線香一本ぶん
朝になると、右手の指は開いた。
まだ少しこわばっていたが、握って開いてを繰り返すうちに、いつもどおりに動くようになった。左手は、もう何ともなかった。シカネが井戸端で手を振っていると、律が来て、黙って両手の指を一本ずつ曲げさせた。
「開いたな」
「開いた」
律はそれだけ確かめて、社務所へ戻っていった。
昼前に、郡方の検分役が着いた。五十すぎの痩せた役人と、帳面を抱えた若い書役の二人だった。
検分役は社務所の座敷で、まず律の話を聞いた。昨夜の瀬のこと、杭のこと、浅瀬さまのこと。律は見たことを順に話し、見ていないことは言わなかった。検分役は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「なるほど。神さまのほうは、陰陽方に任せる」
検分役は、それから宗玄と、呼び寄せた二人の名主のほうを向いた。
「水のほうは、こちらの仕事だ。先に言っておく。村どうしで話がつくなら、それに越したことはない。つかなければ、役所が裁く。裁けば、どちらの村も得はせぬと思っておけ」
◇
ところが、源右衛門と与平は、同じ座敷に座ろうとしなかった。
源右衛門は上郷の者を連れて、瀬の上の岸に陣取った。与平は下郷の者を連れて、下の岸に陣取った。二つの岸の間は、瀬を挟んで百歩ほどある。
検分役は座敷の縁から、二つの岸を見比べた。それから、シカネを見た。
「飛脚だったな」
「はい」
「では、運べ。言われたことを、そのまま運べ。足すな、引くな」
シカネは、上の岸へ行った。
源右衛門は、腕を組んで待っていた。
「上郷の田は、あと五日水が来なければ枯れる。堰の水を全部くれとは言わん。昼のあいだだけ、堰の板を全部抜かせてくれ」
シカネは、それをそのまま下の岸へ運んだ。
与平は、聞き終えるとすぐに首を振った。
「昼のあいだ全部では、こっちの川がやせる。跳ね釣瓶が追いつかん。それに、堤は誰が直す。今のままで秋の長雨が来たら、また切れる」
シカネは、それをそのまま上の岸へ運んだ。「堤は誰が直す」というところも、与平の言い方のまま言った。
源右衛門は、眉を寄せた。
「下郷の堤など、わしらの知ったことでは……」
源右衛門は、そこで言葉を切った。下の岸のほうを見た。昨夜、上郷の若い者が下郷の男を水から引き上げていたあたりだった。
源右衛門は、長い息を吐いた。
「人なら、出せる。田が枯れたら、どのみち若い者は手が空く。水をくれるなら、堤に男を十人、五日出す。それを言うてこい」
シカネは、下の岸へ走った。
与平は、十人と五日を、口の中で二度繰り返した。
「二百十日の前までに、だ。それなら、昼の水は上郷へやってもいい。だが、夜はこっちだ」
上の岸へ戻ると、源右衛門は「昼というのは、いつからいつまでだ」と言った。下の岸へ戻ると、与平は「日の出から日の入りまでなら、上郷のほうが長い。夏は昼が長い」と言った。シカネはそれを運び、また運んだ。
四往復目に上の岸へ行くと、源右衛門が腕をほどいて聞いた。
「お前は、どう思う。昼の長さは、どこで切ればいい」
「俺は運ぶだけだ。俺が思ったことを混ぜたら、与平さんの言ったことじゃなくなる」
源右衛門は、ふん、と鼻を鳴らした。それきり、話は昼の長さのところで止まってしまった。
シカネが座敷の縁へ戻ると、宗玄がいなかった。
◇
宗玄は、社務所の奥の物置から、古い帳面を抱えて出てきた。表紙が黄ばんで、角がすり切れていた。
「祖父の帳面です」
宗玄は検分役の前で、帳面を開いた。
「五十年前にも、ひどい日照りの年がありました。そのとき、上郷と下郷は、堰の水を線香で分けています」
宗玄は、一つの行を指でさした。
「線香一本が燃えきるのを、一番とする。上郷に二番、下郷に一番。これを昼も夜も繰り返す。線香は社で焚き、燃えきったら鐘を鳴らして知らせる。番を替えるたびに、宮守が帳面につける」
検分役は帳面を覗きこみ、書役に写させた。
「なぜ、この取り決めは続かなかった」
「雨が戻ったからです。それからは、浅瀬さまにお願いすればよい、ということになりました」
宗玄は、帳面を閉じた。
「私の父の代からは、特に」
シカネは宗玄の帳面の写しを持って、上の岸と下の岸を回った。線香は社で焚く。数えるのは宮守。鐘が鳴ったら堰の板を入れ替える。どちらの村も、誰か一人を社に置いて、線香を見張ってよい。
源右衛門は、二番と一番のところで、少し考えた。
「上郷に三番、下郷に一番でよいと、下郷が言うかもしれんな」
「言ってねえ」
「言うてないなら、二番と一番でいい」
与平は、堤の男十人のところをもう一度確かめてから、うなずいた。
◇
夕方、源右衛門と与平は、ようやく同じ座敷に入った。
書役が取り決めを証文に書き上げた。堰の水は線香の番で分ける。日照りが続くあいだは、上郷に二番、下郷に一番。上郷は二百十日の前に、下郷の堤へ男を十人、五日出す。線香と帳面は社が預かる。
二人の名主が印を押し終えると、宗玄が、検分役と二人の前に手をついた。
「もう一つ、申し上げます」
宗玄の声は、少し上ずっていた。
「社はこれから、願いを請け合いません。浅瀬さまにお願いするのは、構いません。ですが、叶うとは申しません。寄進の帳面は、両村にお見せします。何に使ったか、全部」
源右衛門と与平は、顔を見合わせた。
宗玄は手をついたまま、頭を下げていた。その手が、小さく震えていた。
「……人が来なくなるかもしれませんな」
宗玄は、誰に言うともなく言った。
宗玄も、証文の端に印を押した。検分役は、最初の番水を見届けるために一晩残ると言った。証文は、明日の朝、シカネが郡方の役所へ持ち帰ることになった。
◇
日が沈む前に、シカネは瀬へ下りた。
古い三本の杭の間に、浅瀬さまが立っていた。シカネを見ると、水の中を歩いてきた。片手を握っていた。
浅瀬さまは、握っていた手を開いた。
梅の実ほどの、平たい小石が載っていた。灰色の地に、茶色の斑が散っている。浅瀬さまの頬の斑と、よく似ていた。
「これ」
「何だ」
「頼まないのに、来たから」
浅瀬さまは、小石をシカネのほうへ差し出した。
「流れを、二つにする。それだけの石」
シカネは、すぐには手を出さなかった。出がけに紗夜に、頼んでもらうもんじゃねえ、と言ったのを思い出した。今日のこれは、頼んだものではなかった。
シカネは小石を受け取った。
小石は冷たく、濡れていた。袖で拭いても、すぐにまた表が湿ってきた。
浅瀬さまは、小石を受け取ったシカネの手を見て、少しだけ口の端を上げた。それから、古い杭の間へ戻っていった。
社のほうで、鐘が一つ鳴った。証文を書き終えてから焚き始めた線香の、上郷の二番ぶんが燃えきったのだ。
浅瀬さまが、両手を胸の前で合わせ、ゆっくりと左右に離した。堰へ折れる流れが細くなり、まっすぐ下る流れが太くなった。堰の前では、上郷の若い者が二人、板を一枚ずつ差し入れていた。




