第4話 二十一歳の私と、四十九歳の私
息の詰まるような王室審議を終え、アルヴェイン公爵家の馬車に揺られている間、父は一度も口を開かなかった。ただ、組んだ腕に力が入っており、その瞳には王家に対する静かでどす黒い怒りが渦巻いているのが分かった。
公爵邸へ帰り着くと、クラリッサは「少し横になります」と両親に告げ、足早に自室へと戻った。
重いオーク材の扉を閉め、鍵を下ろす。
その瞬間、ピンと張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
クラリッサはフラフラと歩み寄り、美しい刺繍が施されたソファーに深く身を沈めた。
「……疲れたぁ……」
喉の奥から、無意識のうちにひどく庶民的なため息が漏れる。王太子妃候補としては決して許されない、だらしのない姿勢で天井を仰ぎ見た。
目を閉じると、二つの人生が押し寄せた。
日本で四十九歳まで生きた私は、夫と三人の子どもを育てた。壁に穴を開けた長男と取っ組み合い、進路に迷う長女の背を叩き、怪我の絶えない次男を何度も病院へ担ぎ込んだ。家計簿と学校行事に追われる、騒がしい日々だった。
三人が自分の足で家を出た時、心から安堵した。もう私が先回りしなくても、あの子たちは生きていける。
嬉しかったはずなのに、両手だけが急に空いたような寂しさも残った。クラリッサは、その感覚を今はまだ見ないふりをした。
もう一つは、クラリッサ・アルヴェインとして生きた二十一年だ。
八歳で王太子の婚約者となり、礼法も語学も政治も、血を吐く思いで身につけた。昨夜踏みにじられた努力も、胸を抉った痛みも、借り物ではない。
四十九歳の記憶だけが本物なのではなかった。泣きたい二十一歳も、泣く前に後始末を考える四十九歳も、どちらも今の自分だ。
(大勢の前で、浮気相手を連れて一方的に婚約破棄。まったく、信じられないほど非常識だわ)
前世で言えば、家族に黙って莫大な借金の保証人になってきたようなものだ。まず関係者へ連絡し、被害を止め、本人に責任を取らせる。泣くのは、それからでも遅くない。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「クラリッサ。入ってもいいか」
父、アルヴェイン公爵の声だった。クラリッサは慌てて姿勢を正し、「どうぞ」と答える。
扉を開けて入ってきた父は、まだ怒りが収まらない様子で部屋を歩き回った。
「クラリッサ、お前は立派だった。あんな屈辱を受けながら、冷静に審議を乗り切るとは。だが、私は許さん。王太子はもちろん、あの男爵令嬢の実家や、王太子に追従する派閥の者たちの領地を経済的に干し上げてやる。アルヴェイン家の力を思い知らせてやる!」
父の激怒は、娘を愛するが故のものだ。それは嬉しいが、今ここで暴走されては困る。
クラリッサは、駄々をこねる大きな子どもを宥めるような、前世でよく使った口調を思い出しながら口を開いた。
「お父様、お気持ちは嬉しいですが、お待ちください」
「待てるものか! 我が家の顔に泥を塗られたのだぞ!」
「だからこそ、です」
クラリッサは静かに、しかし有無を言わせぬ強さで父の目を見つめた。
「今こちらから手を出せば、ただの感情的な『報復』となり、アルヴェイン家の品位を落とします。向こうはすでに仮処分を受けています。私たちが手を下さずとも、王家自身に事の重大さを処理させるべきです。……冬至会議までの後始末は、私に任せていただけませんか」
「……」
父はハッと息を呑み、クラリッサをまじまじと見つめた。
かつての張り詰めた、どこか危うさすらあった娘の姿はない。そこにあるのは、嵐の中でも決して揺るがない、どっしりとした大木のようなどこまでも深い落ち着きだった。
「……分かった。お前がそこまで言うなら、私は私で、貴族院での地固めに動こう。だが、無理だけはするな」
父は戸惑いながらも頷き、部屋を後にした。
*
夕刻。
公爵邸の応接室に、王室調停官であるレオナール・ローデン公爵が姿を現した。
「夜分に失礼する。本日付けで発行された、王太子殿下との『婚約停止命令書』および、殿下への『仮処分書』の写しを持参した」
漆黒の夜会服から、公務用の落ち着いた仕立ての服に着替えたレオナールは、相変わらず感情の読めない整った顔で書類を差し出した。
「ありがとうございます、レオナール様。わざわざお越しいただいて恐縮です」
クラリッサは完璧な礼とともに書類を受け取る。
しかし、その薄い羊皮紙を受け取った瞬間――クラリッサの指先が、カタカタと微かに震えた。
「っ……」
慌てて両手で書類を押さえる。
二十一歳の身体が、限界を訴えていたのだ。昨夜の公開婚約破棄という耐え難いショック。そして今日の王室審議での極度の緊張。四十九歳の精神力で無理やり蓋をしていた疲労が、一気に身体的な反応として表に出てしまった。
しまった、気取られる。
クラリッサが内心で舌打ちをしたとき、レオナールが静かに口を開いた。
「読まなくていい」
「え?」
「文面は会議で決定した通りだ。枢密院にもすでに登録を済ませている」
レオナールは、クラリッサの震える指先から視線を外し、窓の外の暮れゆく空へと目を向けた。
「……本来なら、あの場で泣き崩れてもおかしくない事態だった。だがあなたは、自分の傷よりも先に、国家契約の保全と被害の最小化を選んだ。見事な判断だった」
それは、ただの慰めではなく、一人の実務家としての明確な評価だった。
「だが、あなたは鉄でできているわけではない。今日はもう、誰にも説明しなくていい。休むことも、主催責任者の仕事のうちだ」
クラリッサは、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
レオナールは震えの理由を尋ねず、休めとも二度は言わなかった。窓へ視線を戻し、彼女が自分で呼吸を整える時間を残した。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」
クラリッサが心からの笑みを浮かべると、レオナールは短く頷き、踵を返した。
だが、応接室の扉に手をかけたところで、彼はふと立ち止まり、肩越しにクラリッサを振り返った。
「クラリッサ嬢」
「はい?」
「あなたは……昨日までと、まるで別人のようだ」
心臓が跳ねた。
レオナールの静かな視線は、クラリッサの奥底にある『何か』を確実に見抜いているようだった。
だが、彼はそれ以上何も言わず、「では、また数日後の茶会で」とだけ告げて、静かに扉の向こうへと消えていった。
残されたクラリッサは、手に持った書類を見下ろし、小さく息を吐いた。
(……油断ならない方ね)
そう思うのに、口元はわずかに緩んでいた。




