第1話 婚約破棄? まずご両親に話を通しなさい
「クラリッサ・アルヴェイン! 僕は今この場をもって、君との婚約を破棄する!」
本来なら、そこで泣き崩れていた。
けれど王太子ジュリアンの声が王宮の大広間を貫いた瞬間、クラリッサの脳裏へ、スーパーの特売日と、反抗期の息子と、収拾のつかないPTA会議が雪崩れ込んだ。
三人の子を育て上げた四十九年。
そして、未来の王妃になるために費やしたクラリッサとしての二十一年。
彼女は折れかけた膝に力を戻し、扇を閉じた。
「ジュリアン殿下。そのお話、ご両親には通してありますの?」
「……は?」
楽団の弓が宙で止まったまま、数百人の招待客が階段の上を見上げていた。
ジュリアンの隣には、小柄なミレーヌ・ベル男爵令嬢がいる。王太子に手を握られ、顔色をなくしていた。
「王族の婚約解消です。国王陛下と王妃陛下のご承認をいただいているのでしょう?」
「い、いや、まだだ。だが父上たちも、僕たちの真実の愛を知れば――」
「では、私の父には?」
「それも、これからだ。これは僕の人生だ。僕の意思で決めて何が悪い!」
扇の陰で、ひそひそ声が走った。
八歳で交わされた婚約には、王家と筆頭公爵家の署名があり、枢密院の登録がある。そのどこにも知らせず、大夜会で宣言だけしたらしい。
(あんた、自分一人で生きているつもりなの)
胸は痛かった。
十三年分の勉学も、我慢も、ジュリアンを支えようとした少女の気持ちも、丸ごと踏みにじられたのだ。前世を思い出したからといって、傷が消えるわけではない。
それでも今は泣くより先に、止めなければならないものがあった。
「僕は、心優しく僕を愛してくれるミレーヌを伴侶に選ぶ! 彼女こそ未来の王妃にふさわしい!」
その言葉で、ミレーヌの指が跳ねた。
握られた手を握り返すどころか、逃がしてほしそうにこわばっている。
「ベル男爵令嬢」
クラリッサは声を一段落とした。
「あなたは、王太子妃になる話まで聞いていたの?」
ミレーヌはジュリアンを見上げた。唇を震わせ、とうとう首を横に振る。
「いいえ……。私は、殿下のおそばにいられればと……王太子妃になるなんて、一度も聞いておりません」
「ミレーヌ!?」
「お慕いしているのは本当です。でも、そんな大役は……!」
悲恋の舞台だったはずの大階段から、音を立てて化粧板が剥がれた。
「君ならできる。僕が支える!」
「殿下」
クラリッサの声が低くなる。
「好きな人から、男爵家の一年分の収入ほどある首飾りを贈られて、国中の利害を背負う席に座れと言われたら、笑って頷くしかないとお思いですか」
「僕たち二人の問題だ! 僕の婚約なのだから、僕が終わらせる!」
「いいえ。王太子殿下の婚約は、国家登録契約です」
男の声が、ざわめきを切った。
人垣が割れ、漆黒の夜会服をまとった長身の男が進み出る。国王の異母弟にして、王位継承権を放棄した独立公爵家当主。王室調停官レオナール・ローデン公爵だった。
「双方の当主の署名、国王陛下の承認、枢密院への登録を経た契約です。当事者一人の宣言で消えるものではありません」
「叔父上、ですが――」
「あなたの発言は、勇気ある決断ではない。手続きを欠いた契約不履行の予告です。調停官の権限により、今夜の宣言を無効として記録します」
ジュリアンの顔が赤くなり、次いで白くなった。
レオナールは彼を追い詰める言葉を重ねず、最初にクラリッサへ視線を向けた。
「立てますか」
なぜ平気なのかとも、どうしたいのかとも、今は聞かなかった。
クラリッサは一度だけ息を吸い、頷く。
「ええ。立てます」
泣くのは後でいい。
まずは、この大騒ぎを仕切り直させる。




