第39話 まず、あなたに聞きます
冬至会議が終わり、重臣たちが去った王宮の回廊。
雪が静かに舞い落ちる中、「これで、あなたは誰の婚約者でもありませんね」というレオナールの言葉に、クラリッサは静かに頷いた。
「少し、歩きましょうか」
レオナールはクラリッサをエスコートし、人目のない王宮の庭園へと通じる小道を進んだ。
冷たい冬の空気が頬を刺すが、彼の腕から伝わる体温が、不思議と心を落ち着かせてくれる。二人は、雪よけの屋根がついた庭園の東屋へと入り、向かい合うようにして立ち止まった。
レオナールは、いつもの冷徹な調停官としての表情を崩してはいなかったが、その黒い瞳の奥には、隠しきれない明確な熱が宿っていた。
「以前、お話ししましたね」
彼が、静かに切り出す。
「冬至会議が終わり、あなたがすべてのしがらみから解放され、誰の婚約者でもなくなった時……あなた個人に、申し込みたいことがあると」
「はい」
クラリッサの胸の奥で、心臓が早鐘を打ち始める。
「その前に、一つだけよろしいかしら」
クラリッサは、彼の言葉を遮る無礼を承知で、どうしても確認しておかなければならないことを口にした。
「私は、王太子妃の代わりとして、王家の役割に戻るつもりはありません」
それは、彼女にとって絶対に譲れない一線だった。
二十一年間、自分を縛り付けていた完璧な王妃という『役割』。そこからようやく法的に自由になれたのだ。いくら目の前の彼を好ましく思っていても、彼と結ばれることで再び王室の重圧と義務の檻に入れられるのであれば、この先へ進むことはできない。
しかし、レオナールは微かに口角を上げ、柔らかく首を横に振った。
「ご心配なく。私は成人した際、自らの請願によって王位継承権を完全に放棄し、独立した公爵家を立てております」
「ええ、存じておりますわ」
「ゆえに、私の妻に、王太子妃や王妃と同等の恒常的な王室公務や、過酷な教育が課されることはありません。私はただの一貴族として、あなたと共に在りたいだけです。……あなたに、望まない役割を押し付ける気は毛頭ない」
レオナールの言葉は、クラリッサの抱えていた最大の懸念を完全に払拭するものだった。
彼は、彼女を『王室の飾り』や『都合のいい役割』として求めているのではない。ただ、クラリッサ・アルヴェインという一人の女性を求めているのだ。
クラリッサは深く息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。
「……分かりました。遮ってしまってごめんなさい。続けてくださいませ」
レオナールは姿勢を正し、クラリッサのプラチナブロンドの髪と、その奥にある瞳を真っ直ぐに見据えた。
「クラリッサ嬢」
「はい」
「私は、今日この日を迎えるにあたり……国王陛下にも、あなたの父君であるアルヴェイン公爵にも、事前の根回しを一切しておりません」
その言葉に、クラリッサは少しだけ目を瞬かせた。
貴族の婚姻は家同士の契約だ。本来であれば、本人に想いを伝える前に、まず当主同士で話を通し、許可を得てからプロポーズに臨むのが正しい『段取り』である。
常に秩序と手続きを重んじる王室調停官である彼が、その慣例をあえて外したのだ。
「親に話を通す以前に、家同士の契約を結ぶ以前に」
レオナールは、一歩だけクラリッサに近づいた。
「誰よりもまず、あなた本人の意思を聞きたかったのです」
「結婚という契約を、今すぐ結んでくれとは言いません。……私と、付き合っていただけませんか」
レオナールの言葉は、どこまでも誠実だった。
いきなり「結婚してください」と逃げ道を塞ぐのではなく、一人の男女として、互いを知るための「交際」からの申し込み。
クラリッサは、自分が最も欲しかった『順番』を完璧に守ってくれた彼の真摯さに、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(なんて、素敵な人だろう)
涙が出そうになるほど感動し、今すぐにでも「はい」と頷こうとした、その時だった。
(……待って。でも彼、三十二歳よね。前世の長男と、五歳しか違わないのよね……?)
絶好のロマンチックな空気の中で、クラリッサの脳裏に、前世のおばちゃんとしての厄介な葛藤が、最後の最後にひょっこりと顔を出してしまった。
二十一歳の身体としては十一歳年上の頼れる大人の男性だが、四十九歳の魂からすれば、どうしても「息子世代」という意識が拭いきれない。こんな立派な男性を、自分が捕まえてしまっていいのだろうか。
「……」
クラリッサが、感動の表情から一転、不意に眉間に皺を寄せて難しい顔で沈黙してしまったため、レオナールが少し不安そうに問いかけた。
「クラリッサ嬢? 何か、懸念が?」
「あ、いえ……その……」
クラリッサは顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
「少しだけ、あなたの年齢が……前世の息子に近かったもので。私なんかが、という思いが……」
人生最大の告白の場で、まさかの「息子に近いから」という理由で躊躇される。
レオナールは一瞬ポカンとした後、呆れたように、しかし心底楽しそうに低く笑い声を上げた。
「また、それですか」
「だって、事実ですもの……」
「では、聞きますが」
レオナールは笑いを収め、クラリッサの目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「あなたは、この三ヶ月間。私が調停官として下した判断や、あなたと交わした議論の言葉を……ただの一度でも、『手のかかる息子』のものとして見たことがありますか?」
その問いに、クラリッサはハッとした。
思い返せば、彼と意見を戦わせた時、彼に自分の過干渉を厳しく指摘された時、そして、彼が自分の非を認めて頭を下げた時。
クラリッサは彼を「子ども」扱いしたことなど、ただの一度もない。
彼は常に、クラリッサにとって「対等な一人の大人の男性」であり、頼れる相棒だった。前世の年齢だの、息子世代だのというのは、単に自分が新しい関係に踏み出すのを怖がって作り出した、見当違いのブレーキに過ぎなかったのだ。
「……いいえ」
クラリッサは、憑き物が落ちたように、柔らかく微笑んだ。
「ありませんわ。あなたは、私にとって誰よりも頼りになる、一人の男性です」
「ならば、その前世の記憶の計算式は、今日をもって捨ててください」
レオナールがそっと右手を差し出すと、クラリッサは迷うことなく、その手の上に自らの手を重ねた。
「はい。……喜んで、お受けいたします。レオナール様」
手袋越しに伝わる、確かな大人の熱。
二人の間に、「世話をする・される」ではない、一人の男女としての対等で静かな恋愛関係が、今、正式に成立した。
「ありがとう。……これでようやく、次の段階へ進めますね」
レオナールが、心底安堵したような、深い喜びの笑みを浮かべる。
それを見たクラリッサは、ふふっと楽しげに笑い、いつもの有能な公爵令嬢の顔に戻って告げた。
「ええ。じゃあ、まずはそのあとで、両家にお話を通しましょうか」
かつて、愛のない婚約破棄を止めるために放ったその言葉は。
今度は、二人にとって最も幸せな未来の『段取り』として、雪降る庭園に優しく響き渡った。




