握りつぶされた書状
上流の宿場から城下へ向かう街道は、もう乾いていた。
同じ雨が降ったはずなのに、こちら側の川は堤の内側をおとなしく流れている。
城下まであと二里という分かれ道で、ミズナが足を止めた。
「僕はこっち」
ミズナは西へ折れる細い道を指さした。
「次の宿場まで、って言ってたろ」
「うん。だから次の宿場まで一緒に来た。ここから先は、僕の行きたい方とずれるんだ」
ミズナはあっさり言って、荷を肩にかけ直した。
「また会ったら、そのときはそのときだね」
「……助かった。道と、縄と」
「どういたしまして。君、礼を言うとき帯をいじる癖があるね」
シカネは帯から手を離した。ミズナは短く息で笑い、西の道へ歩いていった。一度も振り返らなかった。
◇
城下外れの屋敷の前で、くぐらが待っていた。
門の内側ではなく、外の往来に、背の高い女が一人で立っている。
くぐらは紙を一枚持っていた。シカネが近づくと、その紙をこちらへ向けた。
――四日目になる。 シカネ
「届いた」
くぐらは言った。
「昼前に、飛脚が持ってきた。上流の宿場の印がある。おぬしが着く、半刻前だ」
「そうか」
くぐらは紙をたたんで懐にしまうと、シカネの前にしゃがみ込んだ。足首を掴み、すねを押し、膝の裏を押す。それから立ち上がって、シカネの腕を取り、袖をまくった。崖を下りたときの縄の擦り傷が、手首に赤く残っていた。
くぐらはその傷を指でなぞった。
「四日目の日暮れには、まだ早い」
声は静かで、怒ってはいなかった。
「腹は」
「減ってる」
くぐらは門の内へ入っていった。シカネが後について土間へ入ると、くぐらは竈の脇の笊から握り飯を二つ取り、皿にのせて上がり框に置いた。朝のうちに握っておいたものらしく、表が少し乾いていた。
シカネは立ったまま、一つ目にかぶりついた。
「座って食え」
シカネは框に腰を下ろした。くぐらは水瓶から椀に水を汲んで、皿の横に置いた。それから土間の隅に立って、シカネが食べ終えるまで黙って見ていた。
二つ目を食べ終えると、シカネは水を飲み干して立ち上がった。
「役宅と問屋に行ってくる。話さなきゃならねえことがある」
「日暮れには戻るか」
「戻る」
くぐらは空いた皿を取り上げた。
「では、行け」
◇
陰陽方の役宅の一室で、シカネは律に会った。
律は机に向かって帳面に何か書いていたが、シカネが入ってくると筆を置いた。目の下にうっすらと隈がある。
「三日、どこで何をしていた」
「話すって言ったろ」
シカネは、宿場で見たことを順に話した。突き返された書状の封のことも、尾根道で会った男と、崖の下から助けた母子のことも話した。
律は一度も口を挟まず、聞きながら書きとめた。書き終えても筆を置かず、しばらく黙っていた。
「その書状を突き返したのは、たぶん戸倉重房という人だ」
「誰だ」
「役所で、川と堤を受け持っている人だ。昨日、私は景綱さまの用で役所に出ていて、その人の部下が書いた報告を見た。机の上に、たまたま置いてあった」
律は声を落とした。
「『川沿いの宿場、被害は軽微。橋は流失せるも、往来は迂回にて足る』」
「迂回なんかねえ。俺は獣道と尾根道を一日かけて抜けたんだ」
「わかっている」
律は帳面の端を指でそろえた。
「戸倉という人は去年、よその領の大普請の手伝いを命じられた。上から割り当てられた普請だから、断れない。その費用を、自分の領の堤の修繕から回したと、役所の中では噂になっている」
「堤の修繕を、しなかったのか」
「したことにしてある、と聞いた。ただ、あの宿場の上の堤がどの堤なのかまでは、私にはわからない」
シカネは、市蔵の白い顔を思い出した。何度も川を見に行っては、宿帳を開いていた顔だ。
「切れたのが手抜きの堤だったら、救援を出せば、なんで切れたのかも調べられる」
「そういうことだ」
「だから、受け取らなかったのか」
「受け取れば、見に行かなければならなくなる」
尾根道でミズナが言ったことと同じだった。
「あんたから役所に言えねえのか」
律は首を横に振った。
「私は陰陽方の者だから、川の役所に口を出す権限はない。景綱さまに話すことはできる。だが景綱さまが動いても、役所同士の話になる。日がかかる」
「何日だ」
「わからない」
律は正直に言った。それから、小さく付け加えた。
「三日、君を見ていなかったと、報告に書いた。君から聞いたことも、聞いたとおりに書いた。……崖の母子のことも」
◇
問屋に戻ると、清兵衛は帳場でそろばんを弾いていた。
土間では弥吉が、届いたばかりの荷の紐をほどいていた。シカネを見ると、手を止めて立ち上がった。
「お前さあ、三日で戻るって言ってたろ。どこほっつき歩いてたんだよ」
「川沿いの宿場だ。橋が落ちた」
弥吉は何か言いかけて、帳場のほうを見た。清兵衛がそろばんを弾きながら、こちらに顔を向けていた。
シカネが話し終えるまで、清兵衛はそろばんから手を離さなかった。ただ、珠を弾く音は、話の途中で何度か止まった。
「役所が受け取らないなら」
清兵衛はそろばんを置いた。
「受け取る人に届けりゃいい。米を持ってる人間にね」
「米」
「あの宿場は、城下の大津屋と長い取引がある。米も味噌も、旅籠の布団まで大津屋から入れてるんだ。宿場が潰れたら、大津屋はつけで売った分を取りっぱぐれる。だから大津屋は、宿場に潰れてほしくない」
清兵衛は帳面を一冊抜き出して、ぱらぱらとめくった。
「大津屋が米を出す。舟を出す。人を出す。商人が先に動けば、役所も知らん顔はできなくなる。知らん顔をしていたら、商人に先を越されたことになるからね」
「それで本当に動くのか」
「動くさ。ただし」
清兵衛は帳面を閉じた。
「大津屋が動くには、宿場の世話役の書状が要る。被害がどれだけか、何が足りないか、いつからそうなのか。それを世話役本人の名で、本当のことを書いた書状だ。飛脚が口で伝えた話だけじゃ、商人は米を出さないよ」
「本当のこと」
「本当のことだよ。被害を小さく書いた書状なら、大津屋だって少ししか出さない」
シカネは、市蔵の手を思い出した。馬子の肩に置いて、馬子の言葉を遮った手だ。
「俺が、書いてもらってくる」
清兵衛は、目尻の皺を少しだけ深くした。
「駄賃は大津屋に出させる。うちの持ち出しは、お前の草鞋代だけだ」
清兵衛は後ろの棚から新しい草鞋を一足取って、帳場の端に置いた。
弥吉がシカネの足元を覗き込んだ。
「お前さあ、その草鞋で明日も山に入る気だったのか。踵、ほとんど残ってねえぞ」
シカネは自分の足を見た。左の草鞋は踵の藁がすり切れて、足の裏が半分泥についていた。シカネは帳場の草鞋を取って、懐に入れた。
◇
屋敷に戻ると、くぐらが土間で汁を温めていた。
シカネは上がり框に腰を下ろし、草鞋の紐をほどかないまま言った。
「また行く。宿場に」
くぐらの手が止まった。
「明日、尾根道で戻る。世話役に書状を書かせて、それを持って帰ってくる」
くぐらは鍋の下の火を見ていた。しばらくして、言った。
「何日だ」
シカネは数えた。行きに一日。宿場で書状を書いてもらって、帰りに一日。
「二日」
くぐらは鍋をかき回した。
「……二日だな」
くぐらの手が、自分の髪へ伸びた。まとめた黒髪の内側を指で探り、何かをつまみかけて――止まった。
その手は、何も取らずに髪から離れた。
くぐらは椀に汁をよそって、シカネの前に置いた。
「食え。二日分、食っておけ」




