第7話 好きなら、まず相手に聞きなさい
王宮に設けられた、社交季主催責任者のための執務室。
大きなマホガニーのデスク越しに、クラリッサは深々とため息をつきたい衝動を、完璧な令嬢の笑みでどうにか抑え込んでいた。
「――クラリッサ様。私は、ジュリアン王太子殿下の勇気ある行動に、深く感銘を受けたのです!」
身を乗り出して熱弁を振るっているのは、昨日「相談に乗ってほしい」と手紙を送ってきた若い貴族、リシャール伯爵令息だった。
今年社交界に本格的にデビューしたばかりの彼は、頬を紅潮させ、ロマンチックな演劇の主人公のような身振り手振りで語り続けている。
「親同士が勝手に決めた、顔もろくに知らない令嬢との婚約。そこに愛などありません。私も殿下のように、身分のしがらみや古い慣習にとらわれず、自分自身の『真実の愛』を貫きたいのです! つきましては、私の婚約解消の手続きについて、お力添えをいただけないかと……」
「なるほど」
クラリッサは、手に持った羽根ペンを静かにインク壺に戻した。
王太子の公開婚約破棄から約二週間。彼への仮処分は下っているものの、大勢の前で宣言された「真実の愛」という言葉は、良くも悪くも一人歩きを始めていた。特に、政略結婚に不満を抱く若い世代にとって、王太子の暴走は都合のいい『免罪符』として響いてしまったらしい。
「リシャール様。あなたがそこまで情熱を傾けるお相手とは、どなたなのですか?」
「王宮の図書室で働いている、マリーという下級貴族の娘です! 彼女は本当に可憐で、心優しく……」
リシャールはうっとりと目を細めた。
「私が図書室を訪れると、彼女はいつも嬉しそうに微笑んでくれます。そして、私と目が合うと、恥ずかしそうにスッと視線を伏せるのです。……ああ、身分違いの恋に悩む彼女のいじらしさ。私がこの手で、彼女を迎えに行かねばと決心したのです」
(…………)
クラリッサの中で、四十九歳の肝っ玉母さんの警報ベルが、けたたましく鳴り響いた。
前世で、スーパーのレジ打ちのパートをしていた時のことだ。若いアルバイトの女の子が、「あのお客さん、私が愛想よく挨拶したら、自分に気があるって勘違いして待ち伏せするようになっちゃって……」と泣きついてきたことがあった。
職務上の笑顔を「自分への好意」だと脳内変換してしまう、厄介な勘違い男。目の前にいる青年の熱を帯びた瞳は、それとそっくりだった。
「一つ、確認よろしいかしら」
クラリッサは、努めて冷たい声にならないよう気をつけながら尋ねた。
「その婚約解消について、ご両親にはお話しされましたか?」
「まだです。まずは私が動かねば、父上たちを説得することなどできませんから」
「……そうですか。では、最大の確認です。肝心のマリーさんご本人には、愛の告白と、結婚の意思はお伝えになったのですね?」
「いいえ!」
リシャールは、なぜか誇らしげに胸を張った。
「正式な告白は、私が今の婚約を破棄し、自由の身となってからと決めています! しがらみを無くしてから思いを伝えることこそが、彼女への私の『誠意』です!」
クラリッサは、今度こそ本当に、こめかみを指で強く押さえた。
(ジュリアン殿下とまったく同じだわ。いや、両想いの確認すらしていない分、もっとタチが悪いじゃないの)
相手の意思を確認せず、自分の頭の中だけで物語を完結させ、周囲を巻き込んで暴走しようとする。若さゆえの浅はかさとはいえ、これを放置すれば、リシャールの婚約者の令嬢も、図書室のマリーも、とんでもない迷惑を被ることになる。
「……リシャール様。あなたのその『誠意』のせいで、取り返しのつかない事態になる前に、一つ提案があります」
クラリッサは立ち上がり、執務室の奥にある控室の扉へと向かった。
「正式な手続きに入る前に、私が立ち会いますから、今ここで、彼女の本当のお気持ちを聞きなさい」
「えっ?」
クラリッサが扉を開けると、そこには、事前に呼び出しておいた図書室の侍女、マリーが不安げな顔で立っていた。
「マ、マリー……! どうして君がここに」
驚くリシャールに向かって、クラリッサは「さあ、どうぞ」と手のひらを示した。
リシャールは一瞬戸惑ったものの、すぐに決然とした顔になり、マリーの前に歩み寄った。
「マリー。すまない、驚かせたね。でも、もう身分違いだと悩む必要はないんだ。私は、親が決めた婚約を破棄して、君を妻に迎えようと思う! 君への愛を、私は貫くよ!」
両手を広げ、ドラマチックに愛を叫ぶリシャール。
それに対するマリーの反応は――。
「……は?」
真っ青な顔。大きく見開かれた目。そして、全力の後ずさりだった。
「えっ、と……伯爵令息様が、私を……妻に?」
「ああ! 君もずっと、私を慕ってくれていたのだろう? 図書室で、いつも嬉しそうに微笑んでくれていたじゃないか!」
「ほ、微笑んだのは、それが図書室の職員としての職務だからです! 利用者の方には愛想良く対応するよう、上司から厳しく言われておりますので……っ!」
「なっ……。だ、だが、君は私と目が合うと、いつも恥ずかしそうに視線を伏せて……!」
「それは、下級貴族が伯爵家のような高位の方と直接目を合わせてはいけないという、王宮の礼法です! 睨みつけていると誤解されたら処罰されますから!」
マリーの必死の弁明に、リシャールの顔から血の気が引いていく。
「それに……」
マリーはクラリッサの後ろに隠れるようにしながら、はっきりとトドメを刺した。
「私、伯爵令息様に恋愛感情など一切ございません。はっきり申し上げて、迷惑です! 私は今の図書室の仕事に誇りを持っていますし、来年の春には、同郷の幼馴染と結婚して王都を出る予定ですから!」
パリン、と。
リシャールの頭の中で、美しく築き上げられていたロマンチックな悲恋の物語が、粉々に砕け散る音が聞こえたようだった。
「そ、そんな……。王太子殿下のように……真実の愛で結ばれるはずじゃ……」
リシャールは力なく膝から崩れ落ち、絨毯の上に両手をついた。
「……お分かりになりましたか、リシャール様」
クラリッサは、床に這いつくばる青年を見下ろし、静かに諭した。
「『真実の愛』という美しい言葉に酔って、相手の気持ちや都合、家同士の契約を無視するのは、ただの自己満足です。王太子殿下の行動は、決して勇気ある前例などではありません。周囲を大いに困らせている、無責任な問題行為に過ぎないのです」
「ああ……私は、なんという恥知らずな勘違いを……」
顔を覆ってむせび泣くリシャールに、クラリッサは「今の婚約者の方を大切になさいな」とだけ告げ、マリーには謝罪と共に、図書室へ戻るよう促した。
その後、クラリッサは執務デスクに向かい、一連の出来事を詳細に書類に書き留めた。
『ジュリアン王太子の私的発言が、若い貴族たちに与えた具体的な悪影響の記録』。
未遂に終わったとはいえ、これは三ヶ月後の冬至会議において、王太子の責任の重さを問うための重要な資料になる。
「お疲れのようですね、クラリッサ嬢」
ノックの音と共に執務室に入ってきたのは、漆黒の服に身を包んだ王室調停官、レオナールだった。彼は、クラリッサが書き上げたばかりの報告書を定期回収しに来たのだ。
「レオナール様。ええ、少し。……こちらが、今週分の報告書ですわ」
クラリッサが羊皮紙の束を差し出すと、レオナールはそれに素早く目を通した。彼の端正な眉が、微かにピクリと動く。
「……伯爵令息の妄想を未然に防ぎ、実害を出さずに処理した。見事な手際です」
レオナールは書類を丸めながら、クラリッサを静かに見つめた。
「ですが、あなたはあまりにも他人の問題に踏み込みすぎているように見える。……親に話を通すように説得するならまだしも、当事者である侍女まで呼び出し、面と向かって引導を渡させるとは」
「放っておけば、リシャール様の婚約者の令嬢も、マリーさんも、深く傷つく大惨事になっていましたわ。芽が小さいうちに摘み取るのが、大人の責任というものでしょう?」
前世で、子どもたちの揉め事を放置して取り返しのつかない喧嘩に発展した苦い経験がある。だからこそ、クラリッサは迅速に動いたのだ。
しかし、レオナールの氷のような瞳には、明確な懸念が浮かんでいた。
彼は帰り際、執務室の扉に手をかけたまま、振り返らずに低く問うた。
「クラリッサ嬢。……あなたは今後、社交界で起きる全ての恋愛沙汰を背負うつもりですか?」
「え……」
「人を助けることと、人の人生に過剰に介入することは違います。お気をつけを」
それだけ言い残し、レオナールは静かに扉を閉めた。
残されたクラリッサは、ぽつんと執務室に取り残された。
(背負うつもりなんてないわ。ただ、目の前の火の粉を払っているだけで……)
そう自分に言い訳をしながらも、レオナールの冷ややかな釘刺しは、クラリッサの心の奥底に、チクリとした違和感を残していった。




