第36話 政略結婚を選んでも、負けじゃない
三つの選択肢が提示された日から数日後。
王宮の応接室には、穏やかな秋の陽射しが差し込んでいた。その光に照らされるようにして、アメリア王女と、隣国の第一王子であるエドワードとの、非公式な顔合わせの場が設けられていた。
クラリッサは社交季責任者として、そしてレオナールは王室調停官として、部屋の壁際に立ち会っている。
政略結婚の相手といえば、横暴で冷酷な人物、あるいは腹に一物ある老獪な男を想像しがちだ。特に今回は、ルーヴェル王国の「王太子の婚約破棄騒動」という弱みにつけ込まれる形での縁談である。
だが、現れた隣国第一王子エドワードは、二十代半ばの、ひどく生真面目で実直な空気を纏った青年だった。
「お初にお目にかかります、アメリア王女殿下。本日はこのような機会をいただき、光栄の至りです」
エドワード王子は、華美な装飾のない軍服に近い正装で、深く、礼儀正しいお辞儀をした。
「ようこそおいでくださいました、エドワード王子殿下」
アメリアもまた、完璧な所作でそれに応える。二人の間には、初対面ゆえの緊張感はあるものの、決して嫌な空気は流れていなかった。
形式的な挨拶が終わり、お茶が運ばれてくると、エドワード王子は居住まいを正し、真っ直ぐにアメリアを見つめた。
「アメリア殿下。本日は、我が国の偽らざる事情と、私があなたに何を求めているかを、正直にお話ししたいと思って参りました」
「……はい。伺います」
「我が国は武に秀で、軍事力には自信がありますが、文化や内政、とりわけ他国との細やかな外交手腕においては、歴史ある貴国から学ぶべきことが多くあります」
エドワード王子の言葉は、飾り気がなく、ひどく率直だった。
「私はあなたに、ただの飾りとしての王妃や、両国を繋ぐための『人質』として輿入れしてほしいわけではありません。あなたの聡明さと、王族としての責任感の強さは、我が国の使節を通じても耳にしております。……どうか、共に国を治め、新しい時代を築くための、良きパートナーとなってはいただけないでしょうか」
その言葉に、アメリアは小さく息を呑んだ。
クラリッサも、壁際で静かに目を見張っていた。
アメリアはこれまで、「国のために自分を殺し、我慢すること」だけを美徳として生きてきた。個人の感情や才能など、政治の場では不要だと信じ込んでいた。
だが、目の前の青年は、彼女のその真面目さや責任感を「重荷」や「便利な道具」としてではなく、共に国を運営するための『価値ある武器』として正面から評価してくれたのだ。
「私を、パートナーとして……」
「はい。もちろん、遠い異国へ嫁ぐことの不安は計り知れないでしょう。ですから、どんな条件でも構いません。あなたが安心できる環境を整える努力は、惜しまないと約束いたします」
エドワード王子は、真摯な眼差しでそう締めくくった。
約一時間の顔合わせは、終始穏やかで、前向きな空気の中で終了した。
エドワード王子が退出し、応接室にはアメリア、クラリッサ、そしてレオナールの三人が残された。
扉が閉まった瞬間、張り詰めていたアメリアの肩がふっと下がり、その頬が微かに紅潮した。
「……とても、誠実な方でした」
アメリアは、手元のティーカップを見つめながら、ポツリとこぼした。
「私という人間を、単なる『王女』という記号ではなく、一人の人間として、きちんと見てくださった気がします」
その声には、以前のような「我慢して犠牲になる」という悲壮感はなく、年相応の弾んだ響きが含まれていた。
アメリアは顔を上げ、クラリッサを頼るように見つめた。
「クラリッサ様。……私がこの縁談を受ければ、国にとっても最善の道だと……そう、仰っていただけますか?」
それは、最後の一歩を踏み出すための、大人への「保証」の要求だった。
前世の、世話焼きな母親のクラリッサであれば、ここで間違いなく「ええ、素敵な方じゃない! あなたを大切にしてくれるわ、絶対に行きなさい!」と背中をドンと押していただろう。あるいは、逆に相手が気に入らなければ「政略結婚なんてやめなさい!」と引き止めていたかもしれない。
そうやって大人が「正解」を与えてあげれば、子どもは安心するからだ。
だが、クラリッサはテーブルの下で自分の手を握りしめ、優しく、しかし確固たる意思を持って首を横に振った。
「……いいえ。私は、何も言いませんわ」
「え……?」
「彼が良い人かどうか。この縁談が国にとって最善かどうか。それを私が保証して、あなたの代わりに決めることはできません。大事なのは、あなたがどう生きたいか、あなたが何を選ぶかです」
クラリッサは、答えを渡す代わりに問いを返した。
「あなたが『自分の意思』で決めない限り、この結婚は結局のところ『誰かにさせられた我慢』になってしまいます。私はもう、あなたから考える権利を奪ったりはしないわ」
求めた保証をもらえず、アメリアはハッとしたように目を丸くした。
しかし、すぐにその意味を理解し、深く、長く息を吸い込んだ。
誰かに「正解です」と言ってもらわなくていい。
私が、選んでいい。私が、決めていい。
アメリアの目から、最後に残っていた『優等生』としての迷いが完全に消え去り、次代の王族としての、自立した確かな光が灯った。
「……分かりました」
アメリアは、毅然と顔を上げた。
そして、傍らで静かに立会人を務めていたレオナールに向かって、力強い声で要求した。
「レオナール公爵。……白紙と、ペンをいただけますか」
「かしこまりました、アメリア殿下」
レオナールは、手早く準備をして彼女の前に置いた。
アメリアはペンを握り、真っ白な紙に向かった。
「私は、この縁談を受けます。ですが、ただ相手の要求を呑むだけではありません。私がパートナーとして実務を担うための権限の保証。そして、我がルーヴェル王国との連絡体制の確保。……向こうが『どんな条件でも構わない』と言ったのですから、私からも、両国が対等であるための条件をしっかりと提示させていただきます」
サラサラと、迷いのない筆致で、彼女自身の人生の条件が書き出されていく。
クラリッサは、その姿を黙って見守りながら、胸の奥が震えるような感動を覚えていた。
(……これで、大丈夫ね)
私が先回りして守ってやらなくても、彼女たちは自分の力で、こんなにも力強く未来を切り開いていける。
クラリッサが「お母さん役」を完全に手放した瞬間。
アメリア王女の最終交渉に向けた準備は、誰に強制されることもなく、彼女自身の意志によって力強く進められていった。




