宮守の帳面
社務所に戻ると、宗玄は縁で夕餉の粥を煮ていた。
シカネは文箱を下ろし、宗玄の前に座った。律はその後ろに立った。
「下郷の名主に会ってきた」
「さようですか。与平さんは、お元気でしたか」
「上郷には雨が来る、下郷には大水を出さないって、両方に約束したのか」
宗玄は鍋をかき回す手を止めた。しばらく粥の表面を見ていたが、やがて鍋を火から下ろし、奥から帳面を三冊持ってきた。
「お見せしましょう」
一冊目は、寄進の帳面だった。日付と名と額が、細かい字で並んでいる。上郷の名も下郷の名も、梅雨のあとから急に増えていた。
二冊目には、受取が貼りつけてあった。堰の板を六枚替えた代金。用水の溝さらいに雇った人足の手間賃。それから、土俵を百俵。
「この土俵は」
「下郷の堤の継ぎ目です。大水のあと、あれを積んだのは下郷の人たちですが、俵の代は社が出しました」
宗玄は帳面を閉じて、膝の上に重ねた。
「寄進は、社のものになるのではありません。半分は、こうして水のために使っています。残りで社を保ち、私が食べている。それは隠しません」
「約束のほうは」
「しました」
宗玄は、まっすぐに答えた。
「上郷の源右衛門さんが来て、雨を、と言った。下郷の与平さんが来て、大水を出さぬように、と言った。どちらにも、浅瀬さまにお伝えします、きっと聞き届けてくださいます、と申しました。札も書きました」
「逆のことだろ」
「そうです」
宗玄は、少し笑った。困ったときの笑い方だった。
「頼んでも無駄だと言えば、人は社に来なくなります。社に人が来なくなれば、寄進も来ない。寄進がなければ、堰の板一枚替えられない。それに、浅瀬さまにお名前を呼ぶ者がいなくなる。……両村とも、浅瀬さまを頼みにしているのです。皆が頼みにしているのです」
律が、後ろから口を開いた。
「浅瀬さまの様子がおかしくなったのは、いつからです」
宗玄は律を見た。少し迷ってから、答えた。
「梅雨のあとです。下郷が大水に遭って、大水を出さぬようにという札が増えた。そのあと雨が止まって、今度は上郷から、雨を、という札が増えた。その頃から、ときどき瀬の水が細かく裂けるようになりました」
「なぜ役所に知らせなかったのです」
「知らせれば、陰陽方が来るでしょう。様子のおかしい神は、封じられると聞いております」
宗玄は、律の札入れを見た。
律は、すぐには答えなかった。
「封じるかどうかを決めるのは、私ではありません。ですが、見たことは報告します」
「……さようでしょうな」
宗玄は帳面の角をそろえた。
シカネは、もう一つ聞いた。
「あの人は、雨を降らせられるのか」
宗玄は、すぐには答えなかった。社務所の外で、瀬の水の音がしていた。
「浅瀬さまにできるのは、水を分けることだけです」
宗玄は、静かに言った。
「昔から、それだけです。私の父も、祖父も、そう言っておりました」
「じゃあ、上郷の約束は」
「明日の晩、千把焚きをします。煙が雲を呼べば、雨は来ます。来なければ……」
宗玄は、その先を言わなかった。
社の言い分を書いてくれと言うと、宗玄は「明日の晩のあとに」と答えた。源右衛門や与平と同じ答えだった。
◇
翌朝、社の石段にミズナが座っていた。
膝の上に半分に割った瓜を載せて、匙ですくって食べている。シカネが石段を下りてくると、ミズナは匙を持った手を上げた。
「やあ。また会ったね」
後ろから来た律が、足を止めた。手が札入れのほうへ動いて、途中で止まった。
「その瓜、どうした」
「下郷の畑のおばあさんにもらった。堤の土俵を一緒に積んだら、くれた。団子のかわり」
ミズナは瓜の残りを、シカネのほうへ差し出した。シカネは首を振った。
「何しに来た」
律が聞いた。声がいつもより低かった。
「通りかかっただけ。次の宿場まで行く途中」
ミズナは律に向かって、匙を振った。
「何もしないよ。瓜は食べるけど」
シカネは、ミズナの隣に腰を下ろした。
「あいつに会うときは、先に言えって言われてる」
「君の母さん?」
「ああ」
「今回は僕が勝手に来たんだから、君のせいじゃないよ。そう言っといて」
ミズナは瓜をすくいながら、石段の下の瀬を見た。浅瀬さまが、杭の間に立っていた。両手を左右に広げて、ゆっくりと離している。
「あの神さま、頼まれるのが好きなんだね」
「好きなのか」
「名前を呼ばれて、頼まれて、うれしいんでしょ。だから断れない。両方に、うんって言う」
ミズナは、最後のひとすくいを口に入れた。
「うんって言うのは、楽しいからね」
律が帳面を出して、何か書きつけた。
「この村にいるあいだ、社と瀬には近づかないでほしい」
「いいよ。石段は社のうちに入る?」
「入る」
ミズナは瓜の皮を持って立ち上がり、石段を三段下りて、鳥居の外に出た。そこでまた腰を下ろした。
「帳面に書くなら、瓜を一つ食べた、って書いといて」
律は返事をしなかった。筆も止めなかった。
◇
昼のうちに、シカネはもう一度、上郷と下郷を回った。
上郷では、男たちが柴の束を山の上へ運び上げていた。源右衛門は束の数を数えながら、「今夜のあとだ」とだけ言った。それから、数える手を止めて聞いた。
「下郷は、何と言うとる」
「堤が切れたままで、直す人手が足りねえ。今、大雨が来たら、また切れる。だから雨は要らねえって」
シカネは少し考えてから、もう一つ付け足した。
「それと、夜に堰の板を外して、水を盗る奴がいるって」
源右衛門は、柴の束から目を上げなかった。
「外したのは、うちの若い者だ。わしは止めなんだ」
源右衛門はそれだけ言って、また束を数え始めた。
下郷では、堤の上に竿が渡され、鉦がいくつも吊るしてあった。与平は鉦を一つずつ叩いて音を確かめながら、「今夜のあとだ」と言った。与平も、上郷の様子を聞いた。
「田が白くなってた。桶で水を撒いてるが、撒いたそばから乾く」
与平は鉦を叩く手を止めた。
「気の毒だとは思う。だがな、田が枯れても、来年また植えられる。家が流れたら、そうはいかん」
与平は鉦を一つ叩いた。高い音が、川の上を渡っていった。
文箱の中は、行きと同じで空だった。
◇
日が落ちると、山の上に火が入った。
最初は一つ、それから二つ、三つと増えて、尾根の上に火の列ができた。煙が、風のない空にまっすぐ上っていった。太鼓が鳴り始めた。低い、腹に響く音だった。
少しして、下のほうから鉦の音が聞こえてきた。高く、細かく、急かすような音だった。太鼓と鉦が、浅瀬の上で混じり合った。
ミズナは、いつの間にかいなくなっていた。
上郷の斜面から、松明が四つ、五つと下りてきた。千把焚きに行かなかった若い男たちだった。松明は、まっすぐ浅瀬の堰のほうへ向かっていた。
沢の下からも、松明が上ってきた。下郷の男たちだった。堰の見張りに来たのだろう。
宗玄が、鳥居の下に立っていた。三冊の帳面を胸に抱えて、山の火と、下の暗がりを、代わる代わる見ていた。
「どちらも」
宗玄が、小さく言った。




