次の宿場まで
市蔵は、突き返された書状を帳場に置いたまま、長いあいだ動かなかった。
若い者は奥で脛の手当てを受けている。
シカネは帳場の前に立った。
「その封、貼り直してあった」
市蔵が顔を上げた。
「あんたが押した印が、半分ずれてる。一回剥がして、また貼ってある」
市蔵は書状を見下ろし、ずれた印を指でなぞった。
「……役所が開けたんでしょう。中を確かめるのは、お役人の仕事ですから」
「開けて、読んで、突き返したのか」
「わかりませんよ、私には」
市蔵は書状を宿帳の下に押し込み、それきり何も言わなかった。
◇
シカネは裏山へ入った。
市蔵は、もう止めなかった。帳場に座ったまま、川のほうを見ていた。
獣道は、思っていたよりひどかった。
ゆうべまでの雨で、斜面の土がゆるんでいる。草鞋の裏に泥がまとわりつき、一歩ごとに足が重くなった。ところどころに、折れた枝や滑った跡、血のついた石があった。若い者が通った跡だろう。
半刻ほど登ったところで、道が二つに分かれていた。
分かれ道の真ん中には平たい岩があって、その上に男が一人座っていた。
旅装の男だった。薄い灰緑の小袖を着て、小さな荷を一つ脇に置いている。細身で、肩の力が抜けていた。男は膝に小さな湯呑みを乗せ、竹筒から茶を注いでいた。
男は、登ってきたシカネを見上げた。
「そっちは崩れてるよ」
男は顎で右の道を示した。
「僕も今、戻ってきたとこ。途中で道ごと谷に落ちてる。あれは無理だね」
「左は」
「左は尾根に出る。尾根伝いに行けば、上流の宿場に出るよ。城下へ回る街道がある宿場」
「どれくらいかかる」
「僕の足で半日。君の足なら……」
男はシカネの脚を眺めた。
「もう少し早いかな」
シカネは左の道を見た。細いが、崩れてはいない。
「助かった」
シカネが歩き出そうとすると、男は湯呑みの茶を飲み干して岩から降りた。竹筒と湯呑みを荷にしまい、シカネの横に並ぶ。
「僕も行く」
「なんでだ」
「暇だから」
男は、本当にそれだけの理由で来るらしかった。
「ミズナ。君は?」
「シカネ。飛脚だ」
「だろうね。その箱、飛脚の箱だ」
◇
尾根道は、ミズナの言ったとおりだった。
細いが、足元はしっかりしている。ミズナは先に立ち、ときどき振り返りながら、軽い足取りで歩いた。この道を前にも通ったことがあるようだった。
「宿場から来たんだよね。川沿いの」
「橋が落ちた」
「そうらしいね。上から見えたよ。宿場のまわり、すっかり水だった」
ミズナは、何でもないことのように言った。
一刻ほど歩いたとき、谷の下から声がした。助けを呼ぶ声というより、泣き疲れた子供の細い声だった。
シカネは足を止め、尾根の縁から下を覗いた。
斜面を十間ほど下ったところに、女と子供がいた。崩れた土砂に半分埋もれた木の根に、二人でしがみついている。女は片足を変な向きに曲げていた。子供は五つくらいの男の子で、女の着物の袖を握って震えていた。
「旅の人だね。宿場から山越えしようとしたのかな」
ミズナが横から覗き込んだ。
「縄、あるか」
「あるよ」
ミズナは荷の中から、細いが丈夫そうな縄を一巻き出した。シカネが受け取ると、ミズナは縄の端を近くの太い杉の幹に巻きつけ、手早く結んだ。
「僕が上で縄を見てる。君が下りる。体重、どれくらい?」
「二十六貫くらい」
「重いね。でも、この木なら持つよ」
シカネは縄を体に巻いて、斜面を下りた。
足元の土が崩れて、草鞋が滑るたびに、縄が張って体を支えた。上ではミズナが、シカネの足の運びに合わせて、縄を少しずつ送り出していた。
女のところまで下りた。
「大丈夫か」
女は答えられなかった。唇が紫色になっている。ゆうべからここにいたのかもしれない。
シカネは子供を先に背中に負い、帯で縛った。それから女を前に抱えた。足が揺れて、女が呻いた。
「我慢してくれ」
シカネは上に向かって声を張った。
「上げてくれ!」
縄がぴんと張った。シカネは足で斜面を蹴り、縄を手繰って登った。二人分の重さが、肩と腰にかかる。背中では子供が泣いていた。
シカネが尾根の縁に手をかけると、ミズナが手を伸ばして女の腕を掴み、引き上げた。
◇
女の足は折れていた。ミズナが枝で添え木を作り、シカネが布で縛った。子供は、シカネが持っていた干し飯を黙って食べていた。
「宿場の世話役さんが、山を越えれば城下へ出られるって」
女が、震える声で言った。
「旅籠に泊まるお金がなくて。橋が落ちたら、いつ出られるかわからないからって」
シカネはミズナを見た。ミズナは添え木の結び目を確かめていた。
「僕らが運ぶよ。上流の宿場まで」
ミズナは女にそう言ってから、シカネのほうを向いた。
「いいよね?」
「ああ」
シカネは女を背負い、ミズナは子供を抱いた。
◇
歩きながら、シカネは書状のことを話した。
城下の役所で突き返されたこと。封が貼り直されていたこと。市蔵がそれ以上何も言わなかったこと。
ミズナは子供を抱えたまま、黙って聞いていた。聞き終えると、軽く首を傾げた。
「開けて、読んで、受け取らなかった。読んだうえで、要らないってことだね」
「救援の書状だぞ」
「うん。だから、要らないっていうより」
ミズナは少し考えた。
「受け取ったことに、したくない、かな。受け取ったら、助けなきゃいけなくなる。助けたら、なんでこうなったのか聞かれる」
シカネは黙って歩いた。
「世話役さんのほうはね」
ミズナは続けた。
「たぶん、困ってるのは本当。宿場を助けたいのも本当。でも、困ってる理由の中に、君に言いたくないのが混じってる。それだけだよ」
「何が混じってる」
「さあ。それは本人に聞かなきゃ」
ミズナは腕の中の子供を軽く揺すって、笑った。
「僕が言うと、決めつけになるからね」
◇
上流の宿場に着いたのは、日が西の山にかかる頃だった。
シカネたちは、女と子供を宿場の医者に預けた。医者は何も聞かずに引き受けてくれた。この宿場には、川沿いの宿場が水に囲まれていることも、まだ伝わっていなかった。
日が沈みかけていた。くぐらと約束した、三日目の日暮れだった。
城下までは、ここからまだ半日かかる。
シカネは宿場の問屋を探した。小さな問屋で、帳場にいた老人に紙と筆を借りた。
宛名は「城下外れ くぐら」と書いた。
中身は一行だけだった。
――四日目になる。 シカネ
シカネは老人に駄賃を払い、明日一番の便で城下へ届けてくれるよう頼んだ。老人は受取の控えに印を押して、シカネに渡した。
シカネは控えを、文箱から出した受取証と重ねて油紙に包み、懐にしまった。
振り返ると、ミズナが問屋の戸口にもたれて、面白そうにこちらを見ていた。
「待ってる人?」
シカネは少し考えた。
「……待ってる」
「そっか」
ミズナは戸口から背中を離した。
「じゃあ、君は明日、城下までだね。僕も次の宿場まで、そっちだ」




