折っていい杭
宗玄は、帳面を開いた。
提灯の灯りに帳面を近づけて、震える指で行をたどる。それから、声を張り上げた。
「堰から数えて二本目。上郷、源右衛門。雨を十日のうちに。二十日前」
シカネは水を蹴って、堰から二本目の杭の前に立った。杭は手首ほどの太さで、瀬の石の間に深く打ちこまれていた。白い札が、杭の頭で揺れていた。
シカネは右足を引いて、杭の根元を蹴った。
杭が折れた。札ごと水に倒れて、流れに乗って下っていった。
その杭へ向かって這い上がっていた水の筋が、一度に力をなくした。何本もの筋が、ばらばらと瀬へ落ちた。
「次」
「下流側の、岩の脇。下郷、与平。大水を出さぬこと。十八日前」
シカネは岩の脇の杭を蹴り折った。札が流れていき、そちらへ向かっていた筋が落ちた。
宗玄は、次の行を読んだ。読み上げる声は、一本ごとに小さくなっていった。シカネはそのたびに走り、蹴った。五本、六本と折るうちに、瀬の上で寄り集まる水の塊が、少しずつ小さくなっていった。
それでも、まだ塊はできた。岸に上がった男たちの上に、塊の一つが流れていった。
律が岸の岩の上に札を並べ、両手を合わせた。札の並んだところから、岸に沿って、薄く光る幕が立った。塊は幕に当たって崩れ、水になって瀬へ戻った。
「岸は私が持つ。シカネは杭を」
「わかった」
◇
九本目を折ったとき、山のほうから松明が駆け下りてきた。
源右衛門だった。千把焚きの火の上から、瀬の騒ぎが見えたのだろう。息を切らして岸に立ち、折れて流れていく杭を見た。
「何をしとる。それは、うちの村の札だ」
ほとんど同時に、沢の下からも人が上ってきた。与平だった。与平も、流れていく札を見て声を上げた。
「やめろ。誰が折っていいと言った」
「私が頼みました」
宗玄が言った。帳面から顔を上げずに、言った。
「私が書いた札です。私が、どちらにも叶うと申しました。……次。堰の手前、上郷、源右衛門。雨を。十五日前」
源右衛門は何か言いかけて、口を閉じた。与平も黙った。
シカネは、源右衛門の目の前で、源右衛門の名の札がついた杭を蹴り折った。
◇
十五本目を折ったとき、瀬の真ん中で塊が持ち上がった。
塊は、帳面を抱えて瀬の縁に立つ宗玄の真上へ流れていった。宗玄は帳面の文字を追っていて、気づいていなかった。
シカネは右手を伸ばしかけて、やめた。右手の指は、まだ拳の形から開かない。
左手で、瀬から上る筋を掴んだ。
筋は左の手の中に残った。冷えが、左の手首から肘へ上ってくる。右腕のときより重かった。左腕は、利き腕ほど冷えに慣れていない。
シカネは掴んだまま、宗玄の前まで走った。拳を振りかぶるには、左腕が重すぎた。
シカネは左手を離さずに、右足を後ろへ引いた。腰をひねり、膝を上げ、落ちてくる塊を足の裏で真上へ蹴り上げた。
左腕の冷えが、腰を通って足から抜けた。
塊は足の当たったところから二つに割れた。割れた水は、宗玄の左右に分かれて落ちた。宗玄の足元だけが、濡れずに残った。
宗玄は、自分の左右に落ちた水を見た。それからシカネを見て、帳面を握り直した。
「次。……下流側、下郷、与平。秋の長雨に堤が切れぬこと」
◇
杭が減るにつれて、浅瀬さまの手の動きが遅くなっていった。
二十本を過ぎると、右手と左手は、ほとんど同じ速さで動くようになった。瀬の水は、もう塊にはならなかった。細い筋が何本か、まだ杭のあたりを這っているだけだった。
二十二本目を折ったとき、宗玄は帳面を閉じた。
「最後の一本は、私のです」
瀬の真ん中に、ほかの杭より太い杭が一本、立っていた。札も大きく、宗玄の字で、浅瀬大明神、諸願成就と書いてあった。
「どんな願いも叶う、という札です。社に人が来るように、私が打ちました。十年前に」
宗玄は帳面をシカネに預け、祭服の裾をからげて瀬に入った。
杭の前に立ち、両手で杭を掴んで、引いた。杭は動かなかった。宗玄はもう一度、腰を落として引いた。杭は少し傾いただけだった。
シカネは手を貸そうとして、宗玄の顔を見て、やめた。
宗玄は三度目に、杭に両腕を回して引いた。杭が抜けた。宗玄は杭を抱いたまま、瀬の中に尻もちをついた。水が、祭服の胸まで跳ね上がった。
◇
浅瀬さまの手が、止まった。
瀬の水は、二つの流れに戻った。右へ折れて堰をくぐる流れと、まっすぐ下る流れ。どちらも、草鞋の甲ほどの深さで静かに流れていた。
浅瀬さまの輪郭は、もうにじんでいなかった。けれど、前より小さくなっていた。夕方にはシカネの胸の高さにあった頭が、今は腹のあたりにある。頬と腕の斑も、数が減っていた。
浅瀬さまは、自分の両手を見た。それから、苔の生えた古い三本の杭の間に立ち、両手を胸の前で合わせて、ゆっくりと左右に離した。
右の流れが少し寄り、左の流れがまっすぐ下った。
「こちらへ、これだけ。あちらへ、これだけ」
浅瀬さまは、瀬の中に座りこんでいる宗玄を見た。
「……それしか、できない」
宗玄は杭を抱いたまま、頭を下げた。
「存じております」
岸では、源右衛門と与平が、瀬を挟んで立っていた。
二人の足元には、引き上げられた男たちが座りこんでいた。上郷の若い者と下郷の男が、同じ岩にもたれて、同じように水を吐いていた。
「うちの者を引き上げたのは、お前んとこの若い者だそうだな」
与平が、瀬の向こうへ言った。
源右衛門は、しばらく黙っていた。
「堰の板を抜いたのも、うちの若い者だ」
それきり、二人とも何も言わなかった。
律が岸の札を拾い集めてから、シカネのそばへ来た。シカネの両手を、一つずつ灯りにかざした。右手は拳の形のまま、左手は指先が白くなっていた。
「両方か」
「両方」
「どちらも、外へ出しきってある。中に残ってはいない。指は、温めれば朝までに開く。開かなければ、言え」
律はシカネの右手を両手で挟んで、しばらくそのままこすった。
山の上では、千把焚きの火がまだ燃えていた。太鼓も鉦も、まだ鳴っていた。空には雲一つなく、星が出ていた。
◇
右腕と左腕が、両方とも重かった。シカネは帳面を宗玄に返して、社の石段を上った。
鳥居の外の石の上に、ミズナが座っていた。
「終わった?」
「終わった」
「近づかないって約束したからね。ここから見てた」
ミズナは自分の首から手拭いを外して、シカネの右手にかけた。乾いた手拭いだった。
「冷たそうだったから」
シカネは手拭いを右手に巻きつけた。指は開かなかったが、手拭いの乾いたところが、少しずつ温かくなった。
「団子、まだおごってねえ」
「覚えてたんだ」
「城下に戻ったら、お澄さんの茶屋で。けど、先にあの人に言わなきゃならねえ」
「じゃあ、言っといて。七日たったら、その茶屋に行く。昼すぎにね」
ミズナは石から立ち上がり、山の上の火を見上げた。




