落ちた橋
夜が明けると、宿場じゅうの人間が川岸に集まっていた。
雨は小降りになっていたが、川の幅は昨日の倍になっていた。昨日まで岸だった草地は水の下に沈み、茶色い流れが、折れた枝や桶や藁屋根の切れ端を運んでいく。
橋は、なかった。
こちら側には橋脚が二本だけ残っていて、その先には何もない。向こう岸にも橋脚が一本、傾いて立っている。そのあいだに架かっていた板と梁は、夜のうちに流されたのだろう。
「なんてこった」
旅人の誰かが言った。
シカネは岸に立って、下流のほうを見た。川沿いに城下へ続くはずの道は、崖崩れの土砂で埋まっていた。上流のほうは山が川に迫っていて、道がない。
宿場は川と山に挟まれて、どこへも出られなくなっていた。
年寄りの馬子は自分の馬の手綱を握ったまま、少し離れたところで川上のほうを見ていた。
◇
「すぐに水は引きますよ」
市蔵が旅人たちの前に立ち、両手を広げた。
「この川は毎年、梅雨にはこうなるんです。三日もすれば元通り。橋だって、お役所がすぐ架け直してくれます。それまでは、うちの宿場でゆっくりしていってください。お代は勉強しますから」
旅人たちの顔が、少しだけ緩んだ。
シカネは市蔵の顔を見ていた。市蔵は笑って手を揉んでいたが、顔色は、昨日川を見て戻ってきたときと同じように白かった。
「毎年って言うけどよ」
旅人たちの後ろから、しわがれた声がした。馬を引いた年寄りの馬子だった。
「三日前から、川の色が変だったろう。上のほうの沢が、えらく濁ってた。俺は昨日、ここで足を止めたほうがいいか、旦那に聞いたんだ。旦那は大丈夫だって——」
「爺さん」
市蔵が、馬子の肩に手を置いた。
「疲れてるんだよ。中で茶でも飲んでいきな。な」
市蔵は笑ったまま、馬子を旅籠のほうへ押していった。馬子はまだ何か言おうとしたが、市蔵は肩に置いた手を離さなかった。
シカネは、その手を見ていた。
◇
昼前、市蔵は帳場で書状を書いた。
書き慣れた手つきで、筆は速かった。書き終えると封をして、宿場の若い者を呼んだ。二十歳くらいの、脚の長い男だった。
「山越えで城下へ行け。役所の、治水のお役人に渡すんだ。救援を頼む書状だ」
「山越えですか。獣道しか——」
「お前の足なら半日で抜けられる。行け」
シカネは土間から立ち上がった。
「俺も行く。山道なら慣れてる」
市蔵が笑顔で振り返った。
「飛脚さんはお客さんですよ。お客さんを危ない山に行かせるわけにはいきません」
「客じゃねえ。飛脚だ。書状を運ぶのが仕事だ」
「うちの書状は、うちの者が運びます」
市蔵の声は柔らかかったが、そこから先は一歩も譲らなかった。
若い者が草鞋を履き替えているあいだに、女中が握り飯を二つ包んで持ってきた。若い者はそれを腰に括りつけ、書状をそのまま懐に入れようとした。
「待て」
シカネは文箱を開けて、油紙を一枚出した。
「これに包んでおけ。山には沢がある。汗でも濡れる」
「濡れたって、読めりゃいいでしょう」
「墨がにじんだら読めねえ」
若い者は市蔵の顔をうかがった。市蔵がうなずいたので、若い者は油紙を受け取った。シカネは書状を包むのを手伝い、端を二度折り返して、紐で縛ってやった。
「沢は、岩の上を跳ぶな。浅いところを歩いて渡れ。そのほうが転ばねえ」
「はい」
若い者は包んだ書状を懐に入れ、裏山へ続く道を走っていった。
◇
その日、水は引かなかった。
雨は止んだり降ったりを繰り返し、川の水かさはほとんど変わらなかった。旅籠の飯は昼から粥になり、夜にはその粥も薄くなった。宿場の米は、旅人の分まで入れても、あと何日ももたないらしい。旅人たちの顔から、朝の緩みが消えていった。
夕方、旅籠の裏で炊き出しが始まった。客が多すぎて、旅籠の台所だけでは間に合わない。宿場の女たちが大鍋を二つ外へ出し、軒の下に石を組んで火を焚いた。
米は市蔵の蔵から出した。シカネは頼まれて、米俵を蔵から鍋の前まで担いだ。二俵目を下ろしたとき、蔵の中を覗いた女中が小声で言った。
「旦那、これで棚が空きますよ」
「わかってる。水を多めにしな」
市蔵はそれだけ言って、帳場へ戻っていった。
粥は旅籠の客にも宿場の者にも、同じ椀で配られた。シカネも並んで一杯もらった。椀の底の米粒が数えられるくらいの粥だった。
◇
夜、シカネは湿った草鞋を、土間の竈の残り火のそばに立てかけた。
表の馬小屋のほうで、馬が鼻を鳴らした。覗いてみると、年寄りの馬子が提灯の明かりで、藁束を使って馬の脚をこすっていた。
「眠れねえのか、飛脚の兄さん」
「草鞋が乾くのを待ってる」
「こいつもだ。脚が冷えると、次の日に歩けなくなる」
馬子は手を止めずに言った。
「あの若いの、もう城下に着いた頃だな」
「山道は、半日か」
「あいつの足ならな。俺なら一日かかる。この馬じゃ、通れもしねえ」
馬子は藁束を持ち替えて、反対の脚をこすり始めた。
「明日の朝には戻ってくるだろうよ。お役人が、話の早い人ならな」
三日目の日暮れに帰ると、くぐらには言ってある。
明日が、その三日目だった。
◇
翌朝、シカネは帳場の前に立った。
「山道を教えてくれ」
市蔵は宿帳から顔を上げた。
「どちらへ」
「城下へ帰る。約束がある」
「約束」
「今日の日暮れに帰るって言ってある」
市蔵は少しのあいだシカネを見てから、困ったように笑った。
「獣道ですよ。昨日の若いのだって、まだ戻ってこない。一人じゃ無理です」
「あいつが半日で抜けられるなら、俺も抜けられる」
「道を知らないでしょう」
「だから教えてくれって言ってる」
市蔵は宿帳を閉じ、その上に両手を重ねた。
「……今、宿場を出られると困るんですよ」
「困る?」
「お客さんが一人出ていけば、みんな出ていきたがる。山道で誰か死んだら、宿場の名に傷がつく。わかるでしょう」
市蔵が困っている理由は、ほかにもありそうだった。
そのとき、旅籠の戸が開いた。
泥だらけの男が、土間に転がり込んできた。昨日、山越えに出た若い者だった。草鞋が片方なく、脛から血が流れている。
「旦那」
若い者は懐から書状を出した。昨日、市蔵が封をした書状だった。
「城下の役所で……受け取れぬ、と」
市蔵の顔から、笑みが消えた。
「受け取れぬ? 救援の書状だぞ」
「わかりません。門でずっと待たされて、やっと出てきたお役人が、これは受け取れぬと。宿場の被害は小さいと聞いている、と」
市蔵は、若い者の手から書状をひったくった。
シカネは、その書状の封を見た。
市蔵が押した封の印が、半分ずれていた。一度剥がして、貼り直した跡だった。




