千把焚き
社の石段を駆け下りながら、律が言った。
「浅瀬さまには手を出すな。何が起きても、あの方を殴るな」
「殴らねえよ」
「あの方は、暴れているのではない。頼まれたことを、しようとしているだけだ」
シカネが瀬へ下りたとき、堰の前ではもう揉み合いが始まっていた。
上郷の若い者が五人、堰の板に取りついて、一枚ずつ引き抜こうとしていた。板が抜ければ、上郷の用水に流れる水が増える。下郷の男たちは六人いて、松明を岩に立てかけ、若い者の帯や腕を掴んで引きはがそうとしていた。どちらも膝まで水に入っていた。
「離せ、田が枯れるんだ」
「こっちの川を干上がらせる気か」
棒を振り上げた男がいた。シカネは水を蹴って走り、その男の腕を後ろから掴んだ。
「やめろ。殴り合いなら、あとで俺が相手する」
男は振り返ってシカネを見上げ、その大きさに一瞬ひるんだ。
山の上で、太鼓が強くなった。尾根の火の列が、さっきより明るい。下郷の堤のほうでは、鉦の音が速くなっていた。上と下から、音が同時に瀬へ降ってきた。
律が、シカネの背中に声をかけた。
「浅瀬さまを見ろ」
杭の間で、浅瀬さまが両手を広げていた。
右手が堰のほうへ動いた。左手は下る流れのほうへ動いた。そこまでは、朝と同じだった。けれど今は、どちらの手も止まらなかった。右手が堰へ伸び、引き戻され、また伸びる。左手が下流へ伸び、引き戻され、また伸びる。左右の手が、互いに関係なく、速く動いていた。
浅瀬さまの輪郭がにじんだ。頬の斑が、広がっては縮んだ。
声が聞こえた。太鼓と鉦の間を縫って、細い声が瀬の上を流れてきた。
「こちらへ、もう少し。……あちらにも。こちらへ。あちらへ。もう少し」
同じ言葉を、浅瀬さまは何度も繰り返していた。
瀬の水が、裂けた。
今度は、瀬じゅうの水が、指ほどの細い筋に分かれて立ち上がった。何十本もの筋が、願札のついた杭へ向かって這い上がっていく。堰に近い杭へ向かう筋と、下流側の杭へ向かう筋が、杭と杭の間でぶつかった。
ぶつかったところで、水が寄り集まった。
米俵ほどの水の塊が、瀬の上に持ち上がった。一つ、それから、もう一つ。塊は人の背より高く上がってから、真下へ落ちた。
堰の板に取りついていた上郷の若い者が、塊の下敷きになった。水に叩きつけられ、そのまま押さえつけられて、起き上がれない。
「上がれ。みんな岸へ上がれ」
シカネは怒鳴りながら、塊に向かって踏み込んだ。足場の岩を踏んで、腰を回し、肩から拳を叩きこんだ。
拳は塊を突き抜けた。水が四方に飛び散った。けれど、飛び散った水はすぐに筋になって戻り、また同じ形に寄り集まった。下敷きの若い者は、まだ水の中でもがいていた。
殴っても、水は割れない。
シカネは、塊の根元を見た。塊には、瀬から細い筋が何本も上ってきて、つながっていた。
シカネは右手を伸ばし、その筋の一本を掴んだ。
水なら、指の間から抜けるはずだった。けれど筋は、握った手の中に残った。そこから冷たいものが腕に入ってきた。手首から肘まで、肘から肩の手前まで、冷えが上ってくる。腕が重くなり、持ち上げるのにいつもの倍の力が要った。
掴んだ筋は、手の中でまだ二つに分かれようとしていた。
一つ、二つ。
シカネは足を踏み直し、腰から肩へ力を送って、重くなった右の拳を塊に叩きこんだ。
今度は、拳が塊の中で止まった。
拳の当たったところから、塊が縦に割れた。刀で切ったように、まっすぐ二つに分かれた。二つになった塊は、左右に崩れて、ただの水になって瀬に落ちた。
右腕から、冷えが抜けていた。
シカネは水の中に手を突っこみ、下敷きになっていた若い者の襟首を掴んで引き上げた。若い者は水を吐きながら咳きこんだ。シカネはそのまま若い者を岸のほうへ放り投げた。岸にいた下郷の男が、それを受け止めた。
「次」
二つ目の塊が、下郷の男二人の上に落ちかけていた。シカネは走りながら、別の筋を掴んだ。また冷えが腕を上ってきた。今度は、さっきより早かった。シカネは三つ数える前に踏み込み、拳を叩きこんだ。塊は割れて、男たちの左右に崩れ落ちた。
「岸へ行け。松明は置いていけ」
男たちは這うようにして岸へ上がった。岸では、さっきまで掴み合っていた上郷の若い者が、下郷の男の腕を引っぱり上げていた。誰も、相手がどちらの村の者かを見ていなかった。
社のほうから、提灯が石段を駆け下りてきた。宗玄だった。三冊の帳面を胸に抱えたまま、瀬の縁で足を止めた。
「浅瀬さま」
宗玄が呼んだ。浅瀬さまは手を止めずに、顔だけを宗玄に向けた。
「宗玄。もう少し。……どちらへも」
昨夜、宗玄が瀬で言った言葉だった。宗玄は、帳面を抱えたまま動けなくなった。
三つ目の塊が、堰の前で持ち上がった。シカネはまた筋を掴んだ。冷えが腕に入る。拳を叩きこむ。塊が割れる。
割ったあとで、シカネは右手を開こうとした。指が、うまく開かなかった。拳の形のまま固まりかけていて、指先の感じが鈍い。
「シカネ、続けるな」
律が、岸の岩の上から言った。
「その掴み方を続けたら、腕が戻らなくなる。峠で掴んだ冷えと同じことになる」
律は岩の上に札を三枚並べて置いていた。札の上に指を当て、瀬のほうへ目を凝らしている。札の端が、瀬の水の動きに合わせて小さく震えていた。
「塊を割っても、きりがない。筋がどこから引かれているか、見ている」
瀬の上では、新しい塊がもう寄り集まり始めていた。
律の目が、杭を一本ずつ追っていった。
「杭だ。願札が一枚ずつ、浅瀬さまを引っ張っている。上郷の札は堰のほうへ。下郷の札は下へ。浅瀬さまは、全部の札に応えようとして、両手で別々のほうへ水を分けている」
「札のねえほうは」
「あの三本は、浅瀬さまの元の分け方だ。あれは、何も引いていない」
律は札から指を離し、岩の上に立ち上がった。
それから、瀬の縁に立ち尽くしている宗玄のほうを向いた。
「宗玄殿。願札のついた杭は何本ありますか。どれが誰の札か、わかりますか」
宗玄は、抱えていた帳面に目を落とした。
「……二十三本。全部、帳面につけてあります。いつ、誰が、何を願って、どの杭に結んだか」
「では、それを読み上げてください。シカネが折ります」
宗玄の顔がこわばった。
「折ったら、願いはどうなります。上郷の人も、下郷の人も、皆、あの札に」
「折らなければ、浅瀬さまが裂けます」
律は、瀬の真ん中を指さした。浅瀬さまの両手は、まだ別々に動いていた。にじんだ輪郭の端から、細い水の筋がほつれて、杭のほうへ引かれていた。
律は、シカネに向き直った。
「札のない三本は残せ。願札のついたのは、折っていい」




