濡れた受取証
戸を開けると、くぐらが戸口にしゃがんで、シカネの笠の紐を結び直していた。
夜明け前の路地に、細い雨が降っている。
「紐が緩んでおった」
「昨日、締めた」
「緩んでおった」
くぐらは結び目を指で押さえ、もう一度締めた。半年前に比べると、力の加減はずいぶんうまくなっていて、紐はちぎれずに済んだ。
梅雨に入って、十日になる。
年明け、松が取れる前に、シカネは寺へ返事を運んだ。住職は拾い子帳を開き、おみつが山門の前にいた日の頁を読んで聞かせた。
お兼から八百文が戻ったのも、年が明けてからだった。シカネは鏡を返し、預かり書を引き取った。
「今日は、どこへ行く」
「川沿いの宿場。反物と書状を届ける」
「何日かかる」
「三日」
くぐらの手が止まった。
「三日」
「往きに一日、向こうで一日、帰りに一日」
「長い」
「普通だ」
くぐらは笠をシカネに渡して立ち上がり、空を見上げた。灰色の雲が、屋根のすぐ上まで垂れている。
「降らせぬように、してやろうか」
シカネは笠をかぶりかけた手を止めた。
「やめとけ」
「なぜだ。濡れずに済む」
「あんたが大きい力を使えば、役宅に知れる。景綱さんが飛んでくる」
「飛んでくればよい」
「よくねえ」
くぐらは不服そうに雲を睨んだが、雲は何も変わらなかった。
「……三日だな」
「三日」
「では、三日目の日暮れに」
くぐらは戸口の脇に置いてあった竹の皮の包みを取り上げた。
「これも持っていけ」
包みは、両手に乗るくらいの大きさだった。皮の上から、握り飯が三つ並んでいるのがわかった。前は拳ほどもあったが、今はひと回り小さく、どれもきちんと三角になっている。
「三日分か」
「今日の分だ。この湿りでは、明日までもたぬ」
「宿場で食うからいい」
「宿場の飯が、おぬしの口に合うかわからぬ」
シカネは包みを荷の上に括りつけた。くぐらは結び目を見て、自分で一度ほどき、もう一度結び直した。
◇
路地の角で、律が待っていた。
笠の下の顔が、いつもより硬い。律は細い筒を胸に抱え、雨がかからないよう袖で覆っていた。
「今日は、同行できない」
律は前置きなしに言った。
「役所に用がある。昨年の秋の件で、景綱さまの代わりに説明に出なければならない」
「そうか」
「三日のあいだ、君を見ていないことになる」
「見てなくても、俺は宿場に行って帰ってくるだけだ」
「わかっている」
律は筒を抱え直した。
「わかっているが、見ていないものは報告に書けない」
律は袂から小さな帳面を出しかけて、雨を見て、またしまった。
「せめて、泊まる旅籠を教えてほしい」
「向こうで決める。この雨だと、どこも満室かもしれねえ」
「では、川沿いの宿場、とだけ書いておく」
律がそれを大事にしていることは、この半年でシカネにもわかっていた。シカネは少し考えてから言った。
「帰ったら、どこで何したか話す」
律はシカネの顔を見て、小さくうなずいた。
「……聞いたことは、聞いたと書く」
◇
街道は、ぬかるんでいた。
城下を出て一里のところにある茶屋は、暖簾を下ろしていた。この雨では客が来ないのだろう。それでも戸が半分開いていて、シカネが通りかかると、お澄が顔を出した。
「こんな日に行くのかい」
「仕事だ」
「笠、破れてるよ」
言われて見ると、笠の縁が指一本ぶん裂けていた。くぐらが紐を締めるときに、縁を強く掴んだのかもしれない。
お澄は奥から古い笠を持ってきて、破れた笠をシカネの頭から取り上げた。
「返すのは晴れてからでいいよ」
「団子は」
「こんな日に焼いてないよ。……帰りに焼いといてやる」
◇
川沿いの道に入ると、水の音が大きくなった。
いつもは澄んでいる川が、茶色く濁っていた。岸の草は水に浸かって、流れのほうへ倒れている。渡るはずの飛び石は、どれも水の下に沈んでいた。
シカネは上流の浅瀬まで回り、膝まで水に浸かって渡った。文箱は頭の上に掲げた。去年の秋に峠の沢を渡ったときと同じやり方だが、足にかかる流れは、あのときよりずっと強かった。
向こう岸で文箱を開けてみると、油紙は乾いていた。反物の包みに巻いた雨覆いも、どこも濡れていない。
宿場に着いたのは、日が傾いてからだった。
◇
川沿いの宿場は、思ったよりにぎわっていた。
雨で足止めされた旅人が、軒先にあふれている。旅籠の前の杭には、荷を積んだ馬が三頭つながれていた。
「これはこれは、飛脚さん」
一番大きな旅籠の前で、首の太い男が手を揉んでいた。濃い茶の仕事着に手拭いを掛け、脇に分厚い宿帳を抱えている。宿場の世話役の市蔵だと、前に来たときに聞いていた。
「城下から反物と書状。こっちが受取の帳面だ」
「ご苦労さまです。いやあ、この雨でね、どこもかしこも満室ですよ。うちなんか、廊下にまで布団を敷いてる」
市蔵は嬉しそうに言って反物を受け取り、帳面に印を押した。そのとき軒から雫が一滴落ちて、受取証の紙を濡らした。シカネは急いで紙を振って水を切り、文箱にしまった。
「お泊まりは」
「どこか空いてるか」
「空いてませんよ。……でも飛脚さんなら、土間でよければ」
「それでいい」
旅籠の中は、人と荷でいっぱいだった。
シカネは土間の端に荷を下ろし、文箱を開けて中を確かめた。書状はもう渡したから、残っているのは受取証と、油紙の替えと、矢立だけだった。
「飛脚さん、来る途中、川はどうでした」
市蔵が湯呑みを二つ持って、土間に下りてきた。一つをシカネに渡す。
「濁ってた。飛び石が沈んでたから、上の浅瀬を回った」
「ああ、あそこが沈みましたか」
「膝まであった」
「毎年のことですよ。梅雨の終わりには、いつもこのくらいになる。お茶、熱いうちにどうぞ」
市蔵はそう言って笑い、帳場から呼ばれると、自分の湯呑みを持ったまま上へ戻っていった。
◇
夕方になって、雨が少し弱まった。
シカネが旅籠の土間で草鞋を干していると、市蔵が外へ出ていくのが見えた。笠もかぶらずに、川のほうへ歩いていく。
しばらくして戻ってきた市蔵は、肩が濡れていて、顔が出ていくときより少し白かった。
市蔵は帳場に座って宿帳を開き、今夜の客の名前を指で一つずつなぞった。最後までなぞると一度閉じ、また開いて、最初からなぞり直した。
市蔵は川を見てから、宿帳を見た。
シカネは草鞋の紐を絞りながら、それを見ていた。客の数を数えているのだろうと思い、それ以上は考えなかった。
日が暮れると、土間にも夕飯が回ってきた。客が多すぎて膳が足りず、飯と汁と漬物が、盆に乗ったまま手から手へ渡されていく。
シカネはそれを受け取り、くぐらの握り飯も一つ開けた。皮の上で、崩れずに三角のままだった。
隣で汁をすすっていた年寄りの馬子が、シカネの手元を見た。表の杭に馬をつないでいた男だった。
「でかい握り飯だな」
「持たされた」
「おっ母か」
シカネは握り飯を一口かじってから答えた。
「……まあ、そんなもんだ」
「いいじゃねえか。俺のとこのは、握り飯なんぞ一度も持たせてくれたことがねえ」
馬子はそれから、表の馬の話を始めた。この雨で飼い葉が湿って、馬があまり食わないのだという。シカネは握り飯を食べながら、それを聞いていた。
◇
夜になって、雨が強くなった。
屋根を打つ雨の音が、土間にまで響く。シカネは筵の上に横になり、文箱を枕にした。受取証は湿らないよう、油紙で二重に包み直してある。
眠りかけたとき、遠くで音がした。
雷よりも低く、長い音だった。大きな木が根元から裂けるような音がして、続いて、何か重いものが水に落ちる音がした。
シカネは目を開けた。
土間は暗かった。廊下の布団から誰かのいびきが聞こえるだけで、起き出した者はいない。
雨の音だけが、さっきより近くなっていた。
シカネは文箱を抱えて、筵から起き上がった。




