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濡らすな

宿場から尾根道を上がり、平たい岩のある分かれ道まで来たところで、ミズナが足を止めた。


この岩の前に来るのも、これで三度目だった。


「ここまでだね」


「次の宿場まで、じゃねえのか」


「次の宿場まで、のつもりだった。でも君はここから尾根を越えて城下へ戻る。僕は、もう少しこの辺をうろうろする」


ミズナは空を見上げた。西の山の端から、灰色の雲が上がってきていた。


「もうすぐ降るよ。その箱、濡らさないようにね」


「わかってる」


「わかってるのは知ってる。言っておきたかっただけ」


ミズナはシカネの懐のふくらみを指さした。


「その干し飯、歩きながら食べなよ。城下まで、まだ遠いでしょ」


「着いてから食う」


「着く前に倒れたら、箱も一緒に転ぶよ」


シカネは懐から包みを出し、ひとつまみ口に入れた。固くて、噛むと少し塩の味がした。


「じゃあ、また」


「また、があればな」


「あるよ。この辺、道が少ないから」


ミズナは岩に腰を下ろし、竹筒を出した。シカネが尾根道を歩き出しても、ミズナは振り返らずに茶を注いでいた。


◇


半刻もしないうちに、また雨が降りだした。


尾根を越えて城下側へ下りる道は、沢に沿っていた。片側が岩壁、片側が沢で、人ひとりがやっと通れる幅しかない。岩壁を伝って落ちてくる水で、道は細い川のようになっていた。


シカネは蓑の前を合わせ、文箱を背中の高いところへ担ぎ直した。二通の書状は、それぞれ油紙で包み、さらに文箱の雨覆いで包んである。それでも、沢に落とせば終わりだ。


足元の石は苔で滑った。シカネは一度、踏んだ石ごと足を取られ、岩壁から突き出た木の根を掴んで止まった。すぐ脇では、茶色く濁った沢の水が大きな音を立てて流れている。城下までは、まだ半日以上かかる。


道が曲がったところで、前に人が立っていた。


行商人の身なりをした男だった。背に小さな荷を負い、頭に手拭いを巻いている。目立たない顔だが、雨の中で荷を下ろそうともせず、道の真ん中に立っていた。


後ろで、石を踏む音がした。


振り返ると、同じような身なりの男が二人、来た道を塞いでいた。


「飛脚か」


前の男が言った。笑うと、右の犬歯が少し見えた。


「書状を二通、持ってるな。宿場の世話役が書いたやつだ」


「なんで知ってる」


「知るのが仕事でね」


男は手拭いを取った。短く整えた髪が、雨に濡れて額に貼りついた。


「朔だ。名乗るほどのことでもないが」


「その書状を置いてけって言うんだろ」


「話が早い。置いていけば通す」


「置いてったら届かねえ」


「届けるのが仕事か」


朔は少しだけ首を傾げた。


「止めるのも仕事だ」


◇


後ろの二人が動いた。


一人が、分銅のついた縄を投げた。縄はシカネの足首に巻きつき、強く引かれた。シカネの体が沢のほうへ傾いた。


シカネはとっさに背中の文箱を両手で掴み、頭の上へ持ち上げた。足が滑り、片膝が沢の縁に落ちた。冷たい水が脛を打ったが、文箱は濡れずにすんだ。


ただ、これでは両手が使えない。


もう一人が、横から棒で打ってきた。シカネは文箱を掲げたまま、肩で棒を受けた。骨まで響く痛みに息が詰まったが、文箱は下ろさなかった。


このままでは殴り返せない。シカネは岩壁を見た。道の脇の腰の高さに、岩が庇のように張り出して、雨が当たらない窪みがあった。


シカネは足首に巻きついた縄をもう片方の足で踏みつけ、ぐいと引いた。縄を握っていた男がつんのめった。その隙に窪みに飛びつき、文箱を奥へ押し込んで、脱いだ蓑を上からかぶせた。


雨が、じかに背中を打った。


シカネは窪みの前に立った。ここから離れれば、文箱を取られる。


「箱を守りながら、三人を相手にするのか」


朔が、感心したような声で言った。


「離れたら、取られる」


「そうだな」


朔は懐から札を一枚出した。


「なら、箱ごと沢に落とせばいい」


札が鳴った。


朔の手元から、雨粒を巻き込んだ風の刃が走った。狙いはシカネではなく、シカネの横の窪みだった。蓑ごと文箱を沢へ吹き飛ばす向きだ。


シカネは手を伸ばした。


去年の秋、峠では知らないうちに術を掴んでいた。今度は、自分で掴むと決めて手を出した。


シカネは、風の刃を素手で掴んだ。


掌が切れて、血がにじんだ。掴んだ風は、そのまま腕に入り込んできた。肘から先が冷たくしびれ、腕の中で何かが暴れ回っているように、指が勝手にびくびくと跳ねる。母の雷ほど重くはないが、速くて、少しもじっとしていない。長くはもたない、とシカネにはわかった。


一呼吸。


朔の目が、わずかに見開かれた。


二呼吸。


腕のしびれが肩まで上がってきた。シカネは朔に向かって大きく踏み込み、その足で、掴んだ風を地面へ吐き出した。


足元で、泥と雨粒が弾けた。シカネの体は、地面を蹴っただけでは出ないような速さで前へ飛び、朔との間合いが一気に消えた。


拳が、朔の胸に届いた。


朔は腕を交差させて胸の前で受け、後ろへ跳んで勢いを殺した。それでも足が泥に滑り、背中から岩壁にぶつかった。


後ろでは、縄の男と棒の男が窪みへ走っていた。


シカネは振り返り、棒の男の腕を掴んで窪みから引き剥がし、道へ投げ倒した。縄の男が蓑に手をかけたところで、その襟首を掴んで持ち上げ、沢とは反対側の泥の上へ落とした。


シカネは、また窪みの前に立った。


息が上がっていた。右の掌は浅く裂けて血が出ている。棒を受けた肩が熱を持っていた。腕のしびれは、もう消えていた。


朔が、岩壁から背中を離した。


胸を押さえて顔をしかめていたが、口の端は少し上がっていた。


「今の、何だ」


「知らねえ」


「知らねえで、人の風を掴むのか」


朔は、倒れた配下二人を見て、窪みの蓑を見て、それからシカネを見た。


「……割に合わないな」


朔は札を懐にしまった。


「雇い主には、届かなかったと言っておく」


朔が顎で合図をすると、配下の二人は呻きながら立ち上がり、朔の後ろについた。


「届いたら、それは俺の知ったことじゃない」


朔はそう言って、来た道とは違う、岩壁の裂け目のような細道へ消えていった。


◇


右の掌の血は、雨に流されてもまたにじんできた。シカネは手拭いを裂いて、掌に巻いた。


シカネは窪みから蓑を取り、文箱を引き出した。


雨覆いを開き、油紙を確かめた。


一通目は乾いていた。


二通目は、油紙の端が一か所、指の先ほど湿っていた。蓑の隙間から雫が入ったらしい。中の紙までは染みていなかった。


シカネは袖の内側の、まだ濡れていない布で、油紙の湿りを押さえて拭いた。もう一度包み直して雨覆いを締め、文箱を背負った。


蓑は、文箱の上からかぶせた。自分の背中には、何もかけなかった。


雨が、首筋から背中へ流れ込んだ。


シカネは背を丸め、文箱を体でかばうようにして、残りの道を走り出した。

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