第6話 「真実の愛」は免罪符じゃない
大茶会から数日後。王宮内の貴族たちが集う豪奢なサロンを通りかかったクラリッサは、人だかりの中心で起きている光景を見て、思わず額を押さえた。
「ミレーヌ。君の瞳のように美しいサファイアだ。君にこそふさわしい。どうか受け取ってほしい」
大勢の貴族たちの注目を浴びる中、ジュリアン王太子が、恭しく開かれた大きな宝飾箱を差し出していた。
その向かい側で、ミレーヌ・ベル男爵令嬢は完全に青ざめ、彫像のように固まっている。
(……あのお馬鹿。私的接触を禁じられているのに、こんな公衆の面前で堂々と何をやっているの?)
呆れ果てながら人垣を掻き分け、クラリッサは二人の間に進み出た。
「ジュリアン殿下。王室審議での決定をお忘れですか? ベル男爵令嬢との私的な接触は、仮処分にて固く禁じられているはずです」
クラリッサが冷ややかに指摘すると、ジュリアンはビクッとしたものの、すぐに胸を張って得意げに笑った。
「忘れてなどいないさ! だからこそ、これは宮廷事務局の手続きを正式に踏んだ『公式贈答』だ。王家から臣下への公式な下賜である以上、仮処分で禁じられた『私的な接触』には当たらない!」
サロンに集まっていた貴族たちが、ほう、と感嘆の声を漏らす。法の抜け穴を突いた、王太子の愛の執念だとでも言いたげだ。
だが、クラリッサの内心は真逆だった。
(……呆れた。抜け穴を見つけた賢者にでもなったつもりかしら)
剣の持ち込みを禁じられて、「短剣なら剣ではない」と胸を張る子どもと同じだ。いや、王太子の権力がついているぶん、もっとたちが悪い。
「……公式贈答、とおっしゃいますのね」
クラリッサは扇を開き、宝飾箱の中身に視線を落とした。
大粒のサファイアを縁取るダイヤモンド。ベル男爵領の一年分の収入を、首から下げて歩けというような品だった。
「殿下。公式贈答の意味を、本当にお分かりですか? 王族からこれほど高価な品を公式に賜るということは、受け取った家に相応の『返礼』と『政治的責任』を強いるということです」
「なに?」
「ベル男爵家は、領地も小さく資金も豊かな家ではありません。このような高価な品を賜れば、盗難を防ぐための警備費や保管費だけでも莫大な負担になります。ましてや、王太子殿下からの公式贈答を受け取れば、社交界では自動的に『男爵家は王太子陣営に組み込まれた』と見なされます。相手の退路を完全に断つことになりますのよ」
クラリッサの容赦ない指摘に、サロンの空気は音が消えた。
「そ、そんなはずはない! 僕はただ、僕が愛するミレーヌに、彼女にふさわしいものを贈りたいだけだ! 負担になどなるものか!」
ジュリアンは顔を真っ赤にして反論した。彼にとってこの行動は、恋愛劇におけるロマンチックなサプライズでしかないのだ。
クラリッサは小さく息を吐き、ジュリアンから視線を外した。この男にいくら政治的意味を説いても、今は馬耳東風だろう。問題は、受け取る側だ。
「ベル男爵令嬢」
クラリッサは、宝飾箱の前で震えているミレーヌに静かに問いかけた。
「殿下はああおっしゃっているけれど、これを受け取れば、あなたの家は後戻りできなくなります。仮処分が解ける冬至会議を待たずして、あなたは殿下の側に立つと宣言することになる。……あなた自身は、どうしたいの?」
周囲の視線が、一斉にミレーヌに突き刺さる。
権力者である王太子からの、目を奪うような宝石。そして、周囲の期待に満ちた目。普通の十八歳の少女なら、その圧力に屈して頷いてしまうだろう。
だが、ミレーヌは両手を握りしめ、顔を上げた。
大茶会でクラリッサから「茶器の解説役」という役割を与えられ、自分の足で立ち、自分の言葉で人と接した経験。それが、彼女の中に小さな、しかし確かな自立心を芽生えさせていた。
「殿下……」
ミレーヌの声は微かに震えていたが、その瞳はしっかりとジュリアンを見つめていた。
「お気持ちは、本当に嬉しく存じます。ですが……今は、お受け取りできません」
「ミレーヌ!? なぜだ!?」
「男爵家には過ぎたお品です。これほどのものを管理する力は、我が家にはございません。それに……」
ミレーヌは一度言葉を切り、深く深呼吸をした。
「私はまだ、未来をどうするか、何も決めておりませんから」
明確な拒絶だった。
大勢の貴族の前で、ただ嬉しそうに微笑んでくれると信じていたミレーヌから、贈り物を完全に突き返されたのだ。
ジュリアンは衝撃に目を見開き、差し出した宝飾箱を持ったまま、まるで石像のように固まってしまった。
「そこまでだ」
喧騒を切り裂くように、硬い声が響いた。
人垣が割れ、数人の衛兵を伴ったレオナール・ローデン公爵が姿を現した。彼は鋭い視線でジュリアンと、彼が手にしている箱を一瞥した。
「レオナール叔父上……これは、事務局を通した公式な……!」
「ええ、報告は受けています。ですがジュリアン殿下。法の抜け穴を突き、書類上の体裁だけを整えて接触を図ったつもりでしょうが、これは上位者から下位者への実質的な『圧力』に他ならない」
調停官の氷のような声に、ジュリアンはビクッと肩を震わせた。
「処分の文言だけを守り、その本質を理解していないあなたの振る舞いは、王家への信頼をさらに損なうものです。王室調停官の権限において、殿下への追加注意を出します。以後、あなたが誰かへ行う公式贈答は、すべて私か王妃陛下の『事前承認制』とします」
「なっ……! 贈答品まで制限するというのですか!?」
「ええ。あなたがご自身の行動の重みを理解されるまで」
レオナールの有無を言わせぬ裁断に、ジュリアンはギリッと唇を噛み締めた。
周囲の貴族たちも、これ以上王太子の浅はかな振る舞いに関わるのは危険だと察し、そそくさと視線を散らしていく。
ジュリアンは悔しそうに宝飾箱の蓋を乱暴に閉じると、クラリッサとレオナールを一度だけ強く睨みつけ、足早にサロンを去っていった。
「……ありがとうございました」
残されたミレーヌが、クラリッサに向かって深く頭を下げた。
「いいえ。あなたは、自分の意思で断ったのよ。立派だったわ」
クラリッサが微笑みかけると、ミレーヌは少しだけ安堵したような表情を浮かべ、「失礼いたします」と自分の足でしっかりと歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、クラリッサは隣に立つレオナールに声をかけた。
「ちょうどいいところに来てくださって、助かりましたわ。さすがは調停官殿ですこと」
「私の仕事ですから。それにしても、あなたはあのままミレーヌ嬢が受け取っていたら、どうするつもりだったのです?」
「さあ? 保管にかかる諸経費の見積もりでも作って、殿下の私財から天引きさせるよう進言したかもしれませんわね」
クラリッサが肩をすくめると、レオナールは呆れたように短く息を吐いた。
*
翌日。
クラリッサは公爵邸の執務室で、社交季の行事に関する書類や、各家から届いた招待状、手紙の束を確認していた。
婚約停止中とはいえ、彼女が社交季の主催責任者であることに変わりはない。忙しさはむしろ増しているくらいだ。
「これは慈善会の予算案ね。こっちは……南部の伯爵家からの秋の狩猟会への招待状……」
手際よく仕分けを進めていたクラリッサの手が、ふと止まった。
銀色の封蝋で閉じられた、少し上質な紙の封筒。差出人は、先日サロンで見かけた若い伯爵令息だ。
ペーパーナイフで封を切り、中に目を通したクラリッサは、思わず天を仰いだ。
『――クラリッサ様。王太子殿下のように、私も真実の愛を貫くため、親の決めた婚約を見直したいと考えております。つきましては、どうかご相談に乗っていただきたく――』
手紙の文面には、熱に浮かされたような言葉が連なっていた。
「真実の愛、ね……」
クラリッサは手紙を机に放り出し、こめかみをグリグリと揉んだ。
ジュリアンの「真実の愛」という耳障りのいい言葉は、決して彼ら二人の間だけで完結するものではなかった。それは免罪符となり、家の義務や段取りを煩わしく思う若者たちへ、確実に『社会的余波』として感染し始めているのだ。
「いいでしょう。そのフワフワした頭、現実という名の冷水でしっかり洗い流してあげるわ」
クラリッサはペンを取り、彼への返信を書き始めた。




