右の腰
郡方の役所で、シカネは証文を納めた。
受け取った役人は、証文の印を一つずつ確かめてから、受取に判を押した。上郷の名主の印、下郷の名主の印、浅瀬の社の宮守の印。検分役の添え書きもついていた。
「話がついたのか。あの二つの村が」
役人は、少し意外そうに言った。シカネは「線香で分けることになった」とだけ答えた。
問屋に戻って受取を納めると、清兵衛は帳面に日数を書きつけて、駄賃を数えた。五日分だった。
「待つ便のわりに、よく動いたようだな」
清兵衛は、シカネの手の甲の擦り傷を見て言った。杭を蹴ったときに、どこかで擦ったらしい。
「瀬で、杭を折った」
「杭を」
「二十二本」
清兵衛は少し考えてから、駄賃の包みにもう一枚、銭を足した。
「草鞋代だ」
◇
日暮れに、くぐらの屋敷へ行った。
くぐらは門の前に立っていた。シカネの顔を見ると、何も言わずに両手を取った。右の手を返し、左の手を返し、指を一本ずつ曲げさせた。
「三日目の夜、何があった」
シカネは、手を取られたまま、くぐらを見た。
「なんで知ってる」
くぐらは、シカネの帯の左前の布袋に目をやった。
「日が落ちて、しばらくした頃だ。何かあったのは、わかった。何かは、わからぬ。だから聞いておる」
シカネは、瀬で水の筋を掴んだことを話した。右で三つ、左で一つ。左は足から出した。
くぐらは、黙って聞いていた。聞き終えると、シカネの左手をもう一度取って、指先を自分の手で包んだ。
「来るかと思った」
シカネが言うと、くぐらは首を振った。
「行こうとはした。門まで出た」
くぐらは、シカネの指を包んだまま言った。
「五日と言うたのは、私だ。だから、待った」
◇
土間には、芋の煮つけと、冷やした瓜と、握り飯が並んでいた。屋敷の井戸の水で冷やした瓜は、よく冷えていた。
シカネは、東の山裾の田の話をした。割れた田と、桶で撒いた水がすぐ乾くこと。千把焚きの火と、雨が降らなかったこと。
くぐらは、瓜を切りながら聞いていた。
「あんたなら、降らせられたか」
シカネが聞くと、くぐらは包丁を止めた。
「降らせられる。力が半分になった今でもな」
くぐらは、また瓜を切り始めた。
「だが、降らせれば、下の村の堤が切れる。それに、一度降らせてもらった土地は、次も私を呼ぶ。呼ばれれば、私はまた降らせる」
くぐらは、切った瓜をシカネの前に置いた。
「昔は、そうしていた」
くぐらは、それ以上言わなかった。シカネも、聞かなかった。瓜を一切れ取って食べた。
「それと、五日後に、ミズナと団子を食う。お澄さんの茶屋で」
くぐらが顔を上げた。
「先に言えって言われてたから、言った」
「ついていく」
「言ったからな」
「聞いた」
くぐらは、シカネの皿に瓜をもう一切れ足した。
◇
翌日、施療所の紗夜の部屋に小石を持っていった。
紗夜は小石を手のひらに載せたとたん、黙った。拡大鏡で斑を一つずつ見て、袖で表を拭いて、また湿ってくるのを見ていた。
それから、水差しと盥を持ってきた。盥の真ん中に小石を置き、その上から水差しの水を細く落とした。
落ちた水の筋が、小石の上で二つに分かれた。左右にきれいに割れて、盥の両端へ流れていった。
「わあ」
紗夜はもう一度、水を落とした。また二つに分かれた。三度目は小石を少しずらして置いた。水はやはり、小石の真上で二つに分かれた。
紗夜は、鈴のついた糸を小石に巻いて弾いた。鈴は、右と左で違う音を立てた。紗夜はその音を帳面に書きつけた。
「二日ちょうだい。中の札を、この子に合わせて書く」
紗夜は帳面をめくりながら、思い出したように聞いた。
「それで、浅瀬の神さまは、どんなだった。律さんは、景綱さまに話したって言うだけで、何も教えてくれないの」
「小さかった。終わったあと、もっと小さくなった」
紗夜の筆が止まった。
「小さくなったの。力が減ったってこと? 頼まれなくなったから?」
「わからねえ」
シカネは、瀬で浅瀬さまが両手を離していたのを思い出した。
「けど、水は分けてた。こっちへこれだけ、あっちへこれだけって。それしかできねえって言ってた」
紗夜は、しばらく小石を見ていた。それから帳面に一行書いて、その上に線を引いて消し、もう一度同じことを書いた。
◇
二日後、紗夜は印籠を机の上に置いた。
三段のうち、一段目の内側にだけ、細かい字の札が貼りこんであった。二段目と三段目は、木地のままだった。
「入れてみて」
シカネは小石を、一段目の口に近づけた。小石は口の縁に触れたとたん、小さくなった。梅の実ほどあったのが、小豆ほどになって、一段目の底に転がった。
「出すときは、蓋を開けて、手のひらに転がして」
シカネが言われたとおりにすると、小豆ほどの小石は手のひらに落ちたとたん、元の大きさに戻った。斑も、湿り気も、そのままだった。
「中の札で縮めてるの。大きさだけね。性質は縮めてない。だから、出したら同じように使える」
紗夜は、一段目の蓋を指で叩いた。
「一段に一つ。中の札が、品の性質が漏れないように押さえてる。押さえておかないと、印籠の中で水が二つに割れ続ける。残りの二段は空。品ごとに札を書き直すから、新しいのをもらったら持ってきて」
「割れたら、どうなる」
「わかんない。割らないで」
紗夜は、水差しを持って立ち上がった。
「じゃあ、使ってみて。持ってるだけじゃ何も起きないよね。君は、掴まないと取り込めないんだから」
シカネは、水の筋を掴んだときと同じように、小石の中の力を取るつもりで握った。
掌から冷えが入ってきた。手首を越え、肘まで上ってきて、そこで止まった。瀬で掴んだときより、ずっと少なかった。
紗夜が、盥の上で水差しを傾けた。水が細く落ち始めた。
シカネは、落ちてくる水の筋の真ん中を、横から拳で打った。
拳の当たったところで、筋が二つに割れた。割れた水は左右に飛んで、紗夜が両脇に置いた二つの盥に、それぞれ落ちた。肘から先の冷えは、拳から出ていった。
手を開くと、小石の斑が薄くなっていた。
「一晩、浅い水に浸けといて。たぶん戻る。たぶん」
紗夜は帳面に書きながら言った。それから、欠けた皿に水を浅く張って、小石をその中に置いた。
「今夜はここに置いてく。朝、斑がどうなったか見せて。戻ってなかったら、それも書くから」
シカネは、皿の中の小石を見下ろした。水に浸かった斑は、少しだけ色が濃く見えた。
それから紗夜は、シカネの帯の右の腰、前に墨で印をつけたところに印籠の紐をかけ、固く結んだ。シカネが歩いてみると、印籠は腰に軽く当たって揺れた。帯の左前では、くぐらの布袋が揺れていた。
「あ、それと」
紗夜が、帳面から顔を上げた。
「試作品だから、使ったら全部報告して。いつ、どこで、何回」
「貸しか」
「これは別」




