第35話 私には、もう一つの人生があります
アメリア王女が退出した後の執務室は、すっかり夜の帳に包まれていた。
クラリッサは、魔石灯の柔らかい光の下で、レオナールが持参した分厚い外交文書と格闘していた。隣国が提示してきた三つの条約履行案について、アメリアが客観的に比較検討できるよう、分かりやすい資料にまとめるためだ。
「……できましたわ。これが、三つの案の利点と負担の比較表です」
クラリッサが書き上げた数枚の羊皮紙を差し出すと、向かいの席に座っていたレオナールがそれを受け取り、素早く目を通した。
一つ目は、『王女との婚姻』。
利点は、両国間に強固な血縁関係が生まれ、長期的な同盟がほぼ確約されること。負担は当然、アメリア王女個人が遠い異国へ嫁ぎ、未知の環境で生きることを強いられること。
二つ目は、『軍事協定の強化』。
国境警備に関する費用と人員を、ルーヴェル王国側が大幅に追加負担することで、同盟の証とする案だ。王族が血を流さない代わりに、国家の財政と軍事力に重い負担がかかる。
三つ目は、『特定の鉱物資源の十年間通商保証』。
隣国が欲している希少鉱物を、市場価格よりも安く、優先的に十年間にわたって供給し続けるというもの。これもまた、国庫の収入を長期間削る痛みを伴う。
「見事です」
レオナールは、資料を机に置き、静かに頷いた。
「特定の案へ誘導するような主観的な記述が一切ない。これならば、アメリア殿下も純粋な判断材料として、ご自身で熟考することができるでしょう」
「ええ。どれを選んでも、国か彼女自身のどちらかに痛みが伴う。でも、だからこそ、何を選ぶかは彼女自身が決めるべきですわ。……もう、勝手に答えを決めてしまおうとは思いません」
クラリッサが自戒を込めて言うと、レオナールは温かい紅茶を淹れ直し、彼女の前にそっと置いた。
「ありがとうございます」
一口飲むと、冷えた身体にじんわりと熱が広がっていく。
静寂に包まれた夜の執務室。向かいには、自分の失敗も脆さもすべて知った上で、対等な仕事の相棒として寄り添ってくれる大人の男がいる。
クラリッサは、ティーカップを見つめながら、不意に口を開いていた。
なぜ自分が、あんなにも他人の人生に先回りし、答えを与えようとする『過干渉な母親』のように振る舞ってしまったのか。その根本的な理由を、彼には隠しておきたくないという強い衝動に駆られたのだ。
「……レオナール様」
「はい」
「私が時折、やけにお節介で、まるで母親のように誰かの世話を焼こうとしてしまう理由……聞いていただけますか?」
レオナールは少し驚いたように目を細めたが、すぐに「ええ。あなたが話したいと思うことなら」と静かに頷いた。
クラリッサは、一度深く深呼吸をしてから、紡ぎ始めた。
「荒唐無稽な話だと笑われるかもしれませんが……私には、もう一つの人生の記憶があるのです」
その言葉に、レオナールの手元が微かに止まる。
「秋の夜会で、ジュリアン殿下に婚約破棄を突きつけられたあの瞬間。強い衝撃の中で、私は別の世界で生きていた、もう一人の自分の記憶を取り戻しました」
クラリッサは、日本という国で生きた四十九年間の人生を語った。
お見合いに近い形で夫と出会い、平凡だが温かい家庭を築いたこと。
三人の子どもを産み、無我夢中で育て上げたこと。
そして、良かれと思って子どもの進路に口出しし、長女から「私の人生を勝手に決めないで」と泣きながら拒絶された痛ましい後悔。
「私がロザリー嬢の婚約に過剰に介入してしまったのは、その前世での『お節介な母親』としての性分が、どうしても抜けきらなかったからです。……自分がいなくても世界は回っていくという事実が怖くて、誰かの役に立つことで、自分の存在価値を確かめたかった。ただの、独りよがりな善意でした」
クラリッサは、すべてを吐き出し、静かに目を伏せた。
王族の血を引く公爵令嬢が、別の世界で生きた平民の記憶を持っているなどと言えば、正気を疑われるか、気味悪がられてもおかしくない。
だが、レオナールは長く静かな沈黙の後、小さく、納得したような息を吐き出した。
「……なるほど。そういうことでしたか」
「レオナール様……?」
「不思議と、驚きよりも納得の方が大きいです」
レオナールはティーカップを置き、クラリッサを真っ直ぐに見つめた。
「あなたが時折見せる、二十一歳の令嬢らしからぬ老成した視点。他人の結婚の条件を実務的に整理する手腕。そして、危ういほどの自己犠牲的な母性。……あなたという人間のアンバランスな魅力の理由が、今、すべて腑に落ちました」
彼は、クラリッサを狂人扱いも、珍獣扱いもしなかった。
「……気持ち悪く、ありませんか?」
「なぜですか?」
レオナールは、ふっと柔らかく微笑んだ。
「前世がどこに住む誰であろうと、私が今、目の前で見ているあなたは、迷いながらも他人の意思を尊重しようと戦っている、クラリッサ・アルヴェインという一人の女性です。あなたの魂が培ってきたその四十九年の経験もすべて含めて、私はあなたを好ましく思っています」
ドクン、と。
クラリッサの心臓が、跳ね上がった。
『好ましく思っている』。その言葉が持つ明確な熱量に、息が止まりそうになる。
彼女が最大の秘密を共有してくれたことに応えるように、レオナールもまた、自身の内にある感情を隠すことをやめたのだ。
「私は調停官として、他人の人生に深入りしないことを信条としてきました」
レオナールは、ゆっくりと立ち上がり、机越しにクラリッサのすぐそばまで歩み寄った。
「距離を取ることが相手への尊重だと言い訳をして、安全な場所から傍観する生き方を選んできた。……ですが、あなたに対しては、もうその安全な距離を取るつもりはありません」
至近距離から見下ろす彼の瞳には、大人の男としての逃げ場のない熱が宿っていた。
クラリッサは顔を真っ赤にしたまま、声を失った。
彼が前世の息子に近い年齢だという計算は、消えたわけではない。
けれど、四十九年の記憶だけが本物で、二十一年を生きたクラリッサが借り物というわけでもなかった。泣き、学び、この人と机を挟んで意見を戦わせてきた時間も、すべて自分のものだ。
今すぐ答えを出せなくても、年齢の数字だけで彼の想いを子ども扱いするのは違う。
だが、レオナールはそこから先へは踏み込まなかった。
彼はクラリッサの手に触れることもなく、ただ一歩だけ後ろへ下がり、王族としての礼節を保った姿勢に戻った。
「とはいえ、今はまだ、あなたは王太子殿下との婚約審議中です。明朝、国王陛下へ私情の届けを出し、最終裁定の審議と採決から退きます。調査報告だけを提出し、結論には触れません」
「そこまでなさるの?」
「調停官の立場と、あなたへの感情を同じ卓上に置くわけにはいきません」
「ですが……冬至会議が終わり、あなたが誰の婚約者でもなくなり、すべてのしがらみから解放された時」
レオナールの声が、夜の執務室に甘く、静かに響く。
「その時、あなた個人に、申し込みたいことがあります」
「もちろん、断られても、あなたの立場にも仕事にも何ひとつ不利益は生じません」
レオナールは返事を求めず、一歩下がった。
その節度が、かえってクラリッサの胸を強く締めつけた。
なんてずるくて、素敵な人だろう。
彼女は、熱くなった頬を両手で少しだけ押さえ、やがて、これ以上ないほど美しい、公爵令嬢としての矜持を持った笑みを浮かべた。
「……ええ。お言葉、心に留めておきますわ」
クラリッサは、あえて答えを返さなかった。
そして、テーブルの上にあるアメリアのための比較資料をトントンと揃え、未来へ向けた約束の言葉を紡いだ。
「――まず冬至まで、今の私たちの仕事を終えましょう」
「はい。必ず」




