落ちてはないよ
城下外れの屋敷までの道を、ミズナは楽しそうに歩いた。
「君の母さんって、どんな人?」
「飯を作りすぎる」
「へえ」
「朝早く来る。足を見る。何日で帰るか聞く」
「足って、どこを見るの」
「裏。まめができてると薬を塗る。断ると話が長くなるから、塗らせてる」
ミズナは笑った。
「あの人、君が心配なんだね。自分の知らないところへ行くのが」
シカネは少し考えて、「そうかもしれねえ」と答えた。
通りの角に茶店があって、軒の幟に団子の字が染めてあった。ミズナはそれを見上げた。
「城下の団子は、おいしいの?」
「ここのは甘すぎる。うまいのは、川沿いへ出る街道の茶屋だ。お澄さんが焼いてる。たれが甘辛くて、焦げ目がつくまで焼く」
「甘辛いのはいいね。甘いだけのは、一本で十分」
「俺は二本だ。急いでても二本」
「急いでないときは?」
「三本。座ると三本になる」
ミズナは短く息で笑った。
「出かけるとき、帰りに焼いといてやるって言われた。けど、あの茶屋は屋敷と反対の方角だ」
「じゃあ、今度だね」
ミズナはそう言って、前を向いて歩いた。
◇
屋敷の門が見えたとき、ちょうど中からくぐらが出てきた。手に笠を持っている。シカネを迎えに出るところだったらしい。
くぐらはシカネを見て、それから隣のミズナを見た。
その瞬間、くぐらはシカネの腕を掴んで引き寄せ、自分の背中の後ろへ回した。あまりに速くて、シカネはよろけた。笠が地面に落ちた。
くぐらは、ミズナを真正面から見ていた。
「おぬし、落ちておるな」
ミズナは足を止めた。驚いた様子はなかった。少しだけ首を傾げて、いつもと同じ声で答えた。
「落ちてはないよ、自由なだけ」
◇
シカネはくぐらの背中越しに、二人を見比べた。
「落ちるって、何だ」
くぐらは、ミズナから目を離さずに答えた。
「魔に堕ちた者だ。恨みか絶望か、何かで、元のものから外れた。一度堕ちれば、もう戻れぬ」
シカネは、くぐらの横顔を見た。くぐら自身が、去年の秋に堕ちかけたのだ。あのとき景綱は、堕ちたら二度と解けぬように封じると言っていた。
シカネはミズナを見た。ミズナは門の外に立ったまま、こちらへ一歩も近づいてこなかった。
「こいつは、助けてくれた」
シカネは言った。
「山で道を教えてくれた。崖から母子を引き上げるのに、縄を見ててくれた。米俵も担いだ」
「助けたことと、魔であることは別だ」
くぐらは言った。
「それはそう」
ミズナがうなずいた。
「僕がいい人かどうかと、僕が魔かどうかは、関係ないからね。君の母さんの言うとおりだよ」
言い訳をする気も、くぐらに何か頼む気も、ミズナにはないようだった。
◇
くぐらはしばらくミズナを見ていたが、やがてシカネの腕を離し、黙って屋敷の中へ入っていった。
すぐに戻ってきた。手に、親指二本ぶんくらいの小さな布袋を持っている。縫い目は不揃いだったが、口を縛った紐の結び目だけが、やけに固そうだった。
くぐらはシカネの前にしゃがみ、その布袋をシカネの帯の左前に結びつけた。
「そこだと、走るとき揺れる」
「右には文箱の紐がかかるであろう。左でよい」
文箱の紐をどちらの肩にかけるか、くぐらに話したことはなかった。シカネが出かけるのを、毎朝見ていたのだろう。
「中に、私の鱗と髪を編んだものが入っておる。何かあれば、私にわかる」
「何かって」
「何かだ」
くぐらは紐を一度結び、その上からもう一度結んだ。
「固すぎる。着替えるときにほどけねえ」
「ほどくときは、私に言え」
「毎日か」
「毎日だ」
くぐらは結び目を指で押して、ほどけないことを確かめた。
「離すな」
ミズナが、門の外から布袋を覗き込んだ。
「過保護だね〜!」
くぐらがミズナを睨んだ。
ミズナは気にした様子もなく、続けた。
「でも、いいと思うよ」
くぐらは睨んだまま、何も言わなかった。追い払いもしなかった。
◇
通りの向こうから、律が走ってきた。
「弥吉という人から、君が城下に戻ったと聞いた。木戸で、見慣れない男と一緒だったと――」
律は門の前まで来て、ミズナを見て、それからくぐらの顔を見た。くぐらはまだ、シカネの前に半分立っていた。
「律」
くぐらが言った。
「この男は、落ちておる」
律の顔から、血の気が引いた。
律はミズナの頭から足まで、ゆっくりと見た。札入れに手を伸ばしかけて、その手を止めた。ミズナは暴れる様子もなく、ただ立っていた。
「……私は、この人の話を聞いていた」
律は低い声で言った。
「尾根道で道を教えた男。崖の母子を助けた男。三日分、君から聞いて、帳面に書いた。それなのに、何も気づかなかった」
「話を聞いただけじゃ、わからないよ」
ミズナが言った。思ったとおりのことを言っている顔だった。
「会ってすぐわかるのは、たぶん君の母さんくらいだ」
「人の目で見分けるには、札を当てて調べるしかない」
くぐらが言った。
律は少し黙ってから、「はい」と答えた。それから、ミズナに向き直った。
「名と、どこから来たかを聞かせてほしい。景綱さまに報告しなければならない」
「ミズナ。どこから、は今日はやめとく。その話、長いから」
「城下で、何かするつもりは」
「団子を食べようと思ってたけど、食べそこねた。それくらいかな」
律は筒から帳面を出して、今ここで見たことを書きつけていった。筆が、いつもより遅かった。
◇
ミズナは、門から一歩下がった。
「じゃあ、僕はこれで。顔は見られたし」
「どこへ行く」
シカネが聞くと、ミズナは西のほうを指さした。
「次の宿場まで」
ミズナは律にも気軽に会釈をして、通りを歩き出した。律は帳面を持ったまま、その背中を見送った。止めることはしなかった。
シカネは、ミズナの背中に声をかけた。
「今度、団子おごる」
ミズナは振り返らずに、片手を上げた。
律は帳面を閉じた。
「私は役宅へ戻る。今夜のうちに、景綱さまに申し上げておく」
律が通りを駆けていくと、くぐらは地面に落ちた笠を拾い、土を払った。
「中へ入れ。汁が冷める」
◇
土間の鍋には、芋と大根の汁がたっぷり残っていた。くぐらは大きな椀に汁をよそい、その横に握り飯を三つ並べた。シカネが座ると、さらに漬物の皿が出てきた。
「多い」
「残せばよい」
残したことは一度もない。シカネは汁をすすり、握り飯を一つ取った。帯の左前で、布袋が膝に当たった。
「魔になると、どうなるんだ」
握り飯を食べ終えてから、シカネは聞いた。
「あいつ、普通に笑ってたぞ」
くぐらは、空になった皿を手元に引き寄せた。
「生まれた里とも、同族とも、親とも、つながりが切れる。たいていはそれで正気をなくして暴れる。あれのように落ち着いておる者を、私は他に知らぬ」
「じゃあ、悪いやつじゃねえだろ」
「わからぬ。何をするか読めぬから、厄介なのだ」
くぐらはそう言って、シカネの顔を見た。
「団子をおごると言うておったな」
「ああ」
「あれに会うときは、先に私に言え」
「言ったら、止めるだろ」
「止めはせぬ。ついていく」
シカネは椀を置いた。
「それは、止められるより困る」
くぐらは聞こえなかったような顔で、空いた椀に汁を足した。




