第37話 今日は、私が黙る番
隣国との最終交渉の日。
大会議室の中央で、アメリアは自筆の付帯条項を読み上げた。
「第一に、婚姻後も外交会議へ出席し、両国に関する案件へ意見を提出する権利。第二に、ルーヴェル王室との直通書簡を検閲なしで往復できること。第三に、私個人の財産と侍女団の任免権を保持すること」
隣国大使は、一項目目で眉を上げ、二項目目で書記官と顔を見合わせた。
「王女殿下。私有財産は認められましょう。しかし、王妃が外交会議へ常時出席する先例はありません。検閲を受けない外国との書簡も、我が国の安全上、受け入れがたい」
「私は両国を結ぶために嫁ぎます。片方の国と自由に話せない架け橋は、橋ではなく人質です」
低いざわめきが起きた。
大使の視線が、壁際のクラリッサへ向く。
「アルヴェイン公爵令嬢。これは、あなたのご指南ですかな」
反論が喉まで上がった。
だがクラリッサが答えれば、交渉相手はアメリアから自分へ移る。
今日は、私が黙る番だ。
クラリッサは首を横に振り、口を閉じた。
「私が考えました」
アメリアは大使から目を逸らさない。
「常時出席が先例に反するなら、両国案件を扱う合同評議会を新設し、私に議席を一つ。直通書簡が安全上の問題なら、両国から一名ずつ選んだ封印官が、開封せず封蝋だけを照合する制度を。内容の検閲は認めません」
大使は即答しなかった。
交渉は休憩を挟み、二刻に及んだ。
隣国側は、合同評議会における拒否権を認めない代わりに発言と議事録への異議記載を認めると提案した。アメリアは、緊急時に第一王子と共同で一度だけ再審議を要求できる条項を加えた。
侍女団の任免も、全員を自国から連れていく案は退けられた。アメリアは半数を隣国出身者とし、その選定に自分の同意を必要とする形へ譲った。
「王女殿下は、ずいぶん細かいところまでお考えだ」
疲れのにじむ大使の言葉に、アメリアは水を一口飲んだ。
「細かいところに、毎日の暮らしはありますから」
クラリッサは危うく笑いそうになった。自分が教えた覚えのない、見事な返しだった。
最後に残ったのは、検閲なしの書簡だった。
「ここだけは譲れません」
「我が国も、無条件では認められません」
大使が、第一王子から預かってきたという封書を開いた。
『彼女を対等な相手として求めるなら、故郷への声を奪ってはならない。封印官制度に同意する』
第一王子本人の署名があった。
大使は長く息を吐き、ついに頷いた。
「では、王子殿下のご意思も踏まえ、その案で条文を整えましょう」
成立したのは、アメリアの要求を丸ごと通した夢の契約ではない。相手国も譲り、こちらも譲り、暮らしに直結する線だけは守った現実の合意だった。
国王が承認を告げると、アメリアは椅子へ座り直した。膝の上の手が震えている。
退室の列でクラリッサの前を通った時、アメリアは小声で囁いた。
「怖かったです」
「ええ」
「でも、私が選びました」
クラリッサは深く目礼した。
「お見事でした」
代わりに戦わなかったからこそ、言える言葉だった。
会議室に残ったベアトリス夫人は、修正だらけになった条文を指でなぞった。
「押しつけられた完璧な契約より、本人が交渉した不格好な契約の方が、長持ちするのかもしれませんね」
「不格好ではありませんわ。毎日使える形になったのです」
夫人は小さく笑い、次の冬至会議へ提出する制度案の束を持ち上げた。
「では、これも毎日使える形にいたしましょう」




