第3話 婚約は、殿下ひとりでは壊せません
翌朝。重厚な扉に閉ざされた王宮の円卓会議室は、息が詰まるほどの緊張感に包まれていた。
上座には国王とエレノア王妃。その左右には、王室調停官であるレオナールと、貴族婚姻・礼法統括の重鎮であるベアトリス夫人が控えている。
円卓を挟んで国王と対峙しているのは、筆頭公爵であるクラリッサの父、アルヴェイン公爵とその妻ソフィアだった。公爵の顔には静かだが明確な怒りが張り付いており、隣のソフィアは青ざめた顔で娘を案じている。
そして末席には、事の元凶であるジュリアン王太子と、被害者であるクラリッサが、距離を空けて座っていた。
「――昨夜のジュリアン王太子の宣言は、王室及び筆頭公爵家に対する重大な背信行為であり、法的手続きを一切無視した暴挙です」
会議の進行役を務めるレオナールが、感情を微塵も交えない声で事実を並べ立てた。
「我がアルヴェイン家は、大勢の貴族の前で娘が受けた侮辱を決して看過できません。国王陛下、王家はいかように責任をお取りになるおつもりか」
父である公爵が、地を這うような声で国王に詰め寄る。国王は苦渋に満ちた表情で深く息を吐き、隣のジュリアンを睨みつけた。ジュリアンは居心地悪そうに身を縮めている。
このままでは、王家と筆頭公爵家の全面衝突に発展しかねない。
だが、レオナールは公爵の怒りを手で制し、円卓の末席に座るクラリッサへと静かに向き直った。
「王家や公爵家の都合を語る前に、まず確認すべきことがあります」
レオナールは、その黒い瞳でクラリッサを真っ直ぐに見つめた。
「クラリッサ嬢。被害者である、あなた自身はどうしたいのですか」
その問いに、クラリッサは少しだけ目を丸くした。
家と家の契約である貴族の結婚において、当事者の令嬢の意思が真っ先に問われることなど稀だ。レオナールは王族としての体面よりも、彼女個人の意思を第一に尊重してくれたのだ。
クラリッサは両手を膝の上で軽く組み、落ち着いた声で口を開いた。
「私は、今ここで婚約の継続も、解消も決めるべきではないと考えます。感情が昂ぶっている状態で重大な決定を下せば、必ず禍根を残しますから」
「私が望むのは二つです。一つは、昨夜の公開宣言が手続きを踏まない無効なものであったと、早急に公式な訂正を出すこと。もう一つは、巻き込まれただけのミレーヌ・ベル男爵令嬢を、この件で罰しないことです」
「クラリッサ……君は……」
ジュリアンが驚いたように顔を上げた。自分が選んだ娘を罰しないでくれと頼む婚約者に、何か勘違いをしているような顔だ。クラリッサは彼には目もくれず、レオナールを見た。
「承知しました。極めて理にかなった判断です」
レオナールは頷き、手元の書類に視線を落とした。
「当事者の意思を尊重し、王太子殿下とクラリッサ嬢の婚約は、本日をもって一時『停止状態』とします。継続か、解消か、あるいは条件の変更か。最終的な結論は、約十二週間後に開かれる冬至会議にて、改めて両家と枢密院を交えて審議・決定するものとします」
「なっ、三ヶ月も保留にするというのか!?」
ジュリアンが抗議の声を上げたが、国王が「黙らぬか、愚か者!」と一喝し、彼はビクッと肩を震わせて黙り込んだ。
「続いて、騒動を引き起こしたジュリアン王太子殿下への仮処分を申し渡します」
レオナールの声が、容赦なく会議室に響き渡る。
「一、本日から冬至会議までの間、王太子による王室夜会の主催権を一時停止する。二、ミレーヌ・ベル男爵令嬢との私的接触を制限する。今後、無許可での面会、私信のやり取り、個人的な贈答は一切禁じる。面会が必要な場合は、必ず王妃陛下または王室調停官である私の許可を得て、立会いのもとで行うこと」
「そ、そんな……! ミレーヌと会うことすら許されないというのか!」
「三、婚約に関する独断の公式発言を固く禁じる。四、事態の混乱を招いたことに対する事実訂正と、アルヴェイン家への正式な謝罪文を提出すること。……以上です」
ジュリアンは完全に血の気を失い、椅子に崩れ落ちた。
仮処分の決定により、王家からの誠意は示された。アルヴェイン公爵も、ひとまずは矛を収める姿勢を見せた。
そこで、ずっと沈黙を守っていたエレノア王妃が口を開いた。
「クラリッサ。あなたには辛い思いをさせましたね。王妃として、そしてあなたを娘のように思ってきた者として、心から詫びます」
「もったいないお言葉です、王妃陛下」
「その上で、一つ相談があります。……秋から冬至までの三ヶ月は、重要な社交季です。外交使節の歓迎から各家の婚約発表、慈善会まで行事が目白押しになります」
クラリッサは小さく頷いた。
未来の王太子妃となる準備として、クラリッサは二年前から今季の社交行事の『主催責任者』を任されていた。招待客の選定から予算管理、各派閥の席順の調整まで、すべて彼女の頭の中にある。
「本来であれば、予定通りあなたに主催を取り仕切ってほしい。ですが、婚約が停止状態にある今、あなたに王家の顔役を強いるのはあまりにも酷です。断る権利は、当然あなたにあります」
王妃は、クラリッサを気遣うように言葉を選んだ。
「もしあなたが降りるなら、行事は私の直轄とするか、副責任者たちに分担させます。不足があるようなら、アメリアを補佐に入れ、なんとか形を整えましょう」
アメリア王女。ジュリアンの妹であり、十八歳になったばかりの聡明な少女だ。
確かに、王家が総力を挙げれば、クラリッサが抜けても社交季は回るだろう。急な責任者の交代は各家や外国使節への失礼に当たるが、それでも王妃は「逃げ道」を用意してくれたのだ。
両親も「無理をするな」という目でクラリッサを見ている。
だが、クラリッサの中の四十九歳の魂が、ふつふつと反骨心を燃やしていた。
(二年も前から、胃を痛めながら各家の調整をして、完璧な計画を立ててきたのよ。それを、あの馬鹿のせいで全部放り出す? 冗談じゃないわ)
ここで辞退して領地に引きこもれば、世間の貴族たちはどう言うか。
『王太子殿下に捨てられ、惨めに逃げ帰った哀れな公爵令嬢』。
そんなレッテルを貼られて、大人しく泣き寝入りしてやる義理はない。
クラリッサは背筋をピンと伸ばし、王妃を真っ直ぐに見据えた。
「王妃陛下。ご配慮に感謝いたします。ですが、私は降りません」
「クラリッサ? 無理をすることはないのですよ?」
「無理などしておりません。ただ、誰かの負担を肩代わりするためや、王家の体面を守るために引き受けるのではありません」
凛とした声が、円卓に響く。
「私自身の名誉と、私が積み上げてきた仕事のために、この三ヶ月の主催責任者は、私が最後までやり遂げます」
その毅然とした宣言に、国王も王妃も、そして両親でさえも息を呑んだ。
ただ一人、レオナールだけが、口元に微かな、本当に微かな称賛の笑みを浮かべていた。
*
王室審議が無事に終わり、クラリッサが会議室から廊下へ出た時のことだ。
「クラリッサ嬢」
背後から声をかけてきたのは、貴族婚姻・礼法統括のベアトリス夫人だった。御年五十七歳。八歳の頃からクラリッサに王妃教育を施してきた、厳格で妥協を知らない女性だ。
彼女はクラリッサの前に立つと、深く刻まれた皺の奥にある鋭い瞳を細めた。
「昨夜のこと、聞き及びました。あのような公衆の面前で恥辱を受けながら、決して取り乱すことなく、涙も見せずに耐え抜いたそうですね」
「……はい」
「立派でした。個人の感情を殺し、役割を優先する。それこそが、未来の王妃として最も正しい態度です。私はあなたを誇りに思います」
ベアトリス夫人は、心からの称賛を送っていた。彼女にとって、王族や貴族とは『個人の感情よりも、国と家の秩序を重んじるべき存在』なのだ。
以前のクラリッサなら、その褒め言葉に安堵し、誇らしく思っていただろう。
だが、今のクラリッサには、その言葉がひどく歪んだものに聞こえた。泣かなかったのは、未来の王妃だからではない。ただ、大人として事態を収拾しようとしただけだ。
クラリッサは、恩師である老夫人に向かって、静かに、しかしはっきりと首を振った。
「いいえ、ベアトリス夫人」
「……何が『いいえ』なのですか?」
「私は、未来の王妃として正しい態度をとったわけではありません。未来の王妃としてこの社交季を主催するわけでもありません」
クラリッサは、かつてのように教えを乞う少女ではなく、一人の自立した女性として微笑んだ。
「私は、クラリッサ・アルヴェインとして、私の意思で、この三ヶ月を終わらせます」




