動いた救援
城下に着いたのは、六日目の日暮れだった。
沢の道を下りきると雨は小降りになり、街道に出たところでやんだ。木戸をくぐるころには、通りの家々に灯りが入り始めていた。
二日目の日暮れに、とくぐらには言ってある。屋敷へ回れば、まだ間に合う刻限だった。けれど背中の文箱には、二通の書状が入っている。シカネは屋敷へ向かう道を通り過ぎ、先に問屋へ寄った。
土間では、弥吉が草鞋を脱いでいた。ずぶ濡れのシカネを見て、目を丸くする。
「お前、どこから帰ってきたんだよ」
「山。頼みがある。城下外れの屋敷まで、言づてを持っていってくれ」
「屋敷って、お前の母ちゃんのとこか」
弥吉の顔が少し引きつった。
「帰った、届けてから行く、って伝えてくれ。それだけでいい」
シカネは文箱から川沿いの宿場の受取証を出して、帳場の清兵衛に納めた。清兵衛は受取証の雫の跡を見て、何も言わずに帳面に挟んだ。
「……それだけ言って、俺、無事に帰ってこられるよな」
「たぶん」
弥吉は大きく息を吐いて、脱ぎかけた草鞋を履き直した。
◇
大津屋は、城下でいちばん大きな米問屋だった。
店はもう暖簾を下ろしかけていたが、川沿いの宿場の世話役からの書状だと言うと、番頭はすぐに奥へ通してくれた。主人は五十すぎの痩せた男で、帳場の灯りの下で書状を開いた。
主人はまず、油紙の端の湿ったところに目を留めた。
「雨の中を来たのかね」
「山道で、少し」
「中は濡れていない。よく持ってきた」
主人はそれだけ言って、書状を読み始めた。読むのは早かったが、最後の、沢の濁りを知りながら知らせなかったというところで、主人の手が一度止まった。
「市蔵さんは、ここまで書いたのか」
「書いた」
主人は書状を畳み、番頭を呼んだ。
「米を出す。舟を二艘、川の水が引いたところまで。人足を二十人。明日の朝までに揃えなさい」
番頭が走っていくと、主人はシカネに向き直った。
「先に言っておくがね、慈悲じゃないよ。あの宿場には、うちの掛けがある。潰れられたら、取りっぱぐれる。助けた店のことも、何十年と覚えていてくれる。商売だよ」
「それでいい。米が届くなら」
主人は少し笑って、駄賃の包みをシカネの前に置いた。清兵衛の言ったとおり、大津屋が出した駄賃だった。
シカネが店を出るころには、裏の蔵の戸が開いていた。手代が提灯を掲げて俵の数を数え、番頭は小僧を人足頭の家へ走らせていた。
◇
もう一通の届け先の奉行所は、門が閉まっていた。
門番は、明日の朝に出直せと言った。シカネは門の脇の軒下に腰を下ろした。
「何してる」
「ここで待つ。朝いちばんに渡す」
門番が困った顔をしていると、通りの向こうから律が走ってきた。笠を手に持ったまま、息を切らしている。
「弥吉という人が、屋敷へ行く前に役宅にも寄って、知らせてくれた」
律は門番に、景綱の名を出して何か話した。門番は渋い顔をしていたが、やがて奥へ引っ込んだ。
待つあいだに、律はシカネの右手に目を留めた。手拭いが巻いてあり、血が茶色く染みている。
「その手は」
「山で、書状を置いてけって奴がいた。三人」
「どこで。顔は見たか。怪我はそこだけか」
「沢の道。行商の格好だった。怪我はこれと、肩だけだ」
律は、聞いたことを小さく口の中で繰り返した。
「あとで、もう一度詳しく聞く」
やがて門番が戻ってきて、律と二言三言かわした。律はシカネのほうへ向き直った。
「今夜は無理だが、朝いちばんに奉行の用人へ取り次ぐと約束させた。だから、ここで寝なくていい」
「寝てもいいけどな」
「よくない。それに、屋敷で待っている人がいる」
律はそう言って、シカネの濡れた肩を見た。
「……日暮れはもう過ぎた」
◇
屋敷の門は開いていた。くぐらは土間で汁を温めていた。弥吉はもういなかった。
くぐらは何も言わずに、乾いた着物と手拭いをシカネに押しつけた。着替えているシカネの右の掌に切り傷があり、肩に棒で打たれた痣があるのを見ると、くぐらは黙って薬の壺を出してきて、両方に塗り始めた。
「この傷は何だ」
「山で、書状を取りに来た奴の術の風を掴んだ」
くぐらは薬を塗る指を止め、シカネの掌を灯りのほうへ向けた。
「長く持ったのか」
「二つ数えるくらい。足から出した」
くぐらはそれ以上聞かずに、傷の上に薬を塗り足した。それから汁をよそい、シカネが座ると、その前に置いた。
「言づては聞いた」
くぐらは鍋に蓋をしながら言った。
「あの小僧、門の外から大声で言うて、返事も待たずに走っていったぞ」
「遅くなった」
「届けてから来る、と言うておった。届けたのか」
「一通は。もう一通は明日の朝」
くぐらは、シカネが汁をすするのを見ていた。
「では、明日の朝も出るのだな」
「出る」
くぐらは少し黙ってから、汁のおかわりをよそった。
◇
翌朝、奉行所の用人は書状を受け取り、受取証に印を押した。
用人は書状を読みながら、何度か眉を寄せた。読み終えると、隣の役人に小声で何か言った。シカネに聞こえたのは「大津屋がもう」という言葉だけだった。大津屋が夜のうちに米と人足を集めていることは、もう役所にも伝わっていたらしい。
「宿場への救援は、役所から出す」
用人はそう言った。
「商人に先を越されて、役所が知らん顔をしていたとあっては困るのでな。……川方の戸倉には、話を聞かねばならん」
それ以上のことは、飛脚のシカネには言わなかった。
◇
大津屋の米は、尾根道で運ぶことになった。川の水が引くまで、舟が宿場まで着けないからだ。道を知っているのはシカネだけだったので、シカネが先に立って人足たちを案内した。
人足は一人一俵ずつ背負った。尾根道は細く、二人並んでは歩けない。苔で滑る石のところに来るたびに、シカネは立ち止まって「ここ、滑る」と後ろへ声を送った。声は人足から人足へ順に伝わっていった。
尾根の分かれ道に、平たい岩がある。
その上に、ミズナが座っていた。
「また会ったね」
ミズナは人足の列を見て、米俵を見て、シカネを見た。
「届いたんだ」
「届いた」
「よかったね」
ミズナは岩から降りて、人足の一人から米俵を一つ受け取り、肩に担いだ。人足が慌てたが、ミズナは平気な顔で歩き出した。
「次の宿場まで、僕もそっちだ」
◇
宿場に米が着いたのは、翌日の昼すぎだった。
炊き出しの鍋が、二つ、三つと増えた。粥が濃くなった。炊き出しの女たちは、俵を開けるそばから米を升で量って鍋へ入れ、人足たちは俵を下ろすと、そのまま水を汲みに走った。旅人たちは鍋の前に並び、今度は誰も言い合いをしなかった。
市蔵は、鍋の前に旅人たちを集めた。そして、橋が落ちる三日前から沢が濁っていたこと、それを知らせなかったことを、自分の口で話した。
旅人の何人かは、市蔵を怒鳴った。何人かは黙って粥をすすった。年寄りの馬子は、馬に水をやりながら聞いていた。市蔵は怒鳴られても言い返さず、頭を下げていた。
「謝ったって、俺の荷は流れたまんまだ」
旅人の一人が言った。市蔵は「はい」とだけ答えた。
橋の架け直しには、夏いっぱいかかると、役所から来た役人が言った。
◇
帰り道も、ミズナは「次の宿場まで」と言ってついてきた。上流の宿場に着くと、また「次の宿場まで」と言った。そうして宿場を一つずつ越えるうちに、とうとう城下の入口まで来てしまった。
城下の木戸の前で、ミズナは足を止めた。
「ここまで来たら、君の母さんの顔くらい見ていこうかな」




