乾いた田
梅雨が明けてから、二十日あまり雨が降っていなかった。
長屋の井戸は水が減って、釣瓶の縄を目いっぱい下ろさないと届かない。朝のうちに汲んでおかないと、昼には底の泥を汲むことになる。シカネが桶を二つ提げて戻ってくると、戸口の前にくぐらが立っていた。
くぐらは大きな水甕を一つ、両腕で抱えていた。
「屋敷の井戸は深い。まだ出る」
くぐらはそう言って、水甕を土間に下ろした。城下の外れからここまでは半里ある。水を満たした甕を抱えて歩いてきたらしい。着物の胸が濡れていた。
「重かっただろ」
「重くはない。こぼれた」
くぐらは濡れた胸元を手で払って、それから竹の皮の包みを出した。握り飯が三つ入っている。どれも拳ほどの大きさで、形はそろっていた。
「今日はどこへ行く」
「東の山裾。村が二つと、社が一つ。郡方の書状を届けて、返事をもらってくる」
「何日だ」
「返事しだいだ。三日か、五日か」
くぐらは包みをシカネの手に押しつけたまま、しばらく考えていた。
「では、五日と思うておく。五日目の日暮れに、屋敷へ来い」
「早く済んだら」
「早く来い」
◇
問屋の土間に入ると、清兵衛が三通の書状を帳場に並べていた。
「郡方の役所からだ。東の山裾の上郷と下郷が、水のことで揉めている。上郷が訴えを出した」
清兵衛は一通ずつ指で示した。
「これが浅瀬の社の宮守、宗玄さま。こっちが上郷の名主の源右衛門さん。こっちが下郷の名主の与平さん。中身は同じだそうだ。三日後に郡方から検分役が来るから、それまでにそれぞれの言い分を書いて出せ、とね」
「書いたのを、俺が持って帰るのか」
「三通そろったらな。そろわなかったら、そろうまで待てと役所は言っている」
清兵衛は書状を油紙に包みながら付け足した。
「返事を待つ便は、駄賃が日割りになる。お前が向こうで寝ていても金は出る。ありがたい話だが、長引けば役所の機嫌が悪くなる。ほどほどに頼むよ」
シカネが文箱に書状を納めていると、戸口から律が入ってきた。旅支度だった。
「私も行く」
「見張りか」
「それもある」
律は清兵衛に会釈してから、シカネに言った。
「浅瀬の社の神さまの様子がおかしい、と郡方から役宅に知らせがあった。瀬の水が、ときどき勝手に細かく分かれるらしい。景綱さまが、見てこいと」
そのとき、表から足音が駆けこんできた。
「待って、まだ出ないで」
紗夜だった。息を切らして、手に黒い小さな箱を持っている。
印籠だった。漆のところどころ剥げた古いもので、三段に分かれている。紐の先には、根付の代わりに木の玉が通してあった。
「古道具屋で買って、中を作り直したの。入れ物はできた。腰に当てさせて」
紗夜はシカネの帯の右の腰に印籠の紐をかけ、少し下げたり上げたりした。
「文箱の紐は、どっちの肩から」
「左の肩から、右の腰へ」
「じゃあ、ここだと擦れるね。指一本ぶん前」
紗夜は帯の紐の位置に墨で小さく印をつけ、印籠を外して自分の手に戻した。
「中は空っぽ。品が入ってないと、中の札が書けないの。品の性質に合わせて書くから」
「品って」
「妖力のこもった物。あやかしとか神さまとかがくれる物。君、まだ一つも持ってないでしょ。くぐらさんのお守りは、くぐらさんがほどかせてくれないし」
紗夜は帯の左前に結ばれた布袋を見て、残念そうな顔をした。
「だから、何かもらったら、すぐ持ってきて。神さまに会うんでしょ。もらえそうなら、もらってきて」
「頼んでもらうもんじゃねえだろ」
「頼まなくても、もらえるなら、もらってきて」
紗夜は印籠を懐にしまい、律のほうを向いた。
「浅瀬の神さまのこと、帰ったら教えてね。どんな姿だったか、何を言ったか、水がどう分かれたか」
「報告は景綱さまにする」
「じゃあ、あとで景綱さまに聞く」
紗夜はそう言って、来たときと同じ速さで出ていった。
◇
東の街道は、白く乾いていた。
城下を出て二里も行くと、道端の田の様子が変わってきた。稲の葉先が黄色く丸まり、水の引いた田の土に、亀の甲のような割れ目が入っている。用水の溝は、底の石が見えていた。
律はシカネの少し後ろを歩いていた。シカネが足をゆるめると律もゆるめ、速めると黙ってついてきた。三里を過ぎても、息はほとんど乱れていなかった。
「前より速くなったな」
「梅雨のあと、毎朝走っている」
律はそれだけ言って、額の汗を手拭いで押さえた。
山裾に近づくと、道は上りになった。斜面に田が段々に重なっていて、それが上郷だった。
上郷の田は、街道沿いの田よりひどかった。割れ目は手のひらが入るほど広く、稲は根元から白くなりかけていた。段々の田の間を、桶を担いだ人たちが行き来している。沢から汲んできた水を、一枚ずつ田に撒いているのだ。桶一杯の水は土に落ちたとたんに吸いこまれて、黒くなった土の色はすぐに白く戻った。
名主の源右衛門の家は、段々のいちばん上にあった。
源右衛門は六十すぎの、骨ばった男だった。縁側で書状を受け取り、目を細めて読んだ。読み終えると、長いため息をついた。
「言い分を書け、か」
「書いたのを、俺が持って帰る」
「書くことなど決まっとる。下郷が水を取りすぎる。それだけだ」
源右衛門は斜面の下のほうを顎で示した。木々の向こうに、白っぽい瀬が光っていた。
「あそこの浅瀬で、沢が二つに分かれる。右へ折れるのがうちの用水、まっすぐ下るのが下郷へ行く川だ。昔から、浅瀬さまが分けてくださる。だが、このひと月、うちの用水にはちょろちょろしか来ん」
「浅瀬さまって、社の神さまか」
「そうだ」
源右衛門は書状を畳んで、膝の上に置いた。
「宮守の宗玄さまが、約束してくださった。浅瀬さまにお願いしてあるから、雨は来る、とな。明後日の晩に、山の上で千把焚きをする。それで雨が来れば、訴えなど要らん」
「千把焚き」
「柴の束を千把、山の上で焚いて、太鼓を打つ。煙が雲を呼ぶ。わしの爺さまの代にもやった」
源右衛門は、汗のにじんだ首を手拭いで拭いた。それから奥へ声をかけて、娘に水を持ってこさせた。
娘は欠けた湯呑みに水を半分だけ入れて、シカネと律の前に置いた。この家の水甕も、底が近いのだろう。
シカネは湯呑みを持って、少し迷った。それから一口だけ飲んで、残りを律の前へ押した。律も一口飲み、湯呑みを娘に返した。
「言い分は書いておく」
源右衛門は言った。
「だが、出すのは千把焚きのあとだ。雨が来れば、出さずに済む」
◇
日が傾くころ、二人は浅瀬に着いた。
山から下りてきた沢は、平たい岩の多い瀬で二つに分かれていた。右へ折れる流れは、板を並べた堰をくぐって上郷の用水へ入る。まっすぐ下る流れは、細くなりながら林の奥へ消えていた。どちらの流れも、草鞋の甲が濡れるくらいの深さしかない。
瀬の中ほどに、木の杭が何本も打たれていた。苔の生えた古い杭が三本。その周りに、まだ白い杭が二十本ほどと、黒ずんだ太い杭が一本あった。周りの杭には、どれも紙の札が結ばれていて、風もないのに小さく揺れていた。
その杭の間に、女が一人立っていた。
背の低い、小柄な女だった。淡い茶色の着物の裾を水に浸けて、両手を左右に広げている。右の手は堰のほうへ、左の手は下る流れのほうへ。何かを分けるように、ゆっくりと手を離していく。
女の頬と腕に、浅瀬の小石のような斑が浮いていた。
律が札入れに手をかけたまま、小声で言った。
「人ではない。……あれが、社の神さまだろう」
女がこちらを向いた。短い髪の先から、水が一滴落ちた。
女はシカネを見て、それから律を見て、小さな声で言った。
「……何を、頼みに来たの」




