長屋の戸を開けると、くぐらが立っていた。
くぐらは藍の、少しよそ行きの着物を着て、髪をきちんと結っていた。今日は、竹の皮の包みを持っていなかった。
「ついていくと言うた」
「昼すぎだぞ」
「知っておる」
シカネは土間の隅から、笠を一つ取った。梅雨の初めに、お澄に借りたままになっていた笠だった。
「それは」
「茶屋の笠。返す」
二人が長屋の路地を出たところで、紗夜が向こうから歩いてきた。手に帳面を持っている。
「あ、いた。小石、どう? 使った?」
「使ってねえ。これから茶屋へ行く」
「茶屋?」
「北の街道の茶屋で、ミズナに団子をおごる」
紗夜の目が開いた。
「ミズナって、律さんが言ってた、魔の人?」
「律が言ったのか」
「言わなかったけど、景綱さまのところで、帳面の端が見えた」
紗夜は帳面を閉じた。
「私も行く」
くぐらが、紗夜を見下ろした。紗夜は、くぐらを見上げた。くぐらは何も言わずに、歩き出した。
◇
北の街道を一里歩いた。
くぐらはシカネの右に、紗夜は左に並んだ。少し後ろを、律が歩いていた。律は、ついてくるとも言わず、帰れと言われても帰らない顔をしていた。
茶屋の暖簾が見えると、お澄が店先に出てきた。シカネが笠を差し出すと、お澄は受け取って、表と裏を返して見た。
「梅雨に貸したのを、真夏に返しに来るんだね」
「遅くなった」
「破れてないから、いいよ」
お澄は笠を軒に掛けてから、シカネの後ろの三人を見た。くぐらと、紗夜と、少し離れて立っている律。
「今日は、何本焼けばいいんだい」
「もう一人来る。そいつの分は俺が払う」
◇
ミズナは、昼すぎにやって来た。
街道の西のほうから、ぶらぶらと歩いてきた。茶屋の縁台にシカネとくぐらが並んでいるのを見て、片手を上げた。
「言っといてくれたんだ」
「言った」
ミズナは縁台の端に座ろうとした。くぐらが、すっと立ち上がって、シカネとミズナの間に座り直した。
ミズナは笑った。
「こんにちは。この前は、門の外から失礼しました」
「うむ」
くぐらは、それだけ言った。
お澄が団子を運んできた。焦げ目のついた団子に、甘辛いたれがたっぷりかかっている。ミズナは一本取って、一口食べた。
「甘辛いの、いいね。城下のより、ずっといい」
「だろ」
シカネは一本目を食べ終えて、二本目を取った。今日は座っているから、三本になる。
くぐらは一本だけ取って、少しずつ食べていた。ときどき、ミズナの手元に目をやった。ミズナは二本目を取った。
くぐらが団子の串を置いて、ミズナに言った。
「おぬし、東の山裾におったそうだな」
「瓜をもらいにね」
「我が子に、手拭いを貸したと聞いた」
ミズナは、ちらりとシカネを見た。
「貸したけど、返してもらってない」
シカネは懐から、畳んだ手拭いを出した。洗って、乾かしてあった。
「返す」
ミズナは手拭いを受け取って、広げて、また畳んだ。
「笠も返して、手拭いも返して。今日は返す日なんだね」
「団子もおごる」
「それは返すんじゃなくて、約束でしょ」
くぐらは、二人のやりとりを黙って聞いていた。
食べ終わる頃、くぐらが懐から財布を出した。シカネはその手を押さえた。
「俺がおごるって言ったんだ」
くぐらは、シカネの顔を見た。それから、財布を懐に戻した。
◇
紗夜は、縁台の反対の端から、ずっとミズナを見ていた。団子にはほとんど手をつけていなかった。
「ねえ、触ってもいい?」
「だめ」
ミズナは団子をくわえたまま答えた。
「手首だけでも」
「だめ」
「じゃあ、どこから来たの」
「今日は団子の日だから、その話はなし」
紗夜は残念そうに帳面を開き、何か書いた。律が少し離れた縁台で、同じように帳面を開いていた。ミズナは二人の帳面を見比べて、また笑った。
「僕、書かれてばっかりだね」
ミズナは律のほうへ、少し声を大きくした。
「今日は、なんて書くの」
律は筆を止めずに答えた。
「見たとおりに。団子を三本食べた」
「瓜のときより、増えた」
律は、それには答えなかった。代わりに、帳面から顔を上げて、シカネに言った。
「宗玄殿から、景綱さまに文が届いた。番水は回っている。社にお参りに来る人は減ったが、線香の番には、毎日両方の村から誰かが来るそうだ」
「浅瀬さまは」
「毎日、鐘が鳴るたびに、水を分けている。文には、そう書いてあった」
シカネは腰の印籠を外して、一段目の蓋を開けた。手のひらに転がすと、小豆ほどの小石が、梅の実ほどの大きさに戻った。
「浅瀬でもらった」
ミズナは顔を近づけて、小石の斑を見た。それから印籠を見た。蓋の裏の札を見て、また小石を見た。
「入れると小さくなるの?」
「なる。出すと戻る」
「それ、いいね」
ミズナは紗夜のほうを向いた。
「僕にも作ってよ」
「え、嫌だけど」
紗夜は帳面から顔も上げずに答えた。
ミズナは目を丸くした。
「即答だ」
「これはシカネの腰と手に合わせて作ったの。君のは測ってないし、測らせてくれないでしょ。さっき、手首もだめって言った」
「そうだった」
ミズナは声を立てて笑った。
くぐらが、シカネの手の中の印籠を見た。
「それは、私の子のために作ったものであろう」
「作ったのは私だけど」
紗夜が言った。くぐらは紗夜を見た。紗夜は帳面を閉じて、くぐらを見返した。お澄が、二人の間に黙って茶を置いた。
◇
そのとき、急に日が陰った。
見上げると、西の山の上から、黒い雲が張り出してきていた。風が一度、街道の土埃を巻き上げた。大粒の雨が、縁台の上に一つ、二つと落ちてきた。
すぐに、本降りになった。
皆が団子の皿を持って、軒下へ駆けこんだ。少し離れた縁台にいた律も、帳面を懐にしまって、軒下へ入ってきた。軒下は狭く、五人で肩が触れ合った。
雨は街道を白く叩いていた。乾いていた土の匂いが、一度に立ち上がった。
紗夜が、くぐらを見た。律も、くぐらを見た。ミズナも、シカネも、くぐらを見た。
くぐらは、軒から落ちる雨を見ていた。皆の目に気づくと、眉を寄せた。
「私ではない」
ミズナが吹き出した。
お澄が、奥から盆を持って出てきた。
「雨宿りなら、もう一本ずつ頼んでおくれ」
シカネは、空になった皿を見た。
「四本」




