第40話 今日は、誰のお母さんにもなりません
冬至会議から半年。
凍てつく雪に閉ざされていた王都は、眩しい初夏の陽光と、爽やかな緑の風に包まれていた。
アルヴェイン公爵家別邸のサンルームで、クラリッサは優雅に紅茶の香りを楽しみながら、届けられたばかりの王宮からの報告書に目を通していた。
今年の春の社交季は、クラリッサは運営の表舞台から完全に身を引いていた。彼女が立ち上げた「当事者同士の対話の場」は、エレノア王妃やベアトリス夫人、そしてセリアやエマといった自立した若手貴族たちの持ち回りで運営され、見事なまでに機能している。
(……ええ。私がいなくても、世界はちゃんと回っているわ)
以前のクラリッサであれば、「自分が必要とされていない」という事実に不安を覚え、無理にでも介入しようとしただろう。
だが今の彼女の胸にあるのは、喪失感ではなく、心からの安堵と誇りだった。自分が「正解」を与えなくても、誰もが自分の足で立ち、自分の言葉で問題を解決している。それは、クラリッサが過干渉という自分の弱さを乗り越えたからこそ見ることができた、美しい景色だった。
デスクの端には、隣国へ渡ったアメリア王女からの手紙が置かれている。
そこには、エドワード王子と共に国境付近の領地を視察し、時に意見を激しく戦わせながら、両国の実務的な基盤を築いているという、ひどく逞しい近況が綴られていた。彼女は「国のために我慢する犠牲者」ではなく、国を牽引する対等なパートナーとして、水を得た魚のように生き生きと躍動している。
一方、かつての婚約者であったジュリアン王太子は、国境付近の地方都市で、泥に塗れながら厳しい実務研修に明け暮れているという。
そしてミレーヌ・ベル男爵令嬢は、王都の女子学院で、慣れない分厚い書物と格闘し、世の中の仕組みを必死に学び直している。
あの日から半年、二人は一度も会っていない。手紙のやり取りすら、最小限の事務的なものに留めているそうだ。
だが、二人は決して立ち止まっているわけではない。一年後、もう一度正面から向かい合うというあの『約束』のために、それぞれの場所で、自分の責任と人生に向き合っているのだ。
(もう誰も、私のお節介なんて必要としていないわね)
クラリッサは、手紙を木箱にそっとしまい、サンルームの窓から広がる青空を見上げた。
王太子妃候補として埋め尽くされていた予定表は、もうクラリッサの朝を縛っていない。
「お待たせいたしました、クラリッサ嬢」
サンルームの入り口から、低く穏やかな声が響いた。
振り返ると、そこには私服姿のレオナール・ローデンが立っていた。
王室調停官としての職務中は、感情を隠すような漆黒の服ばかりを着ている彼だが、休日の今日は、柔らかい茶色の外套を羽織っている。その姿は、冷徹な公爵というよりは、少しだけ年相応の青年のように見えた。
「いいえ。私も今、支度ができたところですわ」
クラリッサが立ち上がると、レオナールは自然な仕草で手を差し出し、彼女をエスコートした。
冬至会議の後、クラリッサとレオナールは正式に交際を始めた。
未婚の公爵家当主と、王太子との婚約を解消したばかりの公爵令嬢。当然、周囲の貴族たちや両親からは「結婚の時期はいつか」「すぐにでも準備を」と急かされることになった。
しかし、二人はまだ『結婚準備』には入っていない。
休日のたびにこうして会い、お茶を飲み、あるいは散歩をしながら、二人は少しずつ言葉を交わしている。
結婚という形をとるのかどうか。するのなら、いつにするか。どこに住むのか。レオナールの調停官としての仕事と、クラリッサが新しく始めようとしている領地経営の勉強を、どう両立させるのか。
すぐに白黒をつけて、誰かが用意した「結婚」というお決まりの枠に飛び込むことはしない。答えを急がず、互いの違いを認め合いながら、対等な大人としての中間点を探り続ける。
それは、面倒な『段取り』の連続だ。だが、その面倒さこそが、二人にとっては何よりも得難く、贅沢な時間だった。
「本日は、答えを決めるための話し合いはなし、という約束でしたね」
別邸の玄関を出て、待たせていた馬車へ向かう道すがら、レオナールが少しだけ楽しげに言った。
今日は、将来のすり合わせをする日ではない。ただの恋人同士として、お忍びで王都の街を歩くための休日だ。
「ええ。今日は、ただの息抜きですわ」
「……ならば、一つだけ確認させてください」
レオナールは馬車の扉を開け、クラリッサの手を取ったまま、少しだけ意地悪く目を細めた。
「今日は、街の誰の問題にも首を突っ込まず、誰の世話も焼かないと、私に約束していただけますか?」
その言葉に、クラリッサは思わずふふっと吹き出した。
「私をなんだと思っていらっしゃるの。いくら私でも、街行く人の喧嘩の仲裁に入ったり、若い恋人たちの説教を始めたりはしませんわよ」
「あなたの有能さと人の良さは、無自覚に発動しますからね。私は今日一日、あなたの関心を独占したいのです」
涼しい顔で、さらりと甘いことを言う。
クラリッサは、少しだけ頬を熱くしながら、彼にエスコートされて馬車に乗り込んだ。
「ええ。お約束しますわ」
クラリッサは、向かいの席に座ったレオナールに、心からの笑顔を向けた。
「今日は、誰のお母さんにもなりません」
王妃候補としての予定表も、母として家族を回していた家計簿も、今日はどこにもない。
クラリッサは空いた両手を膝に置き、肩の力を抜いた。
「それは重畳」
レオナールが、安堵したように、そして深く愛おしむように微笑む。
「では、クラリッサ。今日は二人で、どこへ行きましょうか」
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外には、どこまでも高く青い、夏の始まりの空が広がっていた。
クラリッサは、もう誰のためでもない、自分自身の人生の時間を味わうように、弾む声で答えた。
「そうですね。――まずは、私がずっと食べてみたかった、あの街角の甘い焼き菓子を買いに行きませんか?」




