第33話 一年後も好きなら、もう一度来てください
ジュリアンが復縁案を拒んだ翌日、王妃のもとへミレーヌ自身の手紙が届いた。
『殿下のお話を聞く前に、私からお伝えしたいことがあります。立会人のもとで面談の機会をください』
誰かに書かされた文ではなかった。面談の日取りも、同席者の条件も、ミレーヌが自分で申し入れた。
数日後、王宮の静かな面会室に公式の場が設けられた。
上座には、立会人としてエレノア王妃と王室調停官レオナール・ローデン公爵。そしてクラリッサも、一連の騒動の当事者の一人、そして見届け役として同席を許されていた。
静寂の中、扉が開く。
案内されて入室してきたのは、ミレーヌ・ベル男爵令嬢だった。
秋の夜会でジュリアンの横でただおどおどと震えていた時や、クラリッサの執務室で王太子妃の実務の重圧に顔を青ざめさせていた時とは違い、今日の彼女は、緊張しながらも凛とした足取りで部屋の中央へと進み出た。
そして、向かい側の席で待っていたジュリアン王太子の前に、静かに腰を下ろした。
「……ミレーヌ」
ジュリアンが、少しだけ掠れた声で彼女の名前を呼んだ。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます、殿下」
ミレーヌは、王族に対する完璧な礼をとってから、真っ直ぐにジュリアンを見つめ返した。
「いや、僕の方こそ、君に会って話す機会をもらえて感謝している」
ジュリアンは、膝の上で両手を強く握りしめ、ゆっくりと、深く頭を下げた。
「秋の夜会で、君の意思を一切確認せず、大勢の前で一方的に君を巻き込んでしまった」
「僕は、君を『悲劇のヒロイン』という都合のいい枠に押し込めた。愛していると言いながら、君を傷つけ、怖がらせた。……本当に、すまなかった」
ミレーヌは少しだけ目を伏せ、「……はい」と静かにその謝罪を受け取った。
「それで……今日は、僕の想いを伝えに来たのではなくて」
ジュリアンは一度、王妃へ戻された手紙に触れるように胸元を押さえた。
「ミレーヌ。君がこれからどうしたいのか、聞かせてほしい」
問われたミレーヌは、小さく息を吸い込んだ。
王妃や調停官、そして公爵令嬢であるクラリッサが見守るこの威圧的な空間で、ただの男爵令嬢である彼女が本音を口にするのは、並大抵の勇気ではできないはずだ。
だが、ミレーヌの瞳は決して揺らがなかった。
「殿下のお優しさに惹かれたのは、事実です」
ミレーヌは、静かに、けれどはっきりと紡いだ。
「私のような身分の低い娘にも分け隔てなく接してくださり、真っ直ぐにお言葉をくださる殿下を……お慕いする気持ちに、嘘はありません」
ジュリアンの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ですが」
ミレーヌは、ジュリアンの甘い期待をすぐに打ち消した。
「私には、王太子妃という重責を背負う覚悟はありませんし、その資格もありません」
「ミレーヌ……」
「この数週間、様々なことに巻き込まれる中で、私は自分の無知と未熟さを痛感いたしました。自分の気持ちすら上手く言葉にできず、周りの方々に流されるばかりで……このままでは、誰の隣に立ったとしても、私はただのお荷物にしかなりません」
「ですから、私は一度、宮廷から離れたいと考えております。王都の女子学院に入り直し、一年間、きちんと学問と世の中の仕組みを学び直したいのです。……自分の足で、立てるようになるために」
クラリッサは膝の上の扇を握りしめた。今度は、口を挟みたいという衝動は起こらなかった。
「……そうか」
ジュリアンは、少し寂しそうに微笑んだが、その決断を否定することはなかった。
「君の意思は、よく分かった。君の学びを、心から応援するよ」
ジュリアンは一つ頷き、すがるような目をして尋ねた。
「一年後……君が学院を卒業した時、僕は、君を迎えに行ってもいいだろうか? 待っていても、いいだろうか」
ミレーヌは、その問いに少しだけ考える素振りを見せ、やがて柔らかく微笑んだ。
「一年後も、殿下のお気持ちが変わらないのであれば……その時はまず、私の父に挨拶にいらしてください」
クラリッサは、秋の開幕夜会で自分が放った言葉を思い出した。
同じ段取りが今度は、ミレーヌ自身の選択を守るために使われていた。
「父の許可を得て、正式な手順を踏んだ後で……私に、改めて聞いてください」
ミレーヌは、ジュリアンを真っ直ぐに見据えた。
「でも、その時の私の答えが『はい』とは限りません。あなたが王太子というお立場にある限り、私はまた、お断りするかもしれない。……それでも今度は、私に聞いてください」
「……ああ、約束する」
ジュリアンは頷く前に、一度、息を呑んだ。
「今度は、必ず君に聞く。君が何度断ろうと、君の意思を一番に尊重すると誓おう」
二人とも、笑ってはいなかった。それでも、秋の夜会よりずっと穏やかな沈黙が、二人の間に残った。
*
面談が無事に終わり、ジュリアンとミレーヌが一礼して部屋を退出した後のこと。
面会室には、王妃、レオナール、そしてクラリッサの三人が残された。
「……立派でしたわね、お二人とも」
クラリッサが余韻に浸りながら呟くと、エレノア王妃が重い息を一つ吐き出した。
「ええ。彼ら個人の問題は、これで一つの立派な決着を見ました」
王妃は、鋭い視線をクラリッサとレオナールに向けた。
「ですが、王家が抱える政治的な問題は、まだ手付かずのまま残っています」
「政治的な問題、ですか」
クラリッサの問いに、レオナールが手元の書類を一枚、テーブルの上に滑らせた。
「ジュリアン殿下とあなたの婚約が白紙に戻ったことで、王室の威信と、隣国との結びつきが大きく揺らいだのは事実です。先日、枢密院の重臣たちが危惧していた通り……それを早急に補強しなければなりません」
レオナールのまなざしが、静かにクラリッサを射抜く。
「隣国から、正式な縁談の打診がありました」
「……!」
「我が国の、アメリア王女殿下に対する、隣国第一王子との外交婚の提案です」
クラリッサの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
危惧していたことが、最悪のタイミングで現実のものとなってしまった。
ジュリアンとクラリッサの婚約破棄という騒動のツケを払うための、都合のいい代替案。
「国のためなら自分が我慢するのは当然」と信じて疑わない、あの真面目で聡明なアメリア王女に、かつてのクラリッサと同じ『役割の檻』が覆い被さろうとしている。
「……王妃陛下。アメリア殿下は、この件について何と?」
クラリッサが震える声で尋ねると、王妃は苦渋に満ちた顔で目を伏せた。
「あの子は、『国のためなら謹んでお受けいたします』と……縁談の内容を詳しく聞きもせずに、即答しようとしました」
次のクラリッサを、作ってはいけない。
誰かの人生の答えを勝手に決めるのではなく、本人が自分の意思で選べるようにすること。
一ヶ月後に迫った冬至会議に向け、クラリッサにとって最後にして最大の試験が、今、静かに幕を開けた。




