二通の書状
夜明け前、シカネは屋敷の門の前で、笠の紐を自分で締めた。
くぐらは門柱にもたれて、それを見ていた。一度手を出しかけたが、引っ込めて腕を組んだ。
「二日」
「二日」
「では、二日目の日暮れに」
くぐらはそれ以上何も言わなかった。シカネが角を曲がるまで、門の前から動かなかった。
◇
街道から尾根道を抜け、川沿いの宿場へ下りる手前に、あの分かれ道がある。真ん中に平たい岩がある分かれ道だ。
その岩の上に、ミズナが座っていた。
同じ灰緑の小袖を着て、同じ竹筒から茶を注いでいる。二日前に会ったときと、座っている場所まで同じに見えた。
「また会ったね」
ミズナは湯呑みを軽く上げた。
「そのときは、そのときだ」
「……西へ行ったんじゃねえのか」
「行ったよ。行って、戻ってきた。向こうの宿場、つまらなかったから」
ミズナは茶を飲み干して、岩から降りた。
「宿場に戻るんでしょ。川沿いの」
「なんでわかる」
「顔に書いてある。それに、その箱、空っぽの音がする」
シカネが背中の文箱を揺すってみると、確かに乾いた音がした。
「次の宿場まで、僕もそっちだ」
◇
宿場は、シカネが出ていった二日前よりひどくなっていた。
川の水は少し引いていた。その代わり、水が引いたあとの泥が、宿場の通りを膝の高さまで埋めていた。旅籠の軒先にあふれていた旅人は、半分ほどに減っていた。炊き出しの女の話では、山越えを試みて戻ってきた者もいれば、戻ってこない者もいるという。
山越えに出た若い者は、旅籠の前で薪を割っていた。脛に巻いた布が泥で汚れている。シカネに気づくと、斧を下ろして頭を下げた。
炊き出しの鍋は一つだけで、粥は一日一回になっていた。
鍋の前には列ができていた。列の後ろのほうで、旅人と宿場の男が言い合っている。宿場の者が先に食うのはおかしい、と旅人が言い、ここは宿場の米だ、と宿場の男が言い返す。二人の声が大きくなりかけたところで、ミズナが列の横を通りながら、ぽつりと言った。
「どっちの米でも、あと二日分くらいだね。喧嘩してると一日分になるよ」
二人は黙った。
列の中ほどには、年寄りの馬子が欠けた椀を持って並んでいた。馬子の馬は旅籠の裏の杭につながれて、首を下げていた。
シカネが列の横を通って旅籠へ向かおうとすると、炊き出しの女が杓子を持ったまま呼び止めた。
「あんた、飛脚さんだろ。城下から戻ってきたのかい」
「世話役に用がある」
「旦那なら帳場だよ。ここんとこ、ろくに寝てない」
女は杓子で鍋の底をこすった。
「旦那が大丈夫だって言ったのに、って言ってる人もいるよ。旦那の前では、誰も言わないけどね」
列の後ろの旅人が、聞こえよがしに舌打ちをした。女はそれには何も言わず、次の椀に粥をよそった。
◇
市蔵は帳場にいた。
二日前より、頬がこけていた。宿帳は閉じたまま、帳場の隅に積まれている。市蔵はシカネの顔を見ると笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「戻ってきたんですか」
「書状を書いてもらいに来た」
シカネは、城下で律と清兵衛から聞いたことを話した。戸倉の報告のことも、大津屋のことも話した。
市蔵は、話の途中で何度か目を閉じた。
「本当のことを書いてくれ」
シカネは言った。
「被害がどれだけか。何が足りないか。いつからそうなのか。あんたの名前で」
市蔵は帳場の縁を指でなぞった。
「救援の書状なら、もう書きましたよ」
「突き返された」
「それは役所が――」
「役所は、被害は軽いって書いてる。あんたの書状も、たぶん軽く書いてあったんだろ。だから突き返しやすかった」
市蔵は答えなかった。
いつの間にか、ミズナが中に入ってきて、帳場の脇の柱にもたれていた。市蔵を見ていたが、責めるような顔はしていなかった。
「前から知ってたんでしょ。川のこと」
ミズナは軽い調子で言った。
市蔵の肩がびくりと揺れた。
「言わなかった理由、たぶん君は、悪いと思ってない。客を逃がしたくなかった。宿場の評判を落としたくなかった。それも、宿場を守るためだったんだよね。宿場のみんなの稼ぎを」
ミズナは柱から背中を離した。
「それは本当だと思うよ。守りたかったのは本当。ただ、そのとき一緒に、自分の帳面も守りたかった。それだけ」
市蔵は帳場の縁を握りしめた。指の関節が白くなった。
長いあいだ、誰も口をきかなかった。
「……橋が落ちる、三日前からです」
市蔵の声はかすれていた。
「上の沢が濁ってたんです。毎年、梅雨にはこうなる。でも、あの色は毎年の色じゃなかった。知らせれば客が逃げる。一度逃げた客は、次から別の宿場に泊まる。そう思ったんです」
市蔵は顔を上げなかった。
「馬子の爺さんが言ったことは、本当です。私は、大丈夫だと言いました」
◇
市蔵は書状を書いた。
最初の救援の書状を書いたときより、筆の運びがずっと遅かった。何度も手が止まり、何度も書き直して、紙を二枚無駄にした。
シカネは表へ出た。帳場の前に立っていても、市蔵の筆が速くなるわけではない。
ミズナは旅籠の前の縁台に腰かけて、子供たちが桶を洗うのを眺めていた。
「書いてる?」
「書いてる。遅い」
「最初のは、速かったんでしょ」
「ああ」
シカネはミズナの隣に腰を下ろした。
「あいつ、どうなる」
「世話役さん?」
「書いたら、役所にも米問屋にも、あいつが知らせなかったのがわかる」
「わかるね」
ミズナは子供たちのほうを見たまま言った。
「宿場の人にも、旅の人にも、そのうちわかる。怒る人もいると思うよ」
「書けって言ったのは、俺だ」
「うん。でも、書いてるのはあの人だよ」
シカネはそれ以上、何も聞かなかった。
日が西に傾きかけたころ、若い者が呼びに来た。帳場に戻ると、市蔵は二通目の終わりを書いていた。
一通は役所宛てだった。戸倉ではなく、その上の奉行に宛てた。もう一通は大津屋宛てだった。どちらにも同じことを書いた。けが人の数と、戻ってこない者の数。米があと何日もつか。橋が落ちる三日前から沢が濁っていたこと。それを自分が知らせなかったこと。
最後に自分の名を書き、印を押した。今度の印は、ずれていなかった。
シカネは二通を受け取り、油紙で一通ずつ別々に包んで、文箱に収めた。
市蔵は、閉じた宿帳の上に両手を置いた。
「ここを捨てて、どこへ――」
市蔵はそこで言葉を切った。それから、何も言わずに深く頭を下げた。
◇
シカネが宿場を出ようとしたとき、炊き出しの列の端から、年寄りの馬子が寄ってきた。
馬子は黙って、小さな包みをシカネの懐に押し込んだ。中身は干し飯で、ちょうど一日分くらいの量だった。
「爺さん、これ――」
「俺は馬の分しか食わんでいい」
馬子はそう言って、列に戻っていった。
シカネは懐の包みを手で押さえた。横で、ミズナがそれを見ていた。
「いい人だね」
「ああ」
「君もね」
ミズナは何でもないことのように言って、尾根道のほうへ歩き出した。




