浅瀬さま
「頼みはねえ」
シカネは答えた。
「書状を届けに来た。社の宮守に」
浅瀬さまは、シカネの顔をじっと見た。それから、律の顔を見た。
「頼みは、ない」
「ない」
「上郷は、雨。下郷は、雨はいらない。……あなたは?」
「飛脚だ。届けるだけだ」
浅瀬さまは小さく首を傾げた。困ったような顔だった。しばらくそうしていたが、やがて片手を上げて、瀬の上の林を指さした。木の間に、小さな鳥居が見えていた。
◇
浅瀬の社は、鳥居の奥に古い拝殿が一つと、社務所が一つあるだけの、小さな社だった。
宮守の宗玄は、五十すぎの丸顔の男だった。色の薄い祭服の袖をたくし上げて、社務所の縁で帳面をつけていた。シカネが書状を渡すと、宗玄は丁寧に両手で受け取り、その場で読んだ。
読みながら、宗玄はちらりと律を見た。律の腰の札入れに目を留めて、少し顔を曇らせた。
「陰陽方の方も、ご一緒でしたか」
「浅瀬さまの様子がおかしいと、郡方から知らせがありました」
律が言うと、宗玄はすぐに笑顔に戻った。
「この暑さですからな。水の神さまも、お疲れなのでしょう」
宗玄は書状を畳んで、帳面の間に挟んだ。
「言い分は、もちろん書きます。ですが、まずは両村がよく話し合うことです。上郷も下郷も、浅瀬さまを頼みにしている。皆が頼みにしているのです。社が片方の肩を持つようなことは、書けません」
それから宗玄は、今夜は社務所に泊まっていけと言った。夕餉には、水で薄めた粥と、胡瓜の漬物が出た。律は浅瀬さまのことを二度聞いたが、宗玄は二度とも「暑さのせいでしょう」と答えた。
夜中に、シカネは厠へ立った。
社務所の裏から瀬のほうを見ると、提灯が一つ、水の上に揺れていた。宗玄だった。宗玄は瀬の縁の平たい岩に、古い素焼きの器を置いていた。器には、炊いた飯が少しと、塩がひとつまみ盛ってあった。
浅瀬さまが、杭の間から出てきた。器の前にしゃがんで、両手で器を持ち上げた。飯には手をつけず、器の縁を指でなぞっていた。
「もう少しの辛抱です」
宗玄が、浅瀬さまに話しかけていた。
「上郷も下郷も、浅瀬さまを頼みにしております。皆が、お名前を呼んでおります。もう少しだけ、お力を」
浅瀬さまは器を持ったまま、宗玄の顔を見上げた。
「……もう少し。こちらへも、あちらへも?」
「はい。どちらへも」
宗玄は提灯を持って立ち上がり、社務所へ戻ろうとして、シカネに気づいた。宗玄は少し驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。
「毎晩、こうしてお供えをしております。私の父の代から使っている器でしてな。浅瀬さまは、あれがお好きなのです」
そう言って、宗玄は社務所の中へ入っていった。
◇
翌朝、シカネは瀬へ下りて顔を洗った。
水はぬるかった。手ですくって顔にかけていると、すぐ横の水が揺れた。浅瀬さまが、いつの間にかそこに立っていた。
「頼みは」
「ねえって」
浅瀬さまは、シカネの濡れた手を見た。それから、自分の両手を胸の前で合わせて、ゆっくりと左右に離した。
「わたしは、分ける。こちらへ、これだけ。あちらへ、これだけ」
右手が堰のほうへ動くと、足元の水が少しだけ右へ寄った。左手が下る流れのほうへ動くと、水はまっすぐに下った。
「昔から、そうしてる」
「雨は、降らせられるのか」
シカネが聞くと、浅瀬さまは手を止めた。
「上郷が、雨を、と言う。宗玄が、降らせると言った。……だから」
浅瀬さまは、それきり黙った。
右手が、また堰のほうへ動いた。けれど左手は、下る流れのほうへ動かずに、反対に右手を引き戻すように動いた。両手が、別々のことをしていた。
浅瀬さまの足元で、水が裂けた。
浅い流れが、髪の毛ほどの細い筋に何本も分かれた。筋は浅瀬さまの足首に巻きつき、シカネの草鞋の上を這い、岩の上へ持ち上がって、そこで弾けた。水しぶきがシカネの顔にかかった。
それから、筋はばらばらと瀬に落ちて、元の一つの流れに戻った。
浅瀬さまは両手を下ろした。何もなかったような顔で、また小さく首を傾げた。
岸から見ていた律が、瀬に下りてきた。
「今の、見たか」
「見た。足に巻きついた」
「あの方の輪郭が、一瞬ぼやけた。肌の斑も動いた」
律は瀬の中ほどの杭のところまで行き、新しい杭に結ばれた札を一枚ずつ手に取った。
「願札だ。社で願いを受けて、名を書いて杭に結ぶ。こうして神さまの足元に置いて、願いを届ける」
律は札を読み上げた。
「上郷、源右衛門。雨を十日のうちに。……こちらは下郷、与平。大水を出さぬこと」
律は他の札もめくっていった。上郷の名が十枚ほど。下郷の名が八枚ほど。どの札にも、同じ朱の判が押してあった。
「社の判だ」
◇
下郷は、浅瀬から沢沿いに半里ほど下った、川べりの村だった。
沢はここで、もっと大きな川に流れこんでいる。その川に沿って、土を盛った堤が続いていた。堤の一か所が大きくえぐれて、土俵を積んだだけの仮の継ぎになっていた。村の家々の壁には、膝くらいの高さに、泥の線が残っていた。
「梅雨の大水だ」
名主の与平が言った。四十くらいの、手の荒れた男だった。堤の継ぎ目の土俵を足で押してみせた。土俵は少し沈んだ。
「堤が切れて、田も家も浸かった。土俵を積んだだけで、まだ直っておらん。直そうにも、村の男だけでは手が足りん」
与平は書状を読み終えると、すぐに言った。
「言い分なら、いくらでもある。上郷の連中が、夜のうちに堰の板を外して、水を盗っていく。朝になると、こっちの川がやせとる。それを書く」
「田は、まだ水があるように見えた」
「大きな川から、跳ね釣瓶で汲み上げとる。一日じゅう汲んで、やっと持っとるんだ」
与平は堤の上から、えぐれた跡を見下ろした。
「だから、雨は要らん。今、大雨が来たら、あの継ぎ目からまた切れる。宮守さまに頼んである。浅瀬さまは、大水は出さぬと約束してくださった」
シカネは、浅瀬の杭の札を思い出した。
「上郷では、宮守さまが、雨は来ると約束したって聞いた」
与平がシカネを見た。
「……宮守さまが、そう言ったのか」
「上郷の名主が、そう言ってた。明日の晩に、山の上で千把焚きをするそうだ」
与平の顔が、赤くなった。それから、青くなった。
「千把焚きだと」
与平はしばらく堤の上を行ったり来たりした。やがて足を止めた。
「上郷が雨を呼ぶなら、こっちは雨を止める。同じ晩に、堤で鉦を叩く。村じゅうでだ」
「言い分は」
「書く。だが、出すのは、その晩のあとだ」
◇
沢沿いの道を浅瀬へ戻るころには、もう日が傾いていた。
上の斜面では、上郷の男たちが柴の束を背負って、山の上へ運んでいた。後ろの下郷では、誰かが鉦を試し打ちする音が二度、三度と聞こえた。
律が歩きながら言った。
「どちらの札にも、同じ社の判が押してあった。宗玄殿は、両方に、叶うと言っている」
シカネは、背中の文箱の重さを確かめた。中の三通は、どれも届いた。返事は、まだ一通も入っていなかった。




