第2話 その子は王太子妃になりたいの?
レオナールが婚約破棄宣言を無効とした後も、大広間には興奮した囁きが渦巻いていた。クラリッサの胸も痛んだままだ。けれど、今は人目のない場所で当事者の話を聞く方が先だった。
「……衛兵。それに、そこの侍従たち」
クラリッサが動くより早く、レオナールが静かに、しかし絶対的な命令を下した。
「野次馬を散らせ。関係者は奥の小客間へ。本日の夜会は、これにてお開きとするよう、国王陛下に代わり各家に通達しろ」
「は、はいっ!」
王室調停官の指示に、王宮の職員たちが弾かれたように動き出す。
ざわめいていた貴族たちは、レオナールの冷ややかな視線に射すくめられ、不満を漏らすこともできずに三々五々、広間から退散し始めた。
クラリッサもまた、レオナールの視線で促され、ジュリアンたちを追うようにバルコニー奥の通路へと足を踏み入れた。
案内されたのは、王族が私的な休憩に使う豪奢な小客間だった。
重厚な扉が閉じられ、室内にはクラリッサ、ジュリアン、ミレーヌ、そしてレオナールの四人だけが残された。
「……レオナール叔父上」
沈黙を破ったのは、ジュリアンだった。彼はまだ、ミレーヌを自分の背中に庇うように立っていた。
「先ほどの宣言は不適切だったかもしれません。ですが、僕の意志は変わりません! 僕はミレーヌを愛している。叔父上は、法を盾に僕たちの真実の愛を邪魔するおつもりですか!」
まだそんなことを言っているのか。
クラリッサは、ズキリと痛むこめかみを指先で押さえた。八歳から共に過ごしてきた婚約者の口から「別の女を愛している」と宣言されることは、間違いなく痛みを伴う。二十一歳のクラリッサの心は、確かに傷つき、血を流している。
だが、それ以上に……四十九歳の感覚が、目の前の青年を『話の通じない厄介な子ども』として認識し始めていた。
レオナールは、ジュリアンの熱のこもった抗議を、まるで路傍の石でも見るような無感動な目で見返した。
「私は法を司る調停官です。あなたの個人的な恋愛感情など知ったことではない。問題なのは、王太子たるあなたが、所定の手続きを踏まずに国家的盟約に等しい婚約を独断で反故にしようとした、その事実だけです」
「っ……!」
「それに」
レオナールは淡々と続ける。
「あなたは『真実の愛』と仰るが、先ほど大広間で見た限り、お相手の令嬢はひどく戸惑っておいでだった。本当に、お二人の間には合意があるのですか?」
その言葉に、ジュリアンはハッと背後のミレーヌを振り返った。
ミレーヌは、ジュリアンの背中に隠れるようにして、小刻みに震えている。大きな瞳には涙が浮かび、今にも泣き出しそうだった。
クラリッサは、ゆっくりと歩み寄り、客間のソファーを指し示した。
「ベル男爵令嬢。立っていては落ち着かないでしょう。お座りなさい」
「ひっ……!」
ミレーヌが短く悲鳴を上げた。
その怯えは、クラリッサがこれまで席順や茶会で彼女を遠ざけてきた、その代償だった。
(怖がらせたのは、私ね)
クラリッサは声をやわらげた。
「取って食おうというわけではないわ。あなた自身の口から、事実を聞かせてほしいだけよ」
ミレーヌは、縋るようにジュリアンを見上げたが、ジュリアンもまた「ミレーヌ、君の口から僕たちの愛を証明してやってくれ」と的外れな励ましをしてくるだけだ。
おずおずとソファーの端に腰を下ろしたミレーヌを見下ろし、クラリッサは静かに問いかけた。
「ベル男爵令嬢。先ほど、大広間でも聞いたけれど……もう一度、きちんと尋ねるわね。あなたは、ジュリアン殿下のことを、好きかしら?」
ミレーヌの肩がビクッと跳ねた。
彼女は、両手を握りしめ、視線を泳がせた後、消え入りそうな声で答えた。
「……はい」
かすかな声だった。それでも、ジュリアンの顔だけは見ようとしていた。
「そう。殿下にお心を寄せているのね」
「ミレーヌ! ああ、そうだとも! 彼女は僕を愛してくれている!」
ジュリアンが嬉しそうに声を上げるが、クラリッサは彼を完全に無視して、ミレーヌの目を見据えた。
「では、次が一番大切な質問よ。あなたは……『王太子妃になりたい』の?」
ピタリ、と。
ミレーヌの動きが止まった。
「……え?」
「人を好きになることと、その人の立場を引き受けることは別よ。王太子妃になれば、あなたの生活は一変する。分刻みのスケジュール、複雑な国際関係の把握、貴族たちの派閥争いの調停、そして常に完璧な礼儀作法が求められる。……殿下は、あなたに『王太子妃になってほしい』と、その重責を共に背負ってほしいと、事前に相談したかしら?」
ミレーヌの顔から、再び血の気が引いていく。
彼女は、まるで信じられないものを見るようにジュリアンを見上げ、そして、激しく首を横に振った。
「聞いて、いません……」
「ミレーヌ?」
「私は……決めていません! 殿下がお優しくしてくださるのが嬉しくて、ただ、少しでも長くお側にいられればと……それだけでした。王太子妃だなんて、そんな恐れ多いこと……私に務まるはずがないと、殿下も分かっていらっしゃると思っていました……!」
ポロポロと、大粒の涙がミレーヌの頬を伝い落ちた。
「な……っ!?」
ジュリアンは、雷に打たれたように目をひん剥いた。
「ど、どういうことだミレーヌ!? 君は僕を愛していると言った! 僕を愛しているなら、当然、僕の妻として、僕の隣に立ちたいと思うのが普通じゃないか!」
「……殿下。それがあなたの思い込みです」
クラリッサは、冷ややかに言い放った。
「殿下。彼女の『好き』を、あなたは『何もかも引き受ける』という返事にすり替えたのです」
ジュリアンの顔が、怒りと羞恥、そして混乱で朱に染まる。
「……事情は理解した」
事の顛末を黙って見守っていたレオナールが、温度のない声で場を締めくくった。
「王太子殿下の行動は、相手の意思確認すら怠った独りよがりな暴走に過ぎない。今夜の婚約破棄宣言は、いかなる意味においても無効だ」
「叔父上……っ!」
「今夜はこれにて解散とする。ジュリアン殿下、あなたはご自室で謹慎を。明日の朝、国王陛下を交えた王室審議にて、この愚行の始末をつける」
有無を言わせぬ調停官の命令。
ジュリアンは唇を噛み締め、何かを言いかけたが、レオナールの氷のような視線に射すくめられ、逃げるように小客間を後にした。
残されたミレーヌは、ソファーで一人、小さく丸まって泣きじゃくっていた。
レオナールが手配した侍女が室内に入ってきて、ミレーヌの肩を優しく抱き起こす。
「ベル男爵令嬢。ご実家への馬車を手配しております。今夜はお帰りなさい」
クラリッサがそう告げると、ミレーヌはビクッと体を震わせた。
彼女は侍女に支えられながら立ち上がり、重い足取りで扉へと向かう。
そして、クラリッサのそばを通り過ぎる瞬間。
「……クラリッサ様」
蚊の鳴くような、微かに震える声だった。
クラリッサが視線を向けると、ミレーヌは俯いたまま、絞り出すように小声で告げた。
「殿下は……私が王太子妃になるところまで望んでいるなんて、一度も……聞いてくれませんでした……」
「……ええ。今、聞いたわ」
クラリッサが短く応じると、ミレーヌは小客間を飛び出していった。
小さな足音が扉の向こうへ消える。クラリッサの胸に残ったのは、敵を退けた快感ではなく、これまで彼女を怯えさせてきた自分への苦い痛みだった。
静まり返った室内で、クラリッサは長く息を吐いた。
(さて……明日の審議、どうやって落とし前をつけてやろうかしら)
二十一歳の令嬢の身体の奥底で、四十九歳の肝っ玉母さんが、腕まくりをして立ち上がろうとしていた。




