第8話 同じドレスなら、並べばいいじゃない
秋の大舞踏会は、社交季の中でも最も華やかで、かつ各家の威信がかかった重要な行事である。
王宮の『鏡の間』には、何百本もの蝋燭がシャンデリアに灯され、壁一面に嵌め込まれた鏡がその光を反射して、眩いばかりの空間を作り出していた。
クラリッサは主催責任者として、一段高くなった壇上から会場全体に目を配っていた。
本来であれば、彼女の隣にはエスコート役としてジュリアン王太子が立っているはずだった。しかし彼は仮処分により夜会への出席を禁じられている。そのため、クラリッサはただ一人で壇上に立っていた。
反クラリッサ派――ジュリアンの『真実の愛』宣言に便乗し、アルヴェイン家の失脚を望む貴族たち――は、エスコートもなく一人で立つ彼女を「見捨てられた哀れな令嬢」として孤立させ、冷笑しようと待ち構えているのがありありと分かった。
(まあ、勝手に哀れんでいればいいわ。こっちは仕事で来ているんだから)
その時、会場の入り口付近で、ざわめきが波のように広がった。
「まぁ……あの方たち、どういうことかしら?」
「なんてこと。信じられませんわ」
囁き声は次第に大きくなり、明確な悪意を帯びた嘲笑へと変わっていく。
クラリッサが目を向けると、人垣の中心で二人の若い令嬢が青ざめて立ち尽くしていた。
一人は、クラリッサを慕ってよく茶会に来てくれる若い伯爵令嬢、リリアナ。もう一人は、反クラリッサ派の急先鋒である子爵夫人の娘、クロエだった。
問題は、二人が着ているドレスだった。
夜空を思わせる深い瑠璃色のシルクに、星屑のように散りばめられた銀糸の刺繍。胸元のカットからスカートの広がり方まで、色もデザインも、まったくの瓜二つだったのである。
「クロエ! あなた、どうしてその方と同じドレスを着ているの!?」
クロエの母親である子爵夫人が、金切り声を上げた。
「これは、人気店『銀の針』で、うちの子のために特注したデザインですわ! そちらの伯爵令嬢、まさかデザインを盗み見たのではなくて!?」
「そ、そんなことありません! 私も『銀の針』で、世界に一つだけのドレスだとお勧めされて……っ!」
リリアナが涙目で反論する。
夜会において、ドレスが他の令嬢と「被る」ことは、大変な不名誉とされている。周囲の野次馬たちは、「どちらが偽物か」「どちらが恥をかいて退場すべきか」と煽り立て、これをクラリッサ派と反クラリッサ派の代理戦争に仕立て上げようとニヤニヤ笑っていた。
クラリッサは小さく息を吐くと、壇上を降り、人垣を割って二人の間へと進み出た。
(……まったく。前世の幼稚園のお遊戯会で、主役の衣装をめぐって親同士がマウントを取り合った時の空気を思い出すわね)
あの時は本当に地獄だった。だが、四十代まで生き抜いたおばちゃんの経験則から言えば、こういうトラブルは当事者同士を争わせても何の解決にもならない。
「クラリッサ様……っ、私、本当に盗んでなど……」
泣きそうになっているリリアナと、気まずそうに俯くクロエ。
クラリッサは、二人を咎めることも、どちらかを庇ってどちらかを退場させることもしなかった。
彼女は満面の笑みを浮かべると、リリアナとクロエ、両方の手を取って、会場の中央へと優雅に歩き出したのだ。
「まぁ、なんて見事な『双子花』ですこと!」
クラリッサのよく通る声が、鏡の間に響き渡る。
「お二人とも、今季流行の星屑の意匠を揃えていらしたのですね。深い瑠璃色が、お二人の若々しい白い肌にとてもよく映えていらっしゃいますわ」
「え……? あ、あの……」
「さあ、胸を張って。同じ美しい装いをしたお二人が並んで歩くお姿は、まるで一幅の絵画のようですわ。皆様、そう思われませんこと?」
クラリッサが周囲を見渡して同意を求めると、毒気を抜かれた貴族たちの中から「確かに、美しいですね」「まるで双子の妖精のようだ」という称賛の声が上がり始めた。
対立構造を期待していた子爵夫人や野次馬たちは、ドレス被りが『仲睦まじい共同演出』へと強引に反転させられてしまったことで、すっかり肩透かしを食らって黙り込むしかなかった。
「お二人とも、せっかくですから、後でその美しい連れ舞を披露してくださいな」
クラリッサがウインクをすると、リリアナとクロエは顔を見合わせ、ホッと安堵の息を吐いて微かに微笑み合った。
ひとまずその場を収めたクラリッサは、足早に会場の裏手にある控室へと向かった。
ここからは、裏方の仕事である。
「侍従長。『銀の針』の受注帳と、この二着の注文書を確保なさい。意図的な二重受注よ」
「店の売名でございますか?」
「それだけでは、二つの家を同時に失う損に見合わないわ。損を埋める金か、次の贔屓を約束した者がいるはずです」
ほどなく、侍従長は封をした受注帳と一通の指示書を持ち帰った。王宮名義の確認状を見せられた店主が、隠しきれずに差し出したものだった。
帳簿には通常の代金とは別に「特別謝礼」。指示書には、クロエの母を後援する伯爵夫人の印章とともに、二人を同じ装いで鉢合わせさせ、クラリッサに片方を追い出させるよう求める文言があった。成功すれば、反クラリッサ派が一年間『銀の針』だけを使うという約束まで添えられている。
「偶然ではありませんでしたな」
「ええ。二人の令嬢を傷つけて、派閥争いの火種にするつもりだったのね」
クラリッサは受注帳を閉じた。
「今季の王室行事における『銀の針』との契約を破棄。証拠は礼法局へ回し、指示を出した夫人は調査が終わるまで王宮主催行事への招待を停止なさい」
「かしこまりました」
裏方の処理を終え、クラリッサが再び鏡の間へと戻ると、ちょうど最初のワルツの演奏が始まるところだった。
音楽に合わせて、貴族たちが次々とパートナーの手を取り、ダンスホールの中央へと滑り出していく。
壁際に立つクラリッサのもとには、当然、誰も誘いには来ない。最高位の公爵令嬢であり、王太子の婚約停止中という微妙な立場の彼女をエスコートできる者など、この会場には限られている。
(まあ、壁の花も悪くないわ。少し足も疲れていたし……)
そう思って一息つこうとした時だった。
「主催者が壁の花では、場が締まりませんね」
静かな、だが深く響く声とともに、一人の男性が目の前に立った。
漆黒の夜会服を纏った王室調停官、レオナール・ローデン公爵だった。
彼はクラリッサに、哀れみも同情も向けなかった。ただ一人の仕事仲間へ示す礼儀として、ごく自然に右手を差し出した。
「私でよければ、一曲お相手願えませんか」
会場中の視線が、驚きとともに二人に集まるのが分かった。
王位継承権を放棄したとはいえ、国王の弟である彼の身分は、この場で彼女をエスコートするのに何の不足もない。
クラリッサは、少しだけ目を瞬かせた後、ふわりと完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「ええ。光栄ですわ、レオナール様」
彼の手を取り、ホールへと歩み出る。
レオナールのリードは、彼の性格をそのまま表すかのように、正確で、無駄がなく、そして決して彼女を無理に振り回さない心地よいものだった。
「先ほどのドレスの騒ぎ、見事な采配でしたね」
ステップを踏みながら、レオナールが小声で囁く。
「お褒めいただき光栄です。ただの事故ならともかく、悪意ある仕掛けで若い子たちが恥をかくのは、どうにも我慢なりませんの」
「……あなたのその判断の早さには、いつも驚かされますよ。まるで、何度も同じような修羅場をくぐり抜けてきたかのように」
レオナールのまなざしが、面白そうに細められた。
その適度な距離感と、庇護者ぶらずに自分を一人の人間として面白がってくれる彼の視線に、クラリッサは二十一歳の令嬢の身体が、微かに――本当に微かにだが――熱を帯びるのを感じていた。
*
数曲のダンスが終わり、クラリッサが休憩室に向かおうとした時だった。
「クラリッサ様!」
声をかけてきたのは、先ほどドレスが被ってしまったリリアナとクロエの二人だった。彼女たちはすっかり打ち解けたようで、照れくさそうに手を取り合っている。
「先ほどは、本当にありがとうございました。クラリッサ様のおかげで、惨めな思いをせずに済みました」
「私たち、すっかり仲良くなってしまったんです」
クロエがはにかみながら言う。
「それは良かったわ。とても素敵なダンスでしたよ」
クラリッサが微笑むと、リリアナが不思議そうに小首を傾げた。
「でも、クラリッサ様は、どうしてあのお店がわざと私たちを喧嘩させようとしたと、すぐに分かったのですか? まるで、最初から裏の事情を知っていたみたいに……」
純粋な尊敬の眼差しを向けられ、クラリッサは少しだけ視線を泳がせた。
(いや……前世のママ友の陰湿なマウント合戦や、業者同士のドロドロした裏工作に比べれば、仕立屋の浅知恵なんて可愛いものだから……なんて、言えるわけないわよね)
クラリッサは遠い目をしながら、扇で口元を隠した。
「……女の勘、というものですわ。さあ、夜会はまだ続きます。存分に楽しんでいらして」
適当に誤魔化して優雅に微笑むクラリッサの背中には、前世の苦労と経験という、目に見えない巨大なオーラが漂っていた。




